第二十話 ずるい

『あーーーーーーーーーーーーーっはっはっは! あは、あはは。あはははははっ』


 それは、結衣ゆいの口からは聞いたこともない、けたたましい哄笑。


 結衣は腹を抱えて笑っていた。揺れがどんどん大きくなる。


 僕はそれを黙って見ているしかなかった。


 ひとしきり笑い、ようやく笑い声が収まったあと、結衣は苦しそうに息をしながら、目尻を拭う動作をする。


『……いいわけない』


「え?」


『どうでもいいわけないでしょ!!』


 半ば、悲鳴のように結衣は叫んだ。

 音声が割れ、ノイズが混じる。

 僕が何かを言う前に、結衣がインターホンのカメラに触れる。

 白い指先に、力がこもっていた。


『どうでもよくない。全然、どうでもよくない。わたしはね、あんたのことが邪魔なの!』


「……っ」


『わたしが、あのボロい家でクソジジイに茶碗投げられて、怒鳴りつけられて、殴られて……っ、飲みかけの味噌汁とかご飯粒まみれにされてる間に……あんたは綺麗な家で綺麗なママと一緒に、ママの作った夜ごはんを食べてた。……美味しかったなあ。あの、よくわかんない、緑のカレーみたいな料理。野菜サラダには、甘い卵焼きとイカの塩辛がのっていたよねえ……』


 結衣が虚ろな、しかし恍惚とした表情を浮かべる。


 傍らの父さんが、結衣に聞こえないように小さな呻き声を漏らした。


 別居しているから、母さんの創作料理に免疫がないのだ。

 中学のころに夕食に招いた友達は、大体食後十分と経たずに吐いてた。僕は慣れたものだけど。


 結衣が震える声で続ける。


『ずるい。羨ましいって、いつも思ってたの。


 でも私にはパパがいたから我慢できた。

 言っとくけど、あのじじいのことじゃないわ。あんなもの父親だと思ってない。


 私のパパ……、ユキさん。大好きなあの声を聞いて、画面の向こうで作った料理を一緒に食べたつもりになって、楽器を演奏する傍らで耳を澄ませたり、お庭の掃除を手伝ったりしたわ。


 ……それで幸せだった。私にお父さんが居たら、こんな感じなんだろうなって。そうだったらいいなって、ずっと』


 そこまで言って、結衣は嗚咽を漏らした。


 ぽとりぽとりと、伏せられた結衣の顔から水滴が落ちる。


 彼女の吸う息が、ヒィ――と引き攣った音を立てる。


「ゆ……」


『それなのにッ!!』


 性懲りもなく名前を呼ぼうとした僕の声は、その呼吸ごと引っ込んだ。


 結衣が、かぎ状に曲げた指の先で、カメラのレンズを引っ掻く。


 爪が剥がれてしまいそうなくらい強く。


 やめて結衣。

 結衣が、怪我をしちゃう……。


『あんたのものだった……。大好きな、私の大好きなパパまで……!! ずるい、ずるいずるい! ずるい!! あんたさえいなきゃ、パパはずっと私だけのパパだったのに!!』


 言っていることが、めちゃくちゃだった。


 これまではなんとか結衣の言い分ということで受け入れられていた“結衣補正”が一気に吹き飛ぶ。


 なにか言い返したいとは思わなかった。


 言葉が出ない。ショックで、なにも言えない。


『なにが、どうでもいい、だよ。ぜんぜんよくないから。邪魔だから。おまえさぁ、わたしのこと好きなら消えろよ!! 今すぐ消えろ!!』


 なにか言えたところで、会話になる気がしない。


 今の結衣はあまりにも不安定だ。


 コロコロと口調が変わって、大人しくなったり、怒鳴り散らしたり。


 けれど、僕が好きだった可憐な笑みは一度たりとも見せてくれない。


 どれが本当の結衣なのか、僕にはもう判断がつかない。


「さっきから、俺の大事な息子に対して聞き捨てならないな」


 ずっと黙って見守っていた父さんが、口を挟んだ。


 画面の向こう、結衣がはっと息をのむ。


「子供同士のやりとりだからね、口を出すのもどうかと思っていたけど」


『パパ……!』


「まずはその、パパっていうのをやめようか。俺をそう呼んでいいのは、ここにいる真琴まことだけだよ」


『ご、ごめんなさい……!』


 随分しおらしいじゃないか。


 優しい語調で咎められ、途端におどおどする結衣からは、先ほどの狂気は一切感じられない。


 もしかして、僕が話すより父さんが言った方がよかったんじゃないか?


 そう思うと少し悔しかったが、もう結衣のことに関して父さんに勝とうなんて気持ちは消え失せていた。


<つづく>

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