第2話 「これで最後なんてイヤだよ…」

9月30日


ワーキングホリデーで海外に行きたいからという理由で退職を申し出たのが7月末。直属の上司からは渡航してからの目標が不明確、お前の将来が心配という理由で反対された。


筋肉質で高身長、色黒で低音ボイスな上司には度々叱られていた。

何を伝えたい資料なのか分からない、プレゼンではもっとハキハキしゃべろ、協力業者の管理が雑、お客さんの都合を第一に考えて動け、などなど。

自身も忙しい合間に指導していた部下が急に辞めるとなって、思うところはいろいろあっただろう。


広い会議室で一対一で向かい合う。

上司は僕の語る言葉にゆっくり耳を傾けていた。

背景のホワイトボードのせいで黒さが引き立つ。

しばらく腕組みをしながら虚空を見つめた後に、テーブルの上に片腕を載せて口を開いた。

「それでも行きたいのであれば俺に引き止める権利はない。後悔の無いようにな!」と快く送り出してくれた。

僕は黙って頭を下げることしかできなかった。


最終出社日の今日は晴れていた。

普段はしないネクタイを締める。

約4年勤めたこの職場も今日で最後かと思うと、少し緊張する。

お疲れ様です。と挨拶しながら出社すると、数人から「お疲れ様でーす」と淡白な声で返ってくる。

僕の気持ちとは裏腹に、皆はいつも通りだ。

そりゃそうか。僕が居る居ないに関わらず、発注は来るし、プロジェクトは進行する。納期は待ってくれない。


少しホッとした気持ちと共に自席に着き、隣の席の宮野さんに「おはようございます」と挨拶すると

「今日が最後なんだね…」悲しそうな、でも少しあざとさを含んだ声を掛けてくれた。

「後で写真撮ろうね」とも言ってくれた。

宮野さんは今日もキレイだ。

微笑みかけられると胸の奥がキュッとなる。

これも今日で見納めかと思うと、尚更だ。

肩まで伸びた茶髪混じりの髪は艶やかで、毛先はキレイに整っている。

目はパッチリ大きく、長いまつ毛に手繰り寄せられて吸い込まれそうな瞳。

そこから下はピンクのマスクに隠されている。

一度だけ、そのお顔の全貌を目撃したことがある。



宮野さんは恵比寿に住んでいる。

僕が撮影で朝から恵比寿に行ったときに、今日は在宅勤務で家にいるからとランチに誘っていただいた。

撮影が早めに終わったので、指定された店の前で待っているとママチャリに跨って颯爽と現れた。前後にお子さんを載せるシート付きだ。

ごめんねーお待たせーと言いながら降りた宮野さんは、日差しと相まって直視できない。


落ち着いた雰囲気のイタリアン。平日の昼間であり、オフィス街でもないことから客はまばらだ。

席に着き、僕がメニューを決めると「私も一郎くんと同じやつ」と言ってくれた。恋愛経験に乏しい僕はそんなことでもドキッとしてしまう。

午前の撮影について話していると料理がきた。

おいしそうですね。と言いながら料理から目線を上げると、マスクを外している宮野さんと目があった。

時が止まる。

マスクの下も期待を裏切らない美しさ。僕は見惚れ心と嫉妬心を気づかれないよう視線を料理に戻した。




正面のPCに向き直った宮野さんの横顔を一瞬盗み見てそんなことを思い出す。気を取り直して、自分もPCを立ち上げる。

最終日はあまりやることがない。経理・人事の方と雇用保険や退職金の説明など受けた後、やり残した引き継ぎ作業を終わらす。社用PC・スマホのデータを消去して返却すると、本当にやることがない。帰ろうかとも思ったけど、17時頃に簡単に送り出し、寄せ書きの贈呈もするから待っててと上司に言われている。


