第十八章 三



 


 

「大きくなったら行きたい場所があるの」


 エリが手を伸ばした先には、青空はなかった。


 灰色のシミがついた冷たい天井が、そこにあるだけだった。


 しかし、エリの目は青空が映っているかのように清々しい光が宿っていて。丸まっていた背中を伸ばして、後頭部をこつんと壁に当てて、小さく微笑んだ。


 横に座っていたハルトが「へえ」と相槌をうって、柔らかく垂れ目を下げた。


「どこに行きたいの?」


「日光東照宮」


「し、渋いね……」


「冗談よ。たしかに私は日本史の漫画を全巻熟読している歴女だけどね、徳川家康は好みじゃないの。行きたいのは、松島よ」


「……そっちも渋いな。なんで松島なの?」


「小さい頃、よく行っていたの。実は近くに住んでいたことがあってね、お父さんが大好きだったから」


「へぇ」


 お腹すいた。そんなか細い音がした。エリとハルトは部屋の隅を一瞥して、話を続けた。


「すごく綺麗な場所なのよ。俳句にも詠まれてるくらいだし、アインシュタインも月見をするために訪れてね、松島の月のあまりの綺麗さに絶句するほど感動したと言われてるくらいなんだから」


「それは知らなかった。行ったことないけど、よっぽど綺麗なところなんだろうな。ていうか、エリは博識だね」


「お父さんの受け売りよ」


 お腹すいた。


 エリの眉根が微かに動いた。


「また見たいのよねえ……。はじめてあそこで月を見たときの感動が忘れられなくてさ。あんた、もし出られたら一緒に行く?」


「それはいいね。みんなで一緒に行こう」


「あら、美少女と二人きりでデートをするチャンスなのに、棒に振る気かしら?」


「まあ、みんなで行った方が楽しいだろうし」


「つまらない男ねー」


 お腹すいた。


 エリが、壁を平手で叩いた。


「やかましいわねさっきから! そんなこと言ったって、ないものはないのよ!」


 叫びのあと、棚を叩いた後に出てくるホコリのように気まずい沈黙が舞い降りる。電灯がチカチカと点滅した。奥に蹲っていたフトシの肩がかすかに震えていた。


 エリはぎりぎりと拳を握りしめ、叫んだ。


「みんな我慢してるのよ! あんただけじゃない、ハルトもシオシオも! 辛いのはみんな同じなんだからグチグチ言うんじゃないわよ!」


「……」


「こんなわけわかんないところに閉じ込められて、ご飯もまともに出てこないで、ただでさえイライラしてんのに、これ以上苛つく要因を作るな! 黙ってツバでも飲んでろノロマ!」


「エリ、やめろよ」


 ハルトが首を横に振って静止する。


「言ってることはその通りだけど、言い過ぎだ。フトシも分かっているけど、つい言っちゃうんだよ。気持ちはわからなくない」


「あんたこいつを庇う気!?」


「庇うとか庇わないとか、そういう話じゃないよ。僕はどちらの敵でもない。わかるだろ? 喧嘩したって状況が変わるわけでもない」


「……でも!」


「怒鳴るとエネルギーを使うよ。食事が来るまでまだ時間あるだろうから、少しでも動かない方がいい」


 冷静なハルトの指摘に、エリは舌打ちを打ちながらも感情の爆発を抑えた。座り直し、爪を噛んで天井を睨んでいる。フトシの濡れた虚ろな目が、ハルトをとらえていた。ハルトは微笑んで、フトシに毛布をかけにいく。耳元で何やら言っているのは、慰めているからだろうか。


 傍で見ながら、鳴花はハルトの冷静な対応に驚いていた。自分も空腹に苦しんでいるだろうにそんな不満を微塵も口にせず、相性が致命的に悪い二人の間を取り持っている。自分と対して変わらない年頃であろうに、信じられないくらい大人びている。


