第十一話 シェロ

真琴まこと。もう来てくれないのかと思ったよ」


 玄関で僕を出迎えてくれた父さんは、長い両腕を広げて僕を抱き締めた。


 ひんやりしたアイスブルーのシャツが、早足で火照った僕の頬を冷ます。


 なんだかすごくいい匂いがして、僕は思わず鼻から大きく息を吸った。


 これ柔軟剤かな。真似したい。


 ……じゃなくて。


 まったく、母さんといい結衣といい、どうして僕の周りにはこうスキンシップが激しい人ばかりなのだろう。


 嫌じゃないし、むしろ安心するけど……。


 やや呆れ気味なていを装って抱擁から抜け出すと、僕は神妙な顔つきで父さんを見上げた。


「父さん、あの……この前はごめん。びっくりしちゃって」


 父さんは優しく微笑みながら首を振った。


「いいんだ。真琴が誤解をしてしまうような状況を避けられなかったパパが悪いんだよ」


 その懐の広さに、僕の目頭は熱くなる。


 涙が出そうなのをぐっと堪えながら、僕は訊ねた。


「あれから結衣ゆいはここに来た?」


「来ていないよ」


「結衣がひとりで来たのって、あの日が初めて?」


「いや」


「え……!?」


「何度も来たよ。一度や二度じゃない。若い娘さんがこんなおじさんの家にひとりで訪ねてくるのは感心できないだろう? だから、次は真琴と一緒に来るよう言ったんだが」


 父さんは、そこで一度言葉を切った。

 少し困った顔をして、ため息をつく。


「わかってもらえなくてね……」


「それからもずっと、訪ねて来たの?」


 父さんが頷いた。


「最後の忠告をしたのがあの日だったんだ。彼女は真琴の友達だから、きつい言葉を使ったつもりはなかったけど……最後にしてほしいと言ったことが、余程堪えたんだろうな」


 憧れの人物からやんわりと拒絶されて、結衣は興奮状態に陥った。自らの激情にまかせ、父さんに詰め寄るかなにかしたのだろう。


 そこにタイミング悪く僕が現れて、ああなったわけだ。


 ただでさえややこしい状況に、僕はとどめの一撃を加えてしまったらしい。


「ご、ごめん……」


「どうして謝るの? 真琴は悪くないと言っただろう」


「だって……元はといえば、僕が結衣をここに連れて来たから」


 憧れの対象と距離が縮まれば、誰だって期待する。

 もっと、もっとと、近付きたくなるだろう。


 どう考えたって、全ての元凶は僕だ。


「そのことを言っているならなおさら、真琴はなにも悪くない。さあ、こっちにおいで」


 父さんは、しょんぼりとうなだれる僕の肩に腕を回して、家の中に案内してくれた。


 いつもガーデンテーブルを使っていたから、屋内に入るのは新鮮だった。


 用意されたスリッパを履いて、外観よりもはるかに広々とした印象のリビングに通される。


 動画で見たカウチ。モーニングルーティンで映り込んでいたふかふかのラグマット。背の低いシェルフには、趣味のいい食器が並ぶ。


 部屋の角には暖炉があった。

 これは僕もよく覚えていて、飾りなどではない。小さいころ、寒い日に火をくべてもらってよく暖を取ったものだ。暖房は他にあったけど、あのクリスマスツリーでも眺めるかのような特別感が良かったんだよね。


 僕がキョロキョロしている間に、父さんはお茶を入れると言ってキッチンへ行った。


 好きなようにしていていいと言われたが、どうしたものか。


 ふと、シェルフの上に写真立てが置かれているのを見つける。

 この家にあるものはどれもこれもピカピカなのに、その写真立てだけが古ぼけて見えた。


 近付いて、中におさめられている写真を覗き込む。


 あっと声が出た。


 狭いフレームの中に押し込められるようにして、白猫を抱いて微笑む子供……。


 これは僕だ。


 僕は写真立てを手に取り、キッチンへと走った。


「父さん」


「うん? どうした、真琴。走ると危ないよ」


「僕が小さいときに連れてきた猫がいたでしょ。たしか、シェロって名前。シェロはどこ?」


 ああ、と父さんがティーポットに落としていた視線を上げる。


「あの子は死んでしまったよ。残念だけど」


「あ……そっか」


 そういえば、父さんからそんな旨の連絡が来ていたかもしれない。


 けれど、いまの僕からはシェロに関するほとんどの記憶が抜け落ちていて、現実味がわかなかった。


 だからこそ、ひょっとしたらという期待があった。


 僕たちが庭で過ごしている間、この家のどこかですやすや寝息を立てていたのかもしれないと。


 寿命だったのか、病気だったのか、訊くことはできなかった。


 だって僕は、いきなりシェロを連れてきて毎日の世話を押し付けた挙句、勝手にフェードアウトしたんだから。


 週に何度か学校帰りに寄って遊び相手になる程度の存在だった僕に、シェロが心を寄せるはずがなかった。


 七年ぶりに思い出して死因を訊くなんて、父さんに責任転嫁をして、責めているみたいじゃないか。


 僕はあまり落胆したそぶりを見せないよう努めながら、そのままリビングに引き返す。


 父さんが持ってきてくれた紅茶は、とてもいい香りがしたのに、なんだかいつもより苦く感じた。


 <つづく>

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