第二十一話 邪魔者

「俺はきみのお父さんにはなれない。もし真琴まことと結婚でもして、義理の娘になるというなら話は別だったけど、きみにそんなつもりは無さそうだしね」


 と、父さんっ!?


 さらっとすごいことを言われたような気がしたが、突っ込まないことにする。……許される雰囲気ではない。


 結衣ゆいはというと、その言葉を否定も肯定もせず、父さんの声にじっと耳を傾けている。


 ……ちょっと傷付いた。


「森川さんは俺のどこがそんなに好きなのかな。声がどうとかは言ってたけど、俺はきみになにもしてないよね? きみにとって、俺は理想のお父さんに見える?」


『も、もちろんです!』


 結衣が興奮気味に、画面に食いついた。


 大きな目をいっぱいに見開き、甘えるような声を出す彼女は、たぶんいま、挽回のチャンスを狙っている。


 先ほどの僕とまったく同じじゃないか。


 そう思うと、少し泣けたし、少し笑えた。


『ぱ……ユキさんは、優しくて、温かくて、頼りになって……! 寂しい時はいつも寄り添ってくれたし、あの男のせいで落ち込んでいる時は励ましてくれました。このほっぺたの痣だって、痛かったね、辛かったねって、優しく撫でて……』


 どういうことだ?


 僕は父さんを見上げた。

 いつもの通り、穏やかな微笑を浮かべているはずなのに、なんだか違和感がある。


 わかった。目が笑っていないんだ。


「残念だけど、それはきみの妄想だよ」


『そんな……! ちがいます!』


「なにも違わないさ」


 すがるような結衣の言葉を、あっさりと切り捨てる。

 話し方は変わっていないのに、素っ気ない感じがした。


「きみは俺のことなんかなにも知らない」


『し、知ってます! いろんなこと……っ。好きな食べ物も、色も、お気に入りのシャツのブランドも。週に一度、秘書が迎えにきて、スーツを着て出かけること。家に入る前に、いつも一回だけ後ろを振り返ること。お庭のテーブルを拭いたあと、左手の親指で手前の角をなぞるクセがあること。それから、朝が苦手なことも』


 結衣はかなり慌てていた。


 必死に父さんに関することを並べ立てるのだが、動画には一切出てきていないプライベートなことまで挙げたので、さすがの僕も引いた。


 自らストーカーを名乗っているようなものじゃないか。


「すごいね。きみは俺ですら気付かないようなことまで、よく見ているらしい。そんなきみなら、俺がいま何を考えているのかわかるかな? きみがここに来たこと、どう思ってると思う?」


『あ……あ……ごめんなさい。迷惑、ですよね……でも、私どうしても』


 どうしても、なんだというのだろう。


 父さんに会いたかった?


 いや、そうじゃない。


 ……僕を消したかった。


 僕は既に思考の半分以上を放棄していた。

 父さんがいつもの父さんじゃないってことすら、どうでもよかった。


 異常なのは結衣なのだ。この状況なのだ。

 父さんがここで声を荒らげたとしても、なんら不思議ではない。


 だって、赤の他人が自分の子供を傷付けようと、あまつさえ包丁まで装備して訪ねてきたのだ。誰だって怒るに決まっている。結衣の父親なら、どうかわからないけど。


「やっぱり、きみは俺を理解してないね」


 結衣が胸の前で、ぎゅっと両手を握り締めた。

 乙女のような仕草だが、持っているのを忘れているのだろう、ほっそりした顎の下で刺身包丁がギラリと光った。


 刃の部分が、少し錆びているのか黒ずんでいるように見える。


「俺はがっかりしてるよ。きみが無事だったことにね」


 画面に向かって、父さんはにっこりした。


 綺麗に整った、完璧な笑みだ。結衣が父さんの容姿について言及するのを聞いたことはないが、目の前にいたら卒倒していたかもしれない。


 僕、もっと父さんに似たかったなあ。

 母さんも綺麗だけど、似ると女の子みたいになるから。


 っていうか今、父さんなんて言った?


 これは動画ではないのでリプレイは不可能。結衣の表情を覗う。


 呆然。愕然。そのどっちかだった。


 包丁を握り締めたまま、動きが完全に止まっている。

 形のよい唇が、呆けたみたいに大きく開いていた。虫が入りそう。


「真琴にきみが行方不明だって話を聞いたとき、俺は期待したんだ。これで邪魔者が消える。いっそどこかで事故にでも遭って、命を落としていてくれればいいとさえ思っていた」


『じゃま……もの』


 結衣が僕に向けた言葉と同じだ。


 結衣は意味をよく理解できないのか、消え入りそうな声で、父さんの言葉を反芻する。


 無理もない。僕にもちょっとわからない。


「そう、邪魔者だよ。言っただろう。俺にとって許せないものは何か」


 言った、というのは最後に上げた動画内でのことだろう。


 父さんが許せないもの。


 それは、息子との時間を邪魔する存在だ。

 子煩悩アピールなどではなかった。父さんは本気だ。


 結衣はがくりと膝をついた。

 彼女の姿はカメラから大きく外れて、頭のてっぺんだけがうつる。


 すすり泣く声が聞こえ始め、僕はそこで我に返った。


「と……父さん。もうやめて。ここまで言ったら、もう結衣だって……」


 わかってくれたはず、とは言い切れなかった。

 それでも、もう充分にダメージを受けたはずだ。


 父さんだって、結衣を突き放すためとはいえ、本当はこんなこと言いたくないだろう。


「そう? なら、そろそろお開きにしようか」


 父さんは僕の方に向かって、にっこりと微笑んだ。


「森川さん。話はこれで終わりだけど、最後にひとつ聞きたいな」


 結衣がおもむろに顔を上げる。

 顔の上半分だけが、亡霊のようにこちらを見た。


「その包丁、なにに使ったの?」


 映っている目の表情だけでしか窺い知ることが出来ないのに、結衣がにやりと笑ったのがわかった。


 目の前が真っ暗になる。


 そこから先の記憶はない。


<つづく>

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