 毛布をかけ終わり、ゆっくりと動いたハルトの細腕。そこに傷跡が覗いた。切り傷と火傷の跡。明らかな暴行と虐待の証だった。


 ハルトは母親の再婚相手から筆舌に尽くし難い暴力を受けてきたのだという。死にかけるまで追い詰められ病院に搬送されたあと、児童相談所に保護され、異色家が運営する施設に移されたらしい。両親は逮捕されたあと、失踪した。


 その壮絶な体験が彼を大人に変えたのだろうか? 鳴花はハルトの過去に同情しながらも、ハルトの老練した精神性が理解できなかった。なぜ、そんな風に人に対して優しくなれる? 散々痛めつけられてきて消えない傷を負わされてきたのだから、人を憎まずにいられなくなるのが普通ではないか? 施設でも、その傷のせいでいじめられてきたと言っていた。


 なぜ?


 なぜ、そんなに人のために動ける?


 ヒーローにでもなっている気なのだろうか? 自分を手酷く扱ってきた人間に優しくすることで、歪んだ幸福感や満足を得ているのか? メシア症候群、ホワイトナイト症候群。拷問の合間にうんちくを垂れるのが好きな異色香澄が教えてくれた無駄知識。いや、覚えさせられた。それがあいつの楽しみだったから。


 鳴花は、懐に隠した折りたたみナイフを触る。部屋の中央にある箱――その中に入っていたものだ。あの箱にはナイフの他にも様々な薬品や救急キット、斧、ノコギリ……あらゆるものが収められていた。そこから三人に気づかれないよう拝借してきた。


 ハルトは首にかけられたネックレスを撫でていた。異色家の家紋が意匠された、施設の子どもたちに渡される装飾品。


「シオンは大丈夫?」 


 ハルトが、こちらに顔を向けてゆっくりと近づいてくる。


 鳴花は膝をさらに抱えて顔を隠した。


「別に。お腹、空いてないから」


「そうか。毛布、置いておくから寒かったら使いなよ」


「……うん」


 ちらりと膝から覗いたときに見えたハルトの微笑みに邪気はない。河川敷に咲いた風にそよぐタンポポがふいに浮かんだ。雨上がりの、少し淀んだ川の臭いが脳裏に香る。


 鳴花は、身体をきつく抱いた。


 怖い。


 その、純粋な暖かさを疑うことが、怖い。自分が身も心も化け物になったように感じられてしまうから。


「……ハルト」


 気づいたら、名前を呼んでいた。しゃがれた声。女の子らしさなんか微塵もない。


「なに?」


 彼はまた優しく微笑んでくれる。


 いつ以来なのだろう、こんな穏やかな笑顔を見るのは。嗜虐心に満ちた邪悪な笑みじゃない。春の日差しを感じる笑顔。


 それはきっと、鳴花が渇望していたもの。


「……なんでもない。ありがとう」


「うん、こちらこそ」


 鳴花は顔を伏せて唇をかんだ。


 優しさは毒なんだと気づいた。




 


『鳴花ちゃんは可愛いですね』


『ねえ、今日は嫌なことがあったんです。兄さんが、女の子に好きだって言われていたんです。私、許せなくて許せなくてその泥棒猫の食すものに毒を盛ろうかと思いました。まあ、さすがにそんなことをしたら、「余計な手間を増やさないでくれ」と父様に叱られてしまうからできませんが……。だからそのかわり、居なくなってもらいました。手間の少ない方法でね』


『しかしそれだと、フラストレーションは取り除けません。だからね、鳴花ちゃん。今日もたくさん歌いましょう。また人間蓄音機になってくださいね。うふふ、最初の曲はヘルタースケルターです。ほら、歌ってください』


 電動ドリルの音が、脳髄を芯まで侵した。


 



「あああああああああああああああああああああああああああああっ!!」


 鳴花は、床をのた打ち回った。


 眠っていたハルトたちが何事かと身体を起こしている。だが、そんなことにさえ気付かず、鳴花は頭を抱えて叫びながら背中をくの字に曲げて飛び跳ねた。口の端から泡が浮かぶ。頭を床に打ち付けて、笑うように哭いた。


 電動ドリルの音が、ごりごりと身体中に響いている。痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい――。


