伊田家の人々

伊田家 第一話 始まりの日_1



「なんだ、ここは……なんなんだ……?」


 自宅の庭に出て、言葉に出来たのはそれだけだった。



 伊田健一いだけんいち。四十六歳。会社員。


 自宅は地方の農家。電気工具メーカーの本社勤めだったが、両親の世話を理由にグループの地域会社に転籍して八年。

 五年前に母が亡くなり、今は父親と、妻、息子との四人暮らし。



 地方の農家では珍しくない二〇〇坪ほどの宅地に、母屋と離れに納屋、車庫が建っている。本業の田畑は周辺の敷地の外だが、その宅地内にもいくらか家庭菜園的な畑もあった。


 四月も下旬に差し掛かり、世間ではもうすぐゴールデンウィークというところになる。


 会社員兼農家の一人息子という健一にとっては、四月末から五月というのは田植えの時期だ。会社が休みなら、田植えをしなければならない。

 納屋には、今年植える稲の苗が準備されていた。



「うちの田んぼは、どこだ?」

「健ちゃん、ちょっと、なんだ……落ち着こうぜ」


 呆然と呟く健一に横から声を掛けるのは、従兄弟の尾畑寛太おばたかんた。三十七歳。地元の消防士。

 昔から健一を兄のように慕っていて、今も田植えの季節になると本家である伊田家を手伝いにきてくれる。


 お互いの家まで車で五分もかからない――かからなかったはずだ。

 今年も来週の田植えのことで、と訪ねてきていたところだ。寛太の娘を連れて。



「寛太。田植えは出来そうにない」

「いやだから、うん。わかるよ。……いや、わけわかんないけど、田植えどころじゃないのはわかってる」


 庭から二人で周囲を見渡しながら、寛太は大袈裟なほど大きくうなずいた。

 伊田家の周囲は、舗装された小さな道路とあぜ道、用水路の他には田畑しかなかったはずだ。



 つい先ほどまで、納屋で農機具を見ながら健一と寛太は田植えのことや日常の愚痴など益体もないことを話していた。


 そこに鳴り響いた轟音。



 身をすくめるような雷鳴と震動に慄き、それが静まったのを見計らって屋外に出たところ、周囲の状況が一変していた。


 田んぼ四反よんたんほど挟んで、南隣の目次さんの家があったはず。

 西に三反さんたんほど行けば、地域の集会所と神社がある。あったはずだった。



「森、だな」

「そう見えるよ」


 周囲は、見渡す限り森だった。



 木、木、木、樹木とそれに巻きつく蔦や草、土の他に見えるものはない。

 大きな起伏は見当たらない。家の北西側を除いて。


 北西側は、家から四〇〇メートルほど離れた辺りから登り勾配になり、その先は山というか半ば崖のように切り立っている。

 その峰は雲より高く青空に突き刺さるかのようにそびえていた。

 見渡せば峰はそのままずっと南側にも続いていた。空の果てまで。




「どこなんだ、ここは?」

「わかんないって、そんなの。さっきの地震……雷? が原因なのか、かもしれないけど、わからないよ」

「……あぁ。ああ、そうだな。悪い寛太、混乱していた」


 自宅の周辺状況が一瞬にして変わる。

 そんな異常事態に直面して、近くにいた年下の従兄弟に答えの出るはずのない質問をぶつけてしまった。



「健ちゃんもう混乱から回復してんの? すげえな」

「あーいや、嘘だ。まだ混乱してる。というか夢じゃないと思ったらますます頭がおかしくなりそうだ」


 茶化すような寛太の言葉で落ち着きを取り戻す。消防士の寛太は不測の事態に慣れているのかもしれない。



「パパ……?」


 少しだけ調子を取り戻してきた二人に、玄関の方から声がかけられた。

 戸口から顔を覗かせる少女。


「芽衣子、危ないから……あー、危ないかもしれないから、こっちにおいで」


 寛太に呼ばれて、きょろきょろしながら少女が出てきた。

 尾畑芽衣子おばためいこ。十一歳。勉強より運動の得意な小学六年生。



「ここ、どこ?」

「うん、それがわからなくてパパも困ってるところだ。芽衣子助けて」


 小学六年生になったばかりの娘は、おどけて見せる父親の様子に少し安心したのか、近くに来て手をぎゅっと握った。

 最近はそんな風に接してもらえなかった寛太にとっては、こんな状況でも少し嬉しい対応だったらしい。頬が緩む。



「すっごい森だね」

「だね。どれもものすごい大木だ。切って持って帰ったら高く売れるかもしれない。大金持ちだ」

「持って帰れないんじゃない?」

「それもそうか。車は田んぼの方に止めて来ちゃったからなぁ」


 よしよしと娘の頭を撫でる寛太。三人で周りを見渡していると、健一の父親と妻も出てきた。



「えらい雷だと思ったら、かあどげなっちょうかいな(これはどうなっているのですか)」


 伊田源次郎いだげんじろう。六十九歳。終戦直後の貧しい時代に育った、物を捨てられないタイプの爺さん。



「あらまぁ、本当に。こんな……いつからうちは大森林の小さな家になっちゃったのかしら」


 伊田美登里いだみどり。四十五歳。マイペースな性格だが、夫の健一はこの妻にあまり頭が上がらない。

 さすがに度肝を抜かれたようだったが、芽衣子を怖がらせないように言葉を選んだらしい。



「やっぱり、夢じゃ……ない、みたいだな」


 それぞれの様子を見て、健一が溜め息混じりに吐き出した。


 もう一度、周囲を見渡す。

 もともと田んぼの中央に建っていた伊田家の敷地は、周囲の田畑より二メートルほど高くなるよう石垣で囲われていた。


