最終話 大人になんてなる前に
『もう大丈夫そうだから帰ってらっしゃい』
妻・
名残惜しい気持ちをひた隠し、最愛の息子を乗せた馴染みの個人タクシーを見送ったあと、
ロングサイズのベッドと、チェスト付きの書斎デスク、作り付けの本棚のみが設置された、シンプルかつ殺風景な部屋である。
ベッドを
朝起きてすぐ新しいものに替えてしまうのが鷹幸の日課であったが、昨夜はこのベッドを使っていない。
はっきり言って、眠るどころではなかった。
リビングに、カウチで寝息を立てる愛息子がいたからだ。
まず、パチパチと音を立てる暖炉のそばにラウンジチェアを運んだ。
そこで静かに読書をするふりをして、息子の寝顔を網膜に焼き付ける。
鷹幸と美琴の遺伝子を余すことなく受け継いでいるだけあって、真琴の寝顔は本当に可愛らしかった。
写真に残しておきたいくらいだったが、盗撮は流儀に反する。
それで熱心に見守りすぎるあまり、一晩中眠ることができなかったのだ。
今日は朝から息子に合わせてずっと起きていたが──父としての体裁は守り通した──、正直なところ眠くて死にそうだった。
すぐにでも、このまっさらなベッドに倒れたい。
しかしその前にひとつ、鷹幸にはやることが残っていた。
重厚感ある木製の書斎机の右側、一番下の引き出しを開ける。
がさごそと探るでもなく取り出したのは、リボンと鈴があしらわれたピンク色の首輪。
子猫用のもので、輪の大きさは細身の女性の手首ほどしかない。
(……結局、訊かれなかったな)
リボンの端とベルト部分の裏側に、どす黒い染みが広がっている。
当時はピンク地によく映える、鮮やかな赤色だった。
しかし、歳月が流れ、今となってはもう、なにがこの首輪を汚しているのか、目で見ただけではわからない。
鷹幸は首輪を手にして、誰もいないリビングの暖炉の前に立った。
いつか思い出として、息子に渡す日が来るのかもしれない。
そう思って大切にしまっておいたのだが、もうその必要はないらしい。
子猫の死を知らされた息子の反応が、あまりにもあっさりしていて拍子抜けしたほどだ。
こんなことなら七年前、動かなくなった子猫と一緒に、炎の中に入れてしまえばよかった。
黒い小さめのログラックから、よく乾いた薪を掴んで投げ込む。
オレンジ色の炎が育つのを待って、シェロの首輪を
『なんでだよ!』
脳裏によみがえったのは、今にも泣き出しそうな、ちいさな真琴の叫び声。
『パパも、シェロもだいっきらい!』
白い手の甲に引かれた痛々しい赤色と、怒りと悲しみでくしゃくしゃになった傷付いた顔が、ずっと忘れられない。
そして、いまだに理解ができない。
「……まこと」
煌々と照らす炎を見つめながら、鷹幸は最愛の名を呼んだ。
真琴。まこと。
この世でただひとり、愛するもの。
この世でただひとり、同じ人間だと思える存在。
そういえばあの
馴れ馴れしく甘ったるい、
「俺がなにかする前に自滅してくれて助かったな……」
包丁持参で息子を殺しに来るというのは、完全に想定外だったが。
あれが犬や猫ならば、排除するのは容易かった。しかし人間が相手となると、途端に難易度がはね上がる。
下手なことをして警察沙汰にでもなれば、鷹幸自身が面倒を被るのはもちろん、息子である真琴の輝かしい未来に影を落とすことになる。
この世で唯一大切に思う存在を悲しませることは、なにより辛いことだ。
七年前の真琴を思い出すと、今でも胸が張り裂けそうになる。
首輪が燃え尽きるのを待たないうちに、鷹幸はカウチに向かった。
物に愛着はないが、これは息子のお気に入りだ。彼がすっかり自分の陣地にしているため、大切に扱うことにしている。
硬い床に膝をつき、鷹幸はライムグリーンの布地に長い指をそっと這わせた。
そこにはもう、息子の温もりは残っていない。
冷えきった座面に頬を摺り寄せ、眠るように目を閉じる。
「待っていて、真琴」
……邪魔者は、あとひとり。
<END・後日談へ続く>
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