「嫌だあああああああああっ、お母さんお母さんおかあさん! 助けてえええええっ!」


 箍が外れたように泣き叫ぶ。


 それはきっとあの地下室から開放され、同世代の子どもたちとわずかでも心を通わせたことで生じた、灯火のような安心感のせいだろう。


 緩んだせいだ。緩んだせいで、こうなった。


 それだけ、張り詰めていたのだ。


「――」


 どれだけ暴れただろうか。


 気づいたらハルトに抱きすくめられていた。


「……は、ると?」


「落ち着いた? よかった……」


 ハルトは相変わらずの穏やかな笑顔を向けてくれる。


 鳴花の頬に水滴が落ちてきた。ハルトの頬からこぼれた赤い液体。


「ハルト、それ……!」


「いいんだ。ちょっとぶつけちゃっただけだから」


「け、けがしてる! お、俺のせいで……?」


「大丈夫だよ。そんなに大した怪我じゃないから、あの箱の中にあった絆創膏貼っつけておけば大丈夫」


「で、でも……!」


「ハルトが大丈夫って言ってんだから気にしなくていいのよ、シオシオ。……それよりあんたの方がやばかったでしょ? 大丈夫なの?」


 エリが呆れたように言いながらも、心配そうに覗き込んでくる。あれだけ怖がっていたはずの鳴花の顔を見ても、視線は揺らがない。


「シオンちゃん大丈夫……?」


 フトシがエリの後ろから恐る恐る訊いてくる。


「……う、うん。みんなごめんなさい。昔のこと思い出して取り乱しちゃった」


「そう……」


 エリが細く息を吐いて、目を伏せた。


 鳴花の目からじわりと熱いものが浮かぶ。とまらない。ボロボロになった魂の代謝物が、どんどん頬を流れた。ハルトの腕が、気遣うような優しい強さで抱きしめてくる。


「……音がするんだ。ドリルの音が、止まらなくて。あいつが……あいつが俺に痛いことばかりしてくるんだ。わけのわかんないこと言って、歌わされるんだよ。じゃないと、俺は俺は……」


 何を言っているのか、言いたいのかさえわからない。でも言葉は止まってはくれない。ずっとずっと秘めてくるしかなかった。絶望の果てに諦めてしまった。誰かにこの苦しみを分かってもらえることなんて。


「なんで、あんなことされなくちゃならないんだ……? 俺はなにも悪いことなんかしてないのに……。毎日毎日、あいつの声が頭の中を反響してとまらない。痛すぎてどこが痛いかもわからなくて。虫を食べさせられた。夕飯だと言って……まだ生きてるやつを」


「シオン」


 ハルトが、悲しそうな声で囁いた。


「辛かったね」


「……っ」


 その言葉は、鳴花の胸を深く抉った。共感。それはずっとずっと鳴花が欲しかったもの。


 誰も優しくなかった。誰も助けてくれなかった。


 寄り添って、欲しかった。


「……うん」


 視界がぼんやりと滲んで、ハルトたちがくれる暖かさだけが感じられた。まるで木漏れ日を受けて眠るような穏やかさと優しさの中で、鳴花はもはや手に入らないと諦めていた安らぎを得た。





 あれからどれだけが過ぎたのだろう。


 時計さえないこの部屋では、時間の経過はわからない。何回寝たのかさえもはや曖昧で、意識は穏やかな死を迎えようとしていた。


 もはや起き上がる気力もないのだろう。虚ろな目をしたエリが、横になりながらこちらを呆然と見ていた。フトシも天井を見つめながら、ブツブツと呟いている。お腹空いた。そう繰り言を弄しているのだ。


「……大丈夫かい?」


 隣にいたハルトが訊いてきた。心配してくれる彼も頬がこけ、生気がない。饐えた臭いが鼻についたのは、ずっと風呂に入れていないからだ。


 鳴花は静かに頷いて、ハルトから視線を外すとそっと目を伏せた。衰弱していくみんなを見るのが辛い。こんな酷いこと、人間のすることではない。憤りを覚えたが、その炎も空腹の前ではすぐに消される。


 どうしてこんなにも衰弱しているのか?


