蛇の目

oxygendes

第1話 蛇の目

 突然降り出した雨は大粒で、地面を叩いて土埃つちぼこりにおいを巻き上げ、雨足あめあしで通りの向こう側の景色もかすむほどの激しさだった。

 市街地の歩道を駅に向かっていた青年は雨宿りの場所を求めて走り出した。あいにくあたりには雨を遮る木陰も、傘を買えるコンビニも無かった。その時、少し先の道端に四角い看板が見えた。喫茶店らしい。青年はその店の入り口の庇の下へ駆け込んだ。

 看板には『蛇の目』とあり、入り口の脇には『営業中』のプレートがかけられていた。ガラス戸越しにのぞき込むと、奥にカウンターが有り、店の中には小テーブルと座席が並んでいた。振り返って空を見上げると黒い雲が広がり、強い風で雨は庇の下にも降りこんでくる。青年は雨宿りすることを決め、店の中に入った。


「いらっしゃいませ」

 カウンターの中から白いシャツにグレーのカフェエプロンのマスターが愛想よく迎え入れる。

「お一人様ですね。よろしければカウンター席にどうぞ」

 マスターは銀縁の眼鏡に灰色の髪で、六十歳ほどに見えた。

「少しの間だけの雨宿りなんだ。アイスコーヒーなら時間がかからずにできるかな?」

「ええ、すぐにお出しできます」

「じゃあ、アイスコーヒーをください」

「かしこまりました」


 ほどなく青年の前にアイスコーヒーが置かれた。美しいカットガラスのグラスの下にはなめし革のコースターが敷かれている。青年はグラスを持って窓越しに外の様子を眺めた。夕立と思われる雨だが、勢いが衰える様子はなかった。

「まいったな」

 ため息をつく青年にマスターが話しかけた。

「お急ぎのようですがこの雨です。暫く様子を見た方がよさそうですよ」

「そのようだね」

 扉越しに外の看板が青年の目に入った。

「店の名前は『蛇の目』なんだね。ずいぶん古風だ」


「はい」

 マスターがにこやかに答える。

「それには由来がございましてね。雨宿りの間の退屈しのぎに、お話しさせていただきましょう。妖しく不思議な出来事でした」

「ほぉ」


「今から四十年ほど前のことです。私は故郷を離れ、昔ながらの城下町の町割まちわりが残る地方都市で働いていました。その町で恋人もでき、正直、仕事よりも彼女との交際の方に気持ちが傾いた日常でしたね。

 その日も彼女との待ち合わせの場所に向かっていたのですが、突然、そう、今のような夕立が降り出しました。私は小走りに駆けて、雨宿りのできる場所を探しました。そして、道の右側に人の背ほどの椿の木の生け垣が続いていて、少し先に小さな切妻屋根の付いた木戸門があるのに気付いたのです。


 私は屋根の下に駆け込みました。木戸門の扉は開いていて、生け垣の向こうの夾竹桃や桔梗の花が咲く庭、その奥の古色を帯びたお屋敷が見えました。私は木戸門の屋根の下で雨宿りしながら、奇妙な違和感を覚えていました。いつも通っている道なのに、椿の生け垣やこの木戸門を見た覚えがなかったからです。枝葉が綺麗に揃った生け垣は昨日今日出来たものには見えません。どうして気づかなかったのか……。


 お屋敷の正面に破風屋根の付いた玄関があり、格子戸の引き戸になっていました。何気なく眺めていると引き戸がするすると開き、紫色の着物を着た女が現れました。女は私を見て微笑み、手招きをします。どうしていいかわからず戸惑とまどっていると、女は蛇の目の傘を差して、近寄ってきました。

『そんなところでは濡れてしまいますよ。雨宿りならこちらへどうぞ』

 女は傘を私に差しかけ、体を寄せてきました。紫のつむぎの着物に木蘗きはだ色の帯を締め、緩やかにウェーブした黒髪はうなじまでの長さでした。仕方なく傘に入ると、女は私を玄関の中へ導きました。

『あいにく主人が不在なので、座敷にお上がりいただく訳には参りません。どうかここでお過ごしくださいませ』


 私は玄関の上り口に腰を下ろしました。室内は拭きこまれ艶の出た板張りで、壁沿いに紫檀の飾り棚や和箪笥が置かれ、根付や香炉など様々な古道具が飾られていました。奥に続く廊下の前には龍を彫刻した衝立ついたてが置かれています。壁には、能面や花入れ、広げた扇などが掛けられていました。

『お茶をお淹れします。お待ちくださいね』

 そう言って、女は屋敷の奥に消えました。残された私は飾り棚の古道具に目を向けました。頬かむりをした着物姿の男の根付や牙を剝いて威嚇する狼の根付、白い磁器で出来た香炉、縁の部分に梅の花が彫刻された硯、何色もの糸で八重菊の模様をかがり込んだ手まりなどがあり、どれも丁寧な細工で、長い年月を経た風合いがありました。壁の能面は少女とも三十路とも見える女性の面、花入れは艶々した竹で作られていました。

