伊田家 第三話 始まりの日_3
普段なら家の前の道路に下りる斜め勾配。
途中までは舗装したコンクリートになっていたが、そこから先は赤土の斜面になっている。幸い、新しく繋がった傾斜はそこまで急ではない。
踏んでみた赤い土壌は、思ったより硬かった。
「……なんか、固められたみたいな感じ、かな」
「そうだな」
畑とか山林の土の柔らかさとは違う、グラウンドの土のような固さ。
表面は、なぜか少しコーティングされたようなわずかな光沢さえある。
「崩れたり滑ったりはしなさそうだ」
言いながら、それでも慎重に降りていくと、赤土のエリアは六メートルほどですぐに深緑の世界へと踏み込むことになった。
「お、っと……こっちは少し柔らかい」
伊田家の敷地を越え、赤土のエリアも抜けて、森に足を踏み込むと数センチほど体重で沈み込む感触だった。
踏み固めるものがなく、木々の枯れ葉などが降り積もった腐葉土であれば、柔らかくて当然だ。
日呼壱の隣で、健一が何度か踏み慣らして状態を確かめている。
「沼みたいに沈み込むということはなさそうだな」
「とりあえずは」
柔らかすぎる土で足を取られることもあるだろう。
軽快に山林を走り回るなんてことは、よほど慣れていても簡単に出来ることではない。
(普通の状況じゃない。ここは日本じゃないんだから、いろんな危険を想像して対処しないと異世界では生き残れないってことだな)
日呼壱の知っている異世界ファンタジーでもいくつかパターンがある。
転移先、転生先で最強楽勝の場合と、その逆の場合もあるわけで。
(ここがどっちなのか、そのどちらでもないのか。わからない以上は最悪のパターンを想定して行動しないと詰む……死ぬかもしれない)
楽観しているとあっさり死ぬ。ホラー映画でも定番のその手のフラグは立てたくないと思っていた。
警戒しすぎて、何事もないのならそれでいい。
「どんな危険があるかわからないから、注意して行こう」
「……ああ、そうだな。そうする」
息子からかけられた声に、どこか嬉しそうな父親。
周囲に生えている草や枝を、鉈で払っていく。
「足元は、そんなにひどくないね」
「日光が地面まで届かないからかもな。背の高い草なんかは育ちにくいんだろう」
庭にいた時よりも薄暗い。
家は少し高い位置にあったが、森の中では木々の陰で日が差し込みにくい。
その為、植物の茂り方は極端に多くはなかった。枯葉が積もりながら腐っていく土が柔らかすぎる以外は、とても歩きづらいというわけではない。
ところどころ足首より高く草が生えている場所もあるが、そこは木々の隙間から日が差すのだろう。
「日呼……」
健一が低く声を掛ける。
その指を指す方向、前方左斜め上を見てみる。
「……リス、にしては大きい」
大木の枝に、バスケットボールほどの薄茶色の生き物がいた。大きかったのですぐにわかった。
(襲い掛かってきたり、しないよな?)
あの大きさの生き物が人間を襲うとは思えないが、やはり未知の動物には恐怖を感じないではない。
しばらく観察していると、そのデカリスは木々の枝を伝って姿を消していった。
親子で顔を合わせて、少し息を吐く。
「肉食獣じゃなくてよかったな」
「まだわからないじゃん」
あんなナリで、獰猛な肉食系ということもあるかもしれない。
可能性として言っただけで、日呼壱も今のデカリスが肉食獣だと思っているわけではないが。
───ドンッ!
響いた音に、咄嗟に身を縮める二人。
先ほどのデカリスがいた方からだった。
しばらく静止した後、そっと音のした方を覗いてみる。
(さっき見てた木の実か? 胡桃もどき)
硬そうな殻を持った木の実が地面に落ちていた。
落ちた衝撃の為か、真ん中でぱっくりと割れている。
「あ……」
思わず声を出して、慌てて口を塞ぐ日呼壱。
『キュル?』
日呼壱の声に気づいたのか、木の実に近づいてきていた生き物──先ほどのデカリスが、足を止めて周囲を見回していた。
少し離れた場所にいる日呼壱たちに気づかなかったのか、しばらくすると警戒を解いて、割れた木の実に駆け寄った。
(上から落として木の実を割って食べてるのか)
割れた殻の中に頭を突っ込んで、中身を食べている様子だった。
哺乳類っぽい生き物が食べているところを見ると、食用に適しているのかもしれない。
(リスはげっ歯類か? ねずみの仲間だとしたら犬には毒かもしれない。いや、有袋類だっけ?)