 簡単な話だ。日に日に小さな食器口から供給される食事の量が減っているからだ。徐々に徐々に減らされていっており、今ではおそらく一人分程度の量しかないだろう。それを四人で分け合っているのだから、足りるわけがない。


 何をしたいのか。


 こんな、甚振るような真似をして何が楽しい?


 異色香澄の残虐な笑みが頭に浮かぶ。あの女は、異色家は、何を考えているのかわからない。


 鳴花は天井をぼうっと見詰める。四隅にあったシミが、ぼんやりと広がって見えた。このまま緩やかに死んでいくのだろうか。それでもいいか。どうせ、このまま生きていたところで自分には未来なんてないのだから。それならここにいる四人と一緒に、ゆっくりと生を終えられる方がいい。一人ではないのだから。一人ではないのなら、怖くはない。あの日々に比べたら怖いものなどない。


 ああ――。


 鳴花はちいさく笑う。


 ――俺は、死にたいんだな。


 ハルトがフトシに歩み寄って何かを囁いているのが、視界の端に映った。何かを渡している。何かは分からないが、こんな状況においてもハルトがお人好しを発揮してフトシを心配していることだけは分かった。ネックレスを撫でている。異色家の家紋を、触っている。


 ――そんなもの、撫でるんじゃねえよ。


 鳴花の目から、一筋、魂の滴がこぼれた。





 

 エリが死んだ。


 白い泡を吹いて、いきなり痙攣して、首をかきむしりながらそのまま息絶えた。もだえ苦しむエリを救うすべは、弱りきって無力な子供たちにはなく、彼女が力尽きるその瞬間を見送ることしかできなかった。


 フトシも、ハルトも、鳴花も。ただただ立ち竦み、呆然としているだけだった。苦しげな彼女が吐いた最後の言葉が、ずっと耳朶から離れない。


 お父さん。


 ほとんど聞き取れないような、か細い声だったはずなのに。


 ずっとずっと反響している。


「……あははは」


 目を虚ろにしたフトシが笑い始めた。


 何がおかしいのか? 笑えない。


 そんな風に問い詰める気力も余裕もなかった。


 フトシはふらふらと壁まで歩き、まるでヤモリのように張り付いてペタペタと手を動かしながら、くぐもった笑いを漏らし続けた。電灯が、チカチカと点滅する。エリの白い顔が闇に消えては現れ、闇に消えては現れる。


「これで……ご飯が多くなる」


 耳を疑う言葉だった。フトシが言ったのだと気づいても、その背中にナイフを向ける気は起こらない。フトシの笑みがだんだん崩れ始めて、涙声が混ざっていた。ああ、イカれてる。何かが決定的に壊れたのだと、鳴花は悟った。


 隣りにいたハルトを見やる。ハルトは無表情だった。静かな眼差しでエリを見下ろしている。なんの感情もそこにはない。


 なにも感じられなくなるくらい、麻痺しているのか?


「……もう、終わりだね」


 ハルトの呟きが、耳に残った。






 肉を叩く音がした。


 水が飛散る音がした。


 鳴花は、目を覚ました。冷たく無機質な天井。汚れた壁。毛布をかけられたエリの亡骸。


 そして、床に広がる真っ赤な液体。


 鳴花の目が見開かれた。


 ハルトがフトシに跨って、斧を振りおろしていた。鈍色の輝きを放つ刃先が、吸い込まれるようにフトシの頭に突き刺さり、肉と骨を砕く。血飛沫がハルトの顔を汚す。フトシの目玉が転がった。赤い液体を吐き出し続けるフトシの顔面は、幾度も幾度も叩きつけられたせいかもはや原型を留めていなかった。


 身体の中に、痺れが走る。何が起こっているのかわからない。目の前で起こっている事実を飲み込めない。


 フトシの指が、生命の残滓を床に刻みつけるように痙攣し、地面をかいている。激しい息遣い。ハルトが肩を上下させながら斧を手放して、両手を天に上げる。まるで、見えない盆をかかげて恵みの雨を乞うがごとく。


