第三話 配信者・ユキ
それから、一週間ほど経った日のこと。
事態は急変した。
言うまでもなく、結衣の父親の仕業だろう。
頭に血がのぼった。
痛々しい痣に
しかし、僕が取り乱せば、結衣は遠慮してここに来なくなってしまうかもしれない。
「……警察に言わないの?」
「言わない」
思った通りの回答だった。
結衣は明るくて元気でポジティブな性格の割に、身の回りの変化を嫌うところがあった。
進級の時期や席替えがあると、いつも『そのままでいいのに』と笑いながらぼやいていた。
僕は納得できなかったが、彼女を無理矢理警察に連れて行こうとは思えなかった。
もし上手く伝えきれず、更にはそのことが結衣の父親に知れて、彼女の立場を悪化させたら?
望まない変化に、結衣を疲弊させるだけになったとしたら?
警察や児童相談所が動いた結果、結衣と離れ離れになってしまったら?
そこまで考えて、僕は自分が恥ずかしくなった。
自分では彼女を守るためになにも出来ないばかりか、最後のひとつは完全に自分本位の考え方ではないか。
僕が軽く落ち込んでいると、
「あのね、マコに見て欲しいものがあるの」
僕のベッドの縁に背中を預け、スマホを触っていた結衣が振り返った。
なに? と尋ねる前に、目の前にスマホの画面を突き出される。
それは僕もたまに使っている、某動画サービスの画面だった。
「結衣ってこういうの見るんだ?」
「ぜんぜん見るよぉ? 動物とか、お料理とか、ゲームの実況とか」
ヘッドホンをして、父親の大声をシャットアウトするという目的もあるようだ。
「でも最近は、このチャンネルばっかり見てるけど」
そのチャンネルは、ユキと名乗るひとりの男によって運営されている。
ジャンルは雑多で、楽器演奏、歌唱、絵画や陶芸などの芸術、料理、園芸、DIYなど多岐にわたる。
単なる多趣味だろう思ったが、その完成度は素人レベルを脱しているそうだ。
顔出しは一切しておらず、画面にはいつも首から下、または作業をする両腕のみが映し出されている。
ライフワークやモーニングルーティンなどの動画も公開しており、けっこうな人気だそうだ。
リスナーの中には親しみを込めてユッキーと呼ぶ人もいるそうだ。
結衣から一通りの説明を受け、僕は正直うんざりした。
知らない男の私生活なんか見て、なにが楽しいんだろう。
けれど、口に出せば結衣を悲しませてしまうので、僕は黙って頷いていた。
好きなものについて嬉しそうに話す結衣は本当に可愛い。
「リンク送っておくから、マコも一緒に観ようよ」
「えっ」
目の前で再生してもらって、それをちらっと見る程度のことは想定していた。
しかし結衣曰く、ひとつの動画だけではユキの魅力はわからない。
メッセージアプリにいくつもオススメ動画が送られてくる。
コレ全部、観るしかないのか。
そりゃ、結衣のためなら苦にはならないけど。
……ひとりで?
「待って! これはあとで観させてもらうけど……オレ、ひとりじゃよくわかんないよ。だから最初の動画はふたりで観ない?」
僕が慌てて提案すると、結衣は嬉しそうにベッドに座る僕の肩に自分の肩を寄せてきた。
長い髪の毛が甘く香りながら、ふわりと僕の首筋に触れる。
顔が赤くなりそうなのを必死で抑えようとして、乾いた唇を強く引き結んだ。
その間抜けな顔が目の前に置かれていた姿見に映し出され、死にたくなる。
今の僕の顔は、熟し過ぎたリンゴが踏まれてひしゃげているみたいだった。
「じゃあ、この動画から」
加工された桜貝みたいな指先が、輝度を高めに設定された画面をタップする。
十五分程度の尺を取った動画がすぐに再生される。
広告を入れていないのかと思ったが、どうやら広告を消すための特別コースに入会しているらしい。
余程、ユキとやらの動画を邪魔されたくないようだ。
自宅の庭や家の中を次々と映し出すセンスのいいオープニングに続いて、男のウエストショットが映し出される。
結衣の言っていた通り顔は映らないものの、間違いなくイケメンだった。
程よく鍛えられた上半身に、清潔感溢れるオフホワイトのシャツ。シンプルな革のベルトでしめられた、細く引き締まった腰。
これから行う作業のためか無造作に捲られた袖から覗く腕からは、なんというか、非常に頼りになりそうなオーラが放たれている。女性なら思わず組み付きたくなるだろう。
きっと背も高いんだろうな。
僕は百六十センチとちょっとしかないから、羨ましい。
結衣はこういうタイプの男が好きなんだろうか。
複雑な気持ちになりながら、男の姿をあちこち観察していたため、最初の挨拶的なものを聞き逃した。
結衣に怒られそうなので、そんな態度はおくびにも出さないが。
配信者の名前はユキ。それさえ覚えておけば、何とでもなる。
けど、ここからは真面目に聞こう。
終わった後に感想を言い合えれば、きっと結衣も喜ぶだろうから。
『今日は庭で採れた苺を使って、自家製ジャムを作るよ』
その声を聞いた途端、僕の目は真ん丸になった。
喩えるなら、晴れた日の砂浜をさらう、静かなさざ波。
温和でなだらかで抑揚がなく、彼が穏やかに微笑んでいることが、声を聞くだけで伝わってくる。
「……うそ」
僕は、この優しく美しい声の持ち主を知っていた。
<つづく>
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