第四話 森の長の家_2
今は状況がわからない。
少なくともこの集落には黒鬼虎を倒せるだけの戦力があって、フィフジャは土地勘も体力も何もない状況だ。
言われる通りに従った方がいいだろう。決して害意がある様子でもない。
(まあ害意があるんだったら、わざわざ保護してくれるわけもないよな)
行き倒れの見知らぬ男を助ける理由などない。ただの善意だとか、珍しさだとかそういうことのはずだ。
改めてフィフジャは周囲を見回す。
基本は木製の建物だが、所々に見える柱や梁が綺麗な断面に整えられている。
丸太を適当に削って組み立てた建物ではない。また、壁面は真っ直ぐに塗られていたりして、貧民が暮らす掘っ建て小屋には見えない。
大きさはそれほどでもないが、床もまた丁寧に真っ直ぐに固められている。
(石作り……? こんなでかい石を真っ直ぐに削って? いや、粘土みたいなものを塗って、こんなに綺麗に仕上がるのか? かなり技術の高い職人が必要だろうに)
やはり庶民の住むような建物ではない。この森の主か何かなのだろうか。
銀狼を従える部族の長の家。だとすれば納得できるかもしれない。
飾られた黒鬼虎の毛皮は、よく見たら新しいものではなさそうだった。
右前腕には千切れかけたところがあり、左耳には何か古傷のようなものもある。まだ生きている時に既に古傷だった感じの傷跡だ。
先代の長などが倒した黒鬼虎の毛皮だったりするのだろうか。
この毛皮は魔よけというか、害獣避けになる。
魔獣の中でもかなり上位の強者であるこの黒鬼虎の毛皮は、他の獣を追い払ってくれる。危険な気配を発するのだと思う。
だから長の家に飾られているという話であれば至極自然なこと。いろいろと不自然なことも多いが、少しは納得できる。
鉄板も貫く硬度を持つ鋭い角は槍の穂先としては最高級品。この毛皮を丸ごと売ればかなりの金銭になるはず。
そんなことを考えていると、少女が大きな桶を抱えて戻ってきた。
「
掛け声と共に、片足で半開きだった戸を横にスライドさせる。
超高級品の、庶民が数年は暮らせるかもしれないくらいの名品のガラス戸を、惜しげもなく足で押しのけて桶を持って中に入ってきた。
「お湯……?」
置かれた桶には、かなりの量のお湯が入っていた。
少女は布の手ぬぐいを、ずいっとフィフジャに差し出す。多少使い古されているが、その手ぬぐいも普通なら一部の特権階級が使いそうな良質の布地だ。
やはり色々とおかしい。
こんなに素早く大量の湯を用意するのは簡単ではないはず。魔術士だとしても。
それに、この量の水桶を軽々と運んでくる少女というのも普通ではない。肉体強化をしたとしても。
なんなのだろうか。
「まあ、考えても仕方ないか。恩に着る」
春も中頃を過ぎた季節ではあるが、水浴びとなれば体温が奪われる。暖かい湯で体を拭けといってくれるのはとてもありがたい。
フィフジャが受け取って湯で体を拭き始めると、少女はまたどこかへ去っていった。
裸になるのだからと気遣ってくれたのだろう。
というのは間違いだった。フィフジャが全裸で、股間に残っていた排泄の残滓を拭こうとしていたところに戻ってきた。
「わぁっ!?」
「……」
少女はなんとも言えない顔をして、手にしていた衣類を足元に置いてから、手を振って去っていった。
「……最悪なタイミングだ」
人心地ついたはずが、今度は精神的に大きなダメージを受けてしまった。
尻だのを一生懸命洗っている姿を可愛い少女に目撃されるというのは、さすがに経験のない痛みだ。きつい。
経験があるような人間はそういないだろう。たぶん。
普通の人間なら耐えられないかもしれない。
(って、俺は普通だよ。異常なわけじゃない)
言い訳がましいことを考えながら用意してもらった着替えを手にする。それまでフィフジャの着ていたものはボロボロだ。汚いし、臭い。
脱いでしまえば、フィフジャだってちょっと触るのがイヤなくらい不衛生だった。
こんなものを着ていた見知らぬ男を助けてくれるなんて、あの少女はもしかしたら神様ってやつなのかもしれない。
「俺なら、見捨てるだろうな」