 ハルトの言葉に、鳴花は目を丸くした。


「……香澄様。やりました」


 恍惚の表情で、ハルトが魔王の名前を呼んだ。


「やりましたよ! あははははは、罪人を裁きましたあ! 僕は……これで救われるんですよね! あなたの教えのとおりに!」


 血に濡れたネックレスに、ハルトが口づけを落とした。異色家の家紋が、悪魔の顔のように変質して見えてしまう。ハルトの壊れた哄笑が冷たい部屋に響き渡る。まるで、ああ、まるで、拷問されているときの自分の悲鳴のように――どこか遠く聴こえてしまう。


 違う。


 鳴花は、首を横に振っていた。


 違う。あれは、ハルトではない。


 春日の温かみをおびた微笑みが、彼に包まれたときの優しさが、耳朶に触れる言葉の穏やかさが、いったい幾つ重ねたかさえ判然としない、しかし決して短くはない日々の中で見てきたハルトのすべてが思い起こされる。


 違うんだ。


 そうだ、あれがハルトなわけがない。壊れてしまったのだ。いつ終わるかわからない日々に、億劫で退屈な刺激のない時間に、消えることのない飢餓感に、唐突に訪れたエリの死に……恐怖と絶望が、彼を狂わせたのだ。そうじゃないなら、説明がつかない。大人びて落ち着いていた彼が、あんな風になってしまうなんて。狂信者のごとく、あの怪物を崇めるなんて。あり得ない。あり得ないあり得ないあり得ない。


 獣のような黒い目が、こちらを向いた。


「やあ、おはようシオン」


「……は、ると?」


「ん? どうしたの? お腹空いたのかな。ご飯はまだ来ないよきっと」


「お、お前……なんで?」


「ああ、まだじゃないな。もう来ないよ。残念だったね鳴花。今日でもうすべては終わるんだから」


 楽しかったね。


 ハルトはそう言って、斧を手にとった。可愛らしいハルトの顔に、枯れ果てた老人のような醜悪な笑みが浮かぶ。耳の穴から何かが突き出てきた。ハリガネムシ。蟷螂のけつから現れる寄生虫。それが想起される黒いナニカ。


「今日で、僕には迎えが来るんだ。天国にいける、香澄様がいる世界にいけるんだよ! あはははは……もう怖くない。怖くないんだ。僕のそばにはずっとずっと香澄様がいるんだから!」


 ハルトが立ち上がる。


 ゆらりゆらりとフラつきながらこちらに向ってくる。鳴花の身体が後ろに下がった。壁にぶつかる。汗が止まらない。鼓動がはやい。息があがる。壁が冷たい。身体が熱い。苦しい。痺れが止まらない。


「だからね、一緒に行こう? シオンも、僕と一緒なら怖くないよね?」


「……い、いやだ」


「なんで? 天国に行けばお腹も減らないし、痛い思いもしなくていいのに」


「お、お前はハルトじゃない……! お前なんか知らない!」


「僕はハルトだよ? 何を言っているんだい?」


 間近まで迫ったハルトが、斧を振りかぶる。


「ねえ、一緒に行こう。こんな冷たくて痛い世界なんかじゃない。楽しくて優しい幸せな世界に」


「ひっ」


「さあ、一緒に――」


 斧が、鳴花の頭へと振り落とされようとした刹那。


 ――鳴花の頭の中に閃光が広がった。


 真っ白な光に包まれたかと思うと、流星の如き速度で現れた闇に飲み込まれていく。現れたのは血のように赤い、紫の世界。亡者が蛆のように蠢いていた。亡者たちは叫びながらお互いを刃物で刺し、殺し合い、喰らい合っている。あちらこちらから芳醇に香る血の臭いは、憎悪の香りなのだと知れた。わかる。ここがなにか、これがなんなのか。すべて、わかる。憎しみ。果てのない、尽きることを知らない怒り。