そんなことを考えながら見ていると、その視線に気づいたのか、再びデカリスが周囲をきょろきょろと見回す。
「……」
目が合ってしまった。
数秒。
そして時が動き出すように。デカリスは丸い図体に似合わない俊敏さで森の奥へと逃げていった。
「……ふう」
失敗というわけではない。健一は残された木の実の方に歩き出し、日呼壱も続く。
地面には他にも落ちた木の実の殻が転がっていたが、それらの中身は空っぽになっていた。邪魔者がいなければ残さず食べるのだろう。
「お、中身は結構柔らかそうだな」
健一が割れた木の実を足で転がして観察する。
外殻はまさに胡桃の硬い殻のようだったが、内側は白く水気を多く含んでいるように見えた。
日呼壱がその辺に落ちていた木の枝で中身をほじってみると、白い果肉にあっさりと刺さり果汁が溢れた。
「見かけだと乾いてそうな実なのに」
さすがに野生動物の食べかけを味見する勇気はない。
「結構いい匂いだ。なんだろう、桃みたいな甘い香り」
「食べ物に困るようなら今度採ってみるか」
見上げると、いくつも同じ実が成っている。ただ、とても届きそうな高さではないが。
成熟して落下した時に衝撃で割れて、種子を撒くように進化しているのではないかと推測してみた。
そんな風にしながら、家の場所を見失わない程度に周囲を散策する。せいぜい半径一〇〇メートルまでの範囲だが、それ以上家から離れると遭難しかねない。
「いいもの発見したぞ」
子供のような笑顔で得意げに言う健一の手には、そこらに生えている広葉樹の葉がある。手のひらよりやや大きいほど。
何かと訝しげに見ている日呼壱に、健一は顔に当ててチーンと鼻をかんで見せる。
「そういやさっきもやってたけど、それだけ?」
「これ、結構厚みがあって、その上で肌触りいいんだぞ。高級ティッシュみたいだ」
ほれほれ、と促されて日呼壱も手近にあった同じ葉を手に取る。しっとりの湿っている感じがして、ウェットティッシュのような感触だ。
「……ムーーっ! っと、ほんとだ。すげえ、なんかちょっとハーブっぽい匂いもする」
「だろう。もしかすると当分はトイレットペーパーも買いにいけないからなぁ」
現実的だった。
「未開の部族みたいだ……」
葉っぱでお尻を拭くなんて。
そうは言っても、少なくとも近隣にスーパーやコンビニはなさそうだ。
(もともとうちから最寄のコンビニまで四キロくらいあったんだけどさ)
ただ、道なりに進めば確実に物資が購入できる店舗があったのだ。昨日まで――つい先刻までは。
この森のどこか、あるいは抜けた先にそういった商取引が出来る場所があるのか、どうなのか。今の日呼壱たちには何もわからない。
すぐに帰れるとか、何か状況が変わるのならいいのだが、楽観していて状況が勝手に好転する、と考えるのは都合が良すぎるだろう。
こんな上質なトイレットペーパー代用品が見つかったことの方が都合が良すぎる。
素直に喜んでおくべき材料として捉えた方が前向きだ。
「母さんはともかく、メイちゃんに葉っぱでお尻を拭けとは言いにくいなぁ」
「む、うむ……まあ、そうか。そうだな、母さんにはお前から言ってくれ」
父と息子で意見が違うらしい。
正しいことだとしても、誰が言ったかで結果は変わるのだ。世の中は。
田舎の実家についてきてくれた妻に、葉っぱでお尻を拭けとは……やはり言いづらいことかもしれない。
母親のことは息子に押し付けようとする父の背中に、日呼壱は少しだけ物悲しいものを感じながら家の方に足を向ける。
◆ ◇ ◆
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