暇なので適当に社内をぶらつき、知った顔に声をかける。

「実は今日で最後なんです!」「おー!今日だったか!お疲れ様!」

「最後に写真撮ろうよ」「いいねいいね撮ろう!」「あいつも呼ぶか」「はいチーズ!」「じゃ、元気でな」「おう!ありがとう!そっちもな!」

まるで卒業式。

仕事内容は好きになれず、嫌なこともたくさんあったけど人には恵まれた4年間だった。

出会いに感謝。


時計を見ると15時30分を少し回ったところ。1番一緒に写真を撮りたい宮野さんは時短勤務で16時には退勤する。朝の会話を忘れて帰ってしまわないだろうか。いつ声をかけようかと考えていると、LINEが来た。

「16時10分くらいに退勤します。渡したい物もあるからエレベーターまでお見送りしてね!」

よし!心の中でガッツポーズしてから「了解です!お見送りさせていただきます!」と返信した。


16時10分 宮野さんはパタンとPCを閉じて小さく「お疲れ様です」とつぶやいて席を立ち上がる。一瞬、誘うような視線を僕に向けて、出口に向かって歩きだした。

周囲に不信がられないよう少し時差をつけて僕も出口に向かう。


エレベーター前に宮野さんは立っていた。

「はい。これ。4年間お疲れ様でした」金のリボンで結ばれた白い不織布の包みを受け取る。「近所のおいしいお菓子屋さんのクッキーとサカナクショングッズ!帰ってから開けてね」

嬉しくて嬉しくて、退職するのが急に嫌になった。

「ありがとうございます!本当に嬉しいです。こんな僕に。。。ありがとうございます。あの、写真撮りましょう!」「そうだそうだ!撮ろ!」

僕はスマホを取り出しインカメラに構えるが、ふと思う。

「僕自撮り下手なので宮野さんのスマホで撮ってもらっていいいですか?」

「あ、そうだね。この前一緒に撮ったやつ下手だったもね」宮野さんは意地悪く笑う。

「じゃあ、はいチーズ! うん もう一枚 はい!」

2人顔を寄せ合って笑っている。写真の僕はニヤけてだらしない顔だった。仕方ない。こっそり嗅いだ髪の匂いは今も覚えている。


チンッ エレベーターが到着した。

「あ、外まで送らせていただきます!」

1秒でも長く一緒にいたかった。

エレベーターの中では無言。その白く長い指を僕の指に絡めたい。

何バカなことを考えているんだろう。宮野さんは主婦なんだ。手を出してはいけない。好きになってはいいけない。苦しい。


すぐ一階に到着した。

ドアを押さえて、宮野さんを先にお出しする。


宮野さんは「これで最後なんてイヤだよ…」と言ってくれた。本当にかわいい。

「僕も… せっかく仲良くなれたのに」と精一杯に返す。


無言で歩き、オフィスを出る。

お元気で!

そう言って僕は手を振った。

遠くに去って行く背中を見続けた。

ちょうど日が落ちる頃だ。少し肌寒い。

宮野さんは角を曲がる前に一度振り返り、手を振り返してくれた。

高層ビルに阻まれて、夕陽は見えない。



あー。

終わってしまった。

全て終わって1人家に帰り、夜、酒を飲む。

贅沢にプレモルをプシュッとする。

「さよならはエモーション」を流しながら感傷に浸る。

東京最後の夜は、静かな夜だ。

明日の飛行機で実家の北海道に帰る。


シュッ 通知が鳴る。宮野さんからだ!!

「明日関東に台風直撃みたいだよ!飛行機飛ぶかな…?」

飛行機の心配までしてくれるなんて、本当に優しいお方だ。

「今のところ飛ぶ予定なので大丈夫そうです!ご心配ありがとうございます!

もし飛ばなくて路頭に迷ったら、慰めてください笑」

軽い気持ちで返した。

まさかこれきっかけに、宮野さんとのLINEが今後1ヶ月も続くなんて思いもしなかった。

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