 亡者の群れから、化け物が現れた。


 紫色の怪人。


 ああ――俺だ。


 鳴花は確信する。


 こいつは、俺なんだと。


 紫色の怪人は、言った。


 ――殺せ。果てのない苦しみから救われたいのなら。


 ――王を、喰い殺せ。蠱毒を乗り越えたお前には、王の力が渡される。だからそれを使って殺すんだ。


 ――お前が王を。





 我に返ったときには、すべてが終わっていた。


 虚ろな目をしたハルトが、微笑みながら倒れている。その首には折りたたみナイフが突き刺さっていた。何度も何度も突き刺したせいか、無数の傷から血が溢れ出ている。


 殺した。


 鳴花が、殺したのだ。


「……っ」


 鳴花は尻もちをついて、乏しい胃液を床に吐き捨てた。すぐに血が出た。まるで魂を裏返して無理矢理絞り出したかのような、そんな残滓。


 悪寒が止まらない。視界が滲んでなにも見えない。引き攣れを起こしたかのように筋肉が萎縮して、身体が壊れそうだった。


「は、ルト……」


 声が、かすむ。


「いや……ダ。オレは、お前ヲ……こんな風に、しタくなんカ……」


 ハルト。


 ハルトハルトハルトハルトハルトハルト。


 春日の笑みは、もう死に絶えた。あの子が二度とその笑みを浮かべることはない。なぜなら鳴花が終わらせたから。ハルトからすべてを奪い、壊してしまったから。


 鳴花は、泣き叫んだ。


 身体を丸めて、ハルトの名前を叫びながらぐちゃぐちゃになった感情を爆発させる。書き殴った黒い線が、心という薄汚れたノートを引っ掻いて塗りつぶしていく。もう、何が悲しくて何が苦しいのかさえわからない。あまりにも、あまりにも残酷で酷薄な状況すぎて。


 鳴花は、何かが砕け散る音を聴いた。


 もう、この世に救いなんてない。


 神なんて、いない。


『お疲れ様でした、鳴花ちゃん』


 部屋のどこかから悪魔の声がした。


『うふふ、おめでとうございます。これであなたもこちら側に来ることができたみたいですね。まあ、最初から選ばれていたのはあなたでしたから、この結果は出来レースだったわけなんですけどね』


「……」


『実験番号「M―0016」はよく働いてくれました。あはは、時間をかけて調教してきた甲斐があったというものです。一度心酔した駒はよく働きますからね。おかげで、あなたを彼に会わせることができました』


「……っ」


『まったく、馬鹿ですねえ。壊されるとわかっているものに縋ろうとするなんて、愚かにもほどがありますよ。この数年で刻まれた痛みでは教訓は得られませんでしたか? あは、あははははははははっ』


 鳴花は、ゆっくりと顔を上げた。


 異色香澄の声がする方に、血走った瞳を向ける。歯ぎしりが止まらない。崩れかけた歯茎から血が流れ、噛み砕かれた歯がこぼれ落ちたが、そんな痛みなんかなんでもなかった。こめかみが痛い。ギリギリと筋肉の軋みが聴こえてくるほどに、顔面すべてが強張っていた。


 羽化した感情は、蛾のごとくグロテスクな変態を遂げ、壊れた心を繋ぎなおす。


 それはもう、元の紫音鳴花ではなかった。





  



  


「殺して……やる」




 








 

『ねえ、フトシ』


『エリってムカつくよね? フトシの身体がちょっと大きいからって、デブデブ馬鹿にしてさ。そんな酷いこと言うやつに、優しくする必要はないと思わない? 僕はそう思うな』


『それにお腹空いただろ? フトシにはあれっぽっちじゃ足りないもんな。だからね……ほら、エリが弱ってきたらこれを飲ませるんだ。エリが楽になっていなくなるし、ご飯もたくさん食べれるようになるよ?』


『駄目だよ。僕じゃ駄目だ。たくさん食べたいのはフトシだろ? だったら君がやらなくちゃね』


『わかったかい? フトシ。あの子をお父さんのところへ送ってあげよう。きっとあっちで、に行けるさ』




 


 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る