第二話 結衣の父親

「もー……なんだよ、結衣ゆいのやつ」


 僕は一向に出てくる気配のない幼馴染の家の前で、腕時計を見ながらむくれていた。


 これからは一緒に登校しようね、なんて言ってたのに。


 朝から一緒なのが楽しみ過ぎて、僕がちょっと早く出過ぎたにしても、約束の時間からもう十分も過ぎている。


 寝坊でもしたのだろうか。


 スマートフォンを見てみるが、新着メッセージは届いていない。

 スクールバッグを肩にかけ直しながら、玄関の前で待つ。


 先に行くという選択肢は、ない。


「もしかして、具合でも悪……」


 呟きかけた時、扉の向こうから大きな音がした。


 食器の割れる音。それも複数の食器を、一気に床に落としたような。


「おい、コラァ、結衣!」


 凄まじい怒号に身を硬くする。

 その声には聞き覚えがあった。


「……お、おじさん?」


 おじさんといっても、もちろん僕の叔父とか伯父とかそういうのではない。


 結衣の父親だ。

 小さい頃は結衣の家でたまに遊んでもらったが、ここ数年間は姿を見ていなかった。


 最近は仕事が忙しいらしく、最近は日付が変わる頃にやっと帰ってくるのだと、結衣が言っていた。


 昔から気むずかしくて荒っぽい印象はあったけれど、結衣を怒鳴りつけるような人ではなかったような……。


 どたどたと慌ただしい足音が聞こえ、引き戸の曇りガラスに濃紺と赤のシルエットが浮かび上がる。


「もう私、行くから!」


 苛立つような結衣の声。


「おい、待てよ! 話はまだ終わってねえぞ」


「まだ言ってるの? 高校生がお酒なんて買って来られるわけないでしょ!?」


「俺は疲れてんだぞッ! お前みたいなガキの十倍、いや、二十倍はなッ」


「はいはい。わかってるってば。じゃあ、ちゃんと鍵閉めて出て行ってね!」


「テメ……」


 再び喚き散らそうとしたおじさんの声を遮って、勢いよく戸が開け放たれた。


 突っ立っていた僕は、至近距離で結衣と対面することになる。


 女の子特有の甘い香りが広がって、僕はどきりとした。


 結衣は別の意味で驚いたらしく、一瞬目を見開いて固まったが、すぐに上半身を捻って扉に手を掛けた。


「じゃ、行ってきます!」


 ***


「……」


 揃いの制服を着て、ふたりで通学路を歩くのは、もう一年ぶりになる。

 僕は何日も前から楽しみにしていた。


 それなのに、あんなシーンに出くわしてしまい、ふたりの間に流れる雰囲気はあまり良くない。


「ごめんね、遅くなっちゃって」


 まだ人通りの少ない住宅街で、結衣が予想通りの文言で謝罪する。

 僕は首を振った。


「結衣が悪いんじゃないよ」


 気まずい空気が流れているせいだろう。

 どんな顔をして、どんな声を出したらいいのかわからなくて、少しぶっきらぼうな物言いになってしまう。


 そんな僕の顔を覗き込むようにして、


「ありがとね」


 結衣は小さく微笑んだ。


 ほころんだピンク色の唇の可憐さに、僕は一瞬瞳を奪われる。


 気付かれまいと、誤魔化すようにして視線を逸らした。

 真新しいスニーカーが、じゃりじゃりとアスファルトにれて爪先を削る。


「おじさん……いつもああなのか?」


 まあねえ、と結衣は暢気な口調で返事した。

 ちらりと盗み見た横顔は、いつもの能天気で温かな微笑みに彩られていた。


「でも大丈夫だよ。音が大きいだけで、大したことないから」


「でも、食器が割れていただろ?」


「ああ、あれね。安物だよ」


 僕の言葉を、結衣は笑い飛ばした。


 百均に行って、今度はプラスチック製のお茶碗でも買ってこようかな?

 なんて言っている。


 そういう問題じゃない。


 食器の値段なんかどうでもいい。


 結衣が怪我するかもしれないじゃないか。


 僕は結衣が心配なんだ。


 言いたいことが次々に溢れ出てきて、どれから言えばいいのかわからなくなり、僕は言葉に詰まった。


 ぎゅっと拳を握って結衣を見つめると、彼女は困ったようにまた笑った。


 結衣はいつも笑っている。


 怒った顔なんて、見たことがない。

 さっきみたいなイライラした声も、僕は今日初めて聞いた。


「結衣、オレは……」


「まあまあ。心配しなさんな。私はこの通り、元気だよ」


 その言葉の、その表情のどこに、誰が嘘を感じられるだろうか。

 言い切った声には、有無を言わせぬ強さがあった。


 僕はなにも言えず、しょんぼりと俯くしかない。


「ありがとねえ、マコ」


 結衣の柔らかな白い手が、僕の髪を撫でる。

 明らかに子ども扱いされていたが、不満を言う気にもなれなかった。


「オレに……できることはないの?」


 弱々しく訊ねると、結衣は空を仰いでうーんと唸った。


「ヤバくなったら、マコの部屋に避難させてもらおっかな?」


 僕は心に、温かな灯かりがぱっとともるのを感じた。


「もちろんだよ! いつでも来て。きっと、母さんも喜ぶ」


 僕の返事に、結衣は嬉しそうに頷いた。


 彼女のために僕が出来ることは、ないのかもしれない。


 せめて、ほんのひと時でも居場所を作ってあげられればいいと思った。


 でも。


 僕はこの時、彼女のことをなにも知らなかったんだ。


<つづく>

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