 今はそれ以上に森の地面より高くなっているように感じる。その高さの分だけ、視点も高くなっていて陽が当たる。

 周辺に見えるのは、森の木々と北西側の山……その山はずっと先まで続いているようで、山脈と呼んでよさそうだ。


 木々の上には、青い空と白い雲。春ごろのやさしい日差しの太陽。突然場所は変わってしまったが、季節が急変しなかったのは良かった。

 少し外側の敷地周辺の地面を見れば、赤土のように見える土で、森の地面より嵩上げされている状態。


 森の地面から二メートルほど赤土で高さが上げられて、その上に本来の敷地が乗っているような。

 幸いなことに絶壁というのではなく、なだらかな傾斜になっている。歩いて下まで行くのに不便はなさそうだ。車庫から車を出すことさえ出来るだろう。



「車は……使えそうにないか」


 敷地から車を出したところで、その先は舗装どころか獣道にすらなっていない。凸凹もひどいし、そもそも木々の間隔がまちまちだ。

 オフロードバイクでもあれば走れたかもしれないが、そんな物はこの農家にはなかった。



日呼壱ひこいちは?」

「さあ、部屋にいると思うけど。あの子も家が揺れるくらいの雷なんだから出てきたっていいと思うんだけどね」

「呼んでくる。危ないかもしれないから、そっちに出て行くなよ」


 わかってるわよ、という返事を後ろに聞きながら、健一は家に入った。




 二階に上がれば、息子の部屋がある。

 足取りは重い。重いのは気持ちの問題だ。


 二階に上がるより、未知の森の探索に出る方が気楽だと思えるほど。

 十八歳の息子──学生という立場ではない息子と向き合うのは、父親にとって戦場に立つのと変わらないほどの重荷だと言えた。



(別に険悪だとかそういうんじゃないんだけどな)


 息子の部屋の前で、息を整える。


「あー、日呼壱。ちょっといいか」

「…………」


 沈黙の時間は、重圧。


「……なに? さっきの雷?」

「あ、あぁ、そうじゃない……のか、そうなのかもしれないが。ちょっと父さんにもわからなくてな」


 この異常事態を何といえばいいのか。


(いや、むしろこれは親子の会話のきっかけになるんじゃないか)


 前向きに良かった探しをしてみる。



「そのな、とりあえずちょっとだけ外に出てくれないか。緊急事態で、みんな困ってるんだ」

「……何、停電?」


 がちゃり、とドアが開いて、ジャージ姿の青年が顔を見せた。


「勉強してたんだけど」


 その部屋では、昼間でもレースのカーテンが閉められて、学習机には大学ノートとテキストが開かれていた。

 照明は点いていないので、室内は薄暗い。



「ああ、すまん。本当に緊急事態で、みんな……芽衣子ちゃんも、怖がっているんだ」

「メイちゃんが来てる?」


 親戚――再従兄妹またいとこにあたる少女が来ていることに気づかないほど、熱心に勉強をしていたのだと。

 それを思うと、健一の心に苦い感情が広がる。


(後悔……罪悪感、だな)



「その、なんだ。勉強は、とりあえずいい」


 父親の言葉に、言われた息子は訝しげな表情を浮かべる。

 それも仕方ない。


 数ヶ月前、受験本番直前にひどい風邪で機会を逃してしまった彼に、また一年勉強出来るなどと、気遣いのつもりで余計な言葉をかけてしまった健一だ。



(あれは俺なりに気にするなというつもりで……母さんにも怒られたが。そもそも田舎に引っ越しておいて、家から通える範囲の地元の国立大学とか、そういう条件で受験させてしまったことも申し訳なく思っているんだが。悪いとは思っているんだが)


 自分に非があるとは思っても、素直に息子には謝れない。



「なんだよ、急に」


 父親の様子に、不愉快というよりは居心地悪そうな様子の日呼壱。


「いや、すまなかった。勉強はもちろん大切だが、それだけじゃ生きていけないこともあると、父さんも思い出したんだ」

「はぁ?」


 意味不明。


 思春期以降、父親と会話することは少なくなったというのは、世間一般によくあるケースだろう。

 父親からの言葉はその大半が、学校はどうだとか勉強してるのかとか、そんな事務的な内容ばかり。


 そんなテンプレ的な父親の健一が、急に何か映画の影響でも受けたようなことを言い出したと。日呼壱からすればそんな印象でしかない。



「いや、とにかくちょっと外に出てくれ。みんな待ってるから」


 見てもらう方が早いと、やや強引に促して、


「こういうのは父さんとかより、きっとお前のほうが詳しいかもしれないと思って、な」


 なんだよ、とぼやく息子を先導して、玄関に向かう。


「驚くなよ。いや、驚くぞ」

「あーはいはい。面倒だな」



 スニーカーを履いて玄関を出る息子、伊田(いだ)日呼壱(ひこいち)。十八歳。職業は浪人生。大学受験に失敗してからちょっと親との折り合いがギクシャクしている最中。




「って、なんじゃこりゃあああ!」


「日呼ちゃんの反応が一番普通なんだよなぁ。安心した」

「あははっ、日呼ちゃん顎外れそうー」

「って叔父さん、何笑ってんの!? メイちゃんも、笑ってる場合じゃないでしょこれ!」


 一番最後に出てきて一番の慌てっぷりを披露した日呼壱に、一同は生暖かい笑顔で応じていた。

 誰か一人くらいはパニックになってくれた方が事態を飲み込みやすかったのかもしれない。



  ◆   ◇   ◆

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