第十八章 二




 太陽が眩しかった。


 太陽が眩しかったんだ。


 すべてを燃やしたその日は、よく晴れていた。


 火だるまになって踊り狂う同級生を見ても、僕は何も感じることができなくて。いじめという不条理を破壊したことに爽快感すら味わうことができなかった。


 燃やさなきゃいけないと思ったから燃やした。


 落ちたゴミをみて、捨てないといけないと考えるのと同じように。


 火が踊る教室の窓はすべて割れていて、ガラスの破片は光を吸って宝石のように輝いていた。


 なあ、なんで、僕は燃やしたんだろうな?


 太陽が、眩しかったからなのかな。


 わからないや。






 落ちていく。


 黒く割れた空間から現れた首だけになった透と「不条理ムルソー」は、葉脈から落ちる水滴のごとく、重力に逆らうこと無く灰色の闇に溶けていく。バシャン、と音がして水の中に入ったときのような浮遊感が襲ったあと、透の意識は急速に覚醒した。


 超再生を発動させ、身体を復活させる。眼の前には怪物と化した「不条理」の無表情。自分の中に攻撃の意思が生まれるよりもさきに、透の拳は「不条理」の顔面を打ち砕いた。頭蓋を砕く感触が、銀の拳に走る。堅く柔らかい。貝殻を砕いて中身に指を突っ込んだときのような、破片の混ざったざらりとした柔らかさ。


 割れた頭蓋から脳みそが踊り、血飛沫が噴き上がった。


 そのはずだった。


 黒い羽が、舞った。


「落ち着きなヨ」


 ふわりふわりと降りる無数の黒い羽。「不条理」が、透の拳を右手で受け止めていた。砕いたはずの顔面は元に戻り、やる気のなさそうな無気力な瞳が光もなく透を見つめている。


 その伽藍堂は、吸い込まれそうなほどに暗く。


 背筋が凍るほどに冷たかった。


 透は「不条理」の右手を振り払い、後ろに飛んで間合いをとった。手の甲に残った生温い「不条理」の感触が、ナメクジを触ったときのような不快感を与えてくる。黒い羽。うっすらと漂う血の臭い。間違いない。やつは、使った。


 透と同じ、救いの力を。


 時を巻き戻し、未来を変革する神の力を。


「……なゼお前が、その力を使えル?」


「さア、僕の中にいルもう一人の僕の気まグれとしか言いようがナいね。僕にモなんで使えているのかはわかラない。君がそれダけ僕にとって理不尽な存在に感じらレたってことじゃナいかな?」


 他人事のように言う「不条理」には、相変わらず感情の機微がない。首を傾げる様が、まるでマリオネットのようにぎこちなかった。


 足が後ろに引いた。


 得体が知れなすぎる。突然引きずり込まれたこの灰色の空間も、自分と同じ位置に立つことができた「不条理」の権能も、すべてが不気味で仕方なかった。


 透は、目線だけ左右に動かした。靄のかかった灰色の世界。鉄棒やサッカーのゴールポストなどが薄っすらと見えた。足元に目を落とすと、足を引いたときに踵で擦った砂が異様に白いことに気づいた。


 これは、石灰の白さ。


 見覚えのあるなんてレベルの場所ではない。誰もが一度は通る場所。


「こコは、僕の心象風景。人をはじめて殺した場所だ」


 「不条理」が淡々と答える。


 透はまともに取り合わず、ただ睨みをきかせながらドスの効いた声を発した。


「……そんなところに連れてきて、なにがしてえ?」


 透の問いかけに、「不条理」は肩をすくめる。


「なにがしタいか……。強いていうなら、話がしたかったカナ?」


「ふざケんな! さっさト元の場所に戻しやがレ!」


「ン? 戻りタいの?」


「あたり前ダ! こウしている間にモ――」


「狼ちゃんたチが危ないダろうネ」


 「不条理」は天気を答えるような気楽さでそう言った。


「デも、だからといっテ戻す気はないヨ。狼ちゃんがどうなろうと僕にハ関係ないシ」


「てめえには無くテも俺にハ関係あんダよ!」


 透が吠えると同時に、「不条理」が一挙に間合いを詰めてきた。放たれた前蹴りにブロックが間に合わず、鎚のような爪先が鳩尾に突き刺さった。せり上がった横隔膜に肺が潰されて、溜まっていた息のすべてが一瞬で吐き出される。黒く染まる視界。内臓を杭で貫かれたような激痛。


 背中に衝撃が走り抜けた。後方にあった建物の壁まで吹き飛ばされたのだ。骨が軋み、内臓が暴れ、悲鳴とともに血の塊を噴き上げた。


「調子に乗っタら駄目だヨ。戻りたいナら、僕を倒してかラお願いするんダね」


「……がふっ、カッ」


「さて、ヒーロー。僕と話をしよウじゃないカ。僕の目的はタだ一つ。感情を知りたイ。それだけダ。それにハたぶん、君と直接対話をするのがもっとモ手っ取り早いんジャないかなと思ってネ」


 血を吐きながら透は跳んだ。空中で超再生を発動し、身体を前方に回転させつつ未来を視る。透が放った胴回し回転蹴りは、「不条理」が右側に身体を引いてかわす。そのビジョンを、透は望む形へ変換させる。白い羽が舞った。かわしたはずの場所に、透の蹴り足が添えられるように――。