『お待たせ』

 女が戻ってきました。板間に横座りで座り、お盆で運んできた湯飲み茶わんを私の横に差し出します。

『粗茶ですが』

 私は湯飲みを手に取りました。薄茶色であっただろう地肌じはだは使い込まれたことで飴色に変わり、牡丹の花が並んだような模様が浮かび出ています。見様によっては二つの目玉のようでもありました。また、表面の細かなひびに茶渋がしみ込んでこまやかな網目模様になっていました。

『どうぞ』

 私を見上げる女の目を見た時、何故か、このお茶を飲んだら大変なことになるのでないかという不安が私の胸に巻き起こったのです。私は湯飲みを膝の上にとどめたまま、女と話し始めました。

『いい風合いのお茶碗です。長い間使いこまれたようですね』

 女は微笑みました。

『江戸時代の茶碗で、百年を超えて使われていますの』

 女の言葉に、私は付き合っていた彼女から聞いた伝承を思い出しました。

『百年ですか、それでは、つく喪神もがみになって命を持つ頃かもしれませんね』

 ご存知でしょうか、百年を超えて使われた道具は命を宿して付喪神になり、しゃべったり変化へんげしたりすることができるようになるという伝承があるのですよ。

 私の言葉を聞くと女はくっくっと笑いました。そして、私にささやきかけてきました。

『年月だけで命を持ちはしないわ。人間に大切にされ、愛された物だけが付喪神になるのよ』

 私を見つめ、艶然と微笑みかけてきます。


 私は慄然としました。そして、女だけでなく、手の中の湯飲みや、玄関の中にある様々の古道具も私を見つめているように感じたのです。私の中で先ほどの不安が一つの妄想になりました。女は、人間に大切にされ愛された物だけが付喪神になると言った。でも、人の命は有限です。人がこの世から去った後、付喪神だけが残される。残された付喪神はかつて自分を愛してくれた人の代わりになる者を求め、取り込もうとするのでないか、この屋敷はそうした付喪神たちの巣窟そうくつでないかと。

 ええ、わかっていますよ。それは私の妄想にすぎないことは。でも、その時の私には真に迫って思えたのです。私は女に、急用があるので早々にここから出ないといけないと伝えました。女は一瞬悲しげな表情を浮かべましたが、それならと先ほどの蛇の目を貸してくれました。都合のいいときに返しに来てくれればいいと言って。

 私は蛇の目を差して屋敷を出ました。降り続く雨の中をただの一度も後ろを振り返ることなく進みました。やがて雨はやみ、私は見覚えのある道に出ました。少し時間は遅れましたが、彼女との待ち合わせの場所にたどり着くことができたのです。


 次の日曜日は晴れでした。私は蛇の目を持って夕立の日に通った道をたどりました。しかし、あの椿の生け垣の屋敷を見つけることはできませんでした。道を間違えたのかと思い、一本隣、二本隣の道を探しても同じでした。結局、蛇の目を返すことはできず、そうかといって燃やしたり捨てたりすることも怖くてできませんでした。ずっと蛇の目は私の手元にとどまり、その後、縁があってこの店を始めることとなった時に、私の人生と共にあるものとの意味を込めて、店の名前を『蛇の目』にしたのです」


 話し終えたマスターは首を傾げた。

「どうしました? そわそわしていらっしゃいますね」

 青年は外を見ながら答える。

「いや、俺も急用があるのでね、早く雨がやんでくれないかと……」

「それでしたら、傘をお貸ししましょう」


 マスターはカウンターの中から一本の和傘を取り出した。

「それは……」

「ええ、あの日の蛇の目ですよ。」

 マスターは和傘を広げた。傘の色は紫色で上部に木蘗きはだ色の円が描かれ、へびの目のように見える。中心部の黒い頭紙がアクセントになっていた。


「お貸しします。いつでもいいのでご都合のいい時に返しに来てください。ただし、これを差して歩いていて、椿の生け垣の屋敷に行き当たり、中から女性に手招きされても、屋敷に入ってはいけませんよ。そんなことをしたら……。なんてね、大丈夫ですよ。これまでこの店を営んできて、雨宿りのお客さんに今の話をして蛇の目を貸したことは何十回もありました。皆さんちゃんと返しに来てくれました。椿の生け垣の屋敷に行き当たったりはしなかったそうです。だからこそ今ここにこれがあるわけですが……。さあ、どうぞ」


 青年は随分ためらったが、結局、蛇の目を借り、雨の中を早足で立ち去って行った。


 マスターは店の外に出て、青年を見送る。

「ふふ、昔の私を見ているようだ」

 空を見上げるが、雨が止む様子はなかった。

「さて、そろそろ店じまいにしましょうか」

 マスターは入り口の脇の『営業中』のプレートをひっくり返す。


カタン……


 ゆらゆら揺れるプレートの文字は『管理物件』、店の中に明かりはなく漆黒の闇が広がるのみ。店の前にいたはずのマスターの姿はどこにも無い。ただ雨だけが降り注いでいた。

 

                 終わり

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