客観的に思い返してみて素直にそう思った。不審で不衛生な浮浪者。進んで助けるようなものではない。
用意された衣類は、やはりこれも見たことのないものだったが上質な素材。だいぶ着古されたもののようではあったが悪くない。文句を言える立場でもないが。
紺色のパンツに、白い肌着。それに灰色のズボンと上着のセットだった。ところどころ破れたりしたところを当て布で繕ってある。
柔らかく動きやすい服だった。
「これも安物って感じじゃないな。布の縫い目がものすごく細かい」
どんな
服を着て外に出ると、もう溜め息をつくしかなかった。
「……これ、納屋だったのか」
立派な長の家だと思ったのは、この家の物置用途の納屋らしかった。
庭には何か見知らぬ白い花が咲き、本宅には太陽に面して大きな透明のガラスの窓がつけられている。透明すぎてガラスが張ってあるのが見えないくらい。
建物の建築様式は、フィフジャは専門ではないが、今までの人生で一度も見たこともない姿だ。故郷のリゴベッテ大陸でもないし、この大陸の物とも異なる。
「ありがとう、これ」
「
自分の胸元を軽く叩き、礼をする。
少女の言葉はわからないが、この服を貸してくれたことには感謝を示す。
「
少女がフィフジャをとがめるような目で見て、軽く溜め息をついた。
何か失敗をしたのだろうか。
「A
不安になったフィフジャを尻目に、少女が突然大きな声を出して手を振った。森に向かって。
そちらに目をやると、まさに黒鬼虎が敷地に登ってくるところだった。
フィフジャを襲ったあの黒鬼虎が、フィフジャたちを目指して。
「……」
思わず言葉を失った。
巨大な黒鬼虎が、やや下方の森の大地から上ってくる。
けれど、ぐったりとしている。というか息をしている様子がない。
「死体……?」
フィフジャを襲ったあの黒鬼虎だ。何匹もいてほしくないという希望も含めてそう思う。。
巨大なそれの死体を何かに乗せて、坂道の下から登ってくるのだ。誰かが。
黒鬼虎の後ろ、坂道の下側なので死角になって見えなかったその存在が、敷地の庭まで上がってきて確認できる。
少年。
手押し車――これもちょっと見たことのないようなものだが、それに黒鬼虎を乗せて運んできた。
黒鬼虎が大きすぎて、頭側を荷車に乗せて、足側を自分の肩と頭に乗せて。そうやって手押し車を押して進んできた。だからまるで黒鬼虎が登ってきたように見えたのだった。
登り切り獲物を下ろして、ふうと息をつく少年。
背丈はフィフジャの顎くらいだから、おそらく少女の兄か年上の親戚なのだろう。
少女と似ていて端正な顔立ちに、黒髪は適当に短く切りそろえられている。少女もそうだが、若干目つきが鋭い。
(いや、ふうじゃないよ。どんだけの重量を一人で運んでんだ、この子)
やはり色々とおかしい。
一息ついた少年に、少女はなにやら労いの言葉をかけてからフィフジャを指差す。
少年は運ぶのに集中していたのか、そこで初めてフィフジャに気がついたのか、何やら喜色満面の笑みで駆け寄ってくる。
「
元気な声で、満面の笑顔を向けられて、フィフジャはやはり困惑する。
なぜ彼らは見ず知らずの自分を、こんなに歓迎してくれるのだろうか。
男手だとか戦力だということだとしても、この黒鬼虎を倒せるだけの武力があるこの集落では行き倒れの自分など何の意味もないだろうに。
本当に神様の一族だったりするのだろうか。
神様が善行をするなんて、フィフジャは想像したこともないが。
だが、年若い少年少女に助けられた挙句にこのような歓待を受けて、悪意など湧いてくるはずもない。
「ああ、ありがとう」
もう一度頭を下げて、礼をする。たぶん、彼もフィフジャを助けてくれた一員なのだろう。
「
何を言っているのかはわからない。
「
少女はフィフジャに向かって、少年と自分を指差して黒鬼虎の死体に何かを突き刺すような動作を見せる。得意げに。
――二人で、この黒鬼虎を、やっつけた。
「……はあ?」
やはりどうにもおかしいことが多すぎて、フィフジャは考えるのをやめた。
◆ ◇ ◆
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