「……ハァ」


 「不条理」のため息。


 黒い羽が、舞い降りた。


 白と黒の残滓が混ざりあった瞬間、透の雷撃のごとき胴回し蹴りが「不条理」に叩きつけられた。巨大な鉄球をビルの屋上から落下させたときのような衝撃と轟音が走り抜け、地面が震撼し、嵐の如き砂煙が舞い上がる。


 煙を突き破るように、「不条理」が後方に跳んだ。


「……」


 前腕があり得ない方向に曲がっていた。「不条理」はしばらくその腕を見つめて、超再生で腕を治した。


 砂煙の中から透が現れる。下顎が砕けていた。カウンターでもらった「不条理」の蹴りによって。ふらつきながら、膝を付き、思い出したように再生させる。


 頭がズキズキと痛んだ。怪我はなおっているが、香澄との戦いで立て続けに能力を使用してきた弊害が、透を襲っているのだ。口から溢れた血は、能力使用の限界へ確実に近づきつつあることを意味している。


「……元気がないね。聖母様との戦いが響いているみたいかな」


「うるセえ……。ぶっ飛ばしテやル」


「できルものならネ、やればいいサ。そうすれバ君は愛しイ愛しい恋人のもトへ帰ることができル。それまデは僕とたくサん話してもらうヨ」


 「不条理」は拳を前方に突き出して、ぎこちなく口元を吊り上げてみせた。死にきった表情筋は、錆びきった機械の関節部みたいに動きが悪い。


「殴り合オう。きっト言葉はいらナい」


「……」


「あのときモそうだっタ。僕が覚えた感慨は君の拳から得らレたンだかラ。……ふフ、少年漫画でもよくあルじゃないカ。言葉をかわすヨり戦う方が雄弁に語り合えルってセリフや展開。そんな感じだよナ」


「……クソ野郎が。てメえのイカれた論理に付き合うつもりはネぇ」


 透は震える太ももに活をいれて、立ち上がり拳を構える。半身に身体をずらし、顔面をカバーするように腕を上げ、拳はゆるく握る。空手で染み付いた自然な構え。敵を真っ直ぐ睨みながら、透は細く細く息を吐いた。


「速攻で終わらせてやル。てめえは何も学ばネえよ」


「殺す気なんダね。いいじゃないカ。そっチの方が、ヨり近づけそうダ」


 ――僕の知りたい悟りに。


 黒い「不条理」の全身に、目が咲いた。







 透の身体が、砲弾のように校舎の窓ガラスを破壊した。散り散りと舞うガラス片は、一瞬の光粒を宙に描き、地面に塵となって転がり価値をなくす。教室の引き戸にぶつかった身体は、留まることを知らず、そのまま薄い引き戸を引き千切って中を荒らした。整然と並んでいた机と椅子が、轟音を立てながら転がり、残骸に変わる。


 背中の鈍痛に埋きながら、圧し折れた椅子に手をついて、透は起き上がった。


「……っ」


 強い。


 以前ブラックナイトが戦ったときとは、おそらく比べ物にならないほどに強くなっているはずだ。単純な能力だけではない。力もスピードも、尋常なものではなくなっている。


 透が突き破った入口から、「不条理」が入ってきた。全身のドス黒い瞳が、透をとらえて離さない。


 間合いが詰まった。


「ちぃっ!」


 顔面に放たれた拳を見切り、紙一重でかわした透は、カウンターで右フックを放った。黒い羽が舞う。拳がとらえた「不条理」は姿を消し、後ろに回り込まれた。首を引き裂こうと迫る手刀を先読みし、透の身体から白い羽が舞う。首を引き裂いたはずの手刀が空振りし、「不条理」の身体に横合いからの足刀蹴りが突き刺さった。が、顔面に当たる寸前のところでブロックされる。


 教卓を弾きながら、黒板に叩きつけられた「不条理」を追撃する。攻撃に入る瞬間走り抜けたビジョン。下段からの回し蹴り。脚が圧し折れる。白い羽。そのすべてを巻き戻し、回し蹴りを飛んでかわす。飛び蹴り。黒い羽。「不条理」の身体が消え、脇腹に蹴りが入ってきた。羽が舞う。かわす。羽が舞う。かわす。羽が舞う。かわす。羽が舞う。


 幾重にもかわされる読み合い。幾重にも変えられる未来。幾重にも重なる攻撃。幾重にも幾重にも幾重にも幾重にも。


 やがて幾百も積まれた先読みは追いつかなくなり、拳が骨を砕き、蹴りが内臓をえぐり、貫手が肉を裂き、足刀が耳を削いだ。数え切れぬ暴力でお互いの身体を血に染め、身体を再生させ、その度にまた傷つけ合う。未来を変え、変えられぬときは再生し、また壊し合う。


 不毛な戦い。凄惨な殴り合い。


 やがてお互いの意識は戦いの中に溶けていく。発せられる絶叫と呻き、痛みさえもどこか遠くなり、脳の糖質が血とともに溶け出しているかのように、チョコレートのような甘さが鼻の奥から感じられれる。能力使用限界に近づけば近づくほど、身体を走り抜ける軋みは強くなるのに、それさえもむず痒いなにかに変わっていく。身体中が破裂しそうなほどに熱い。熱い。熱い。熱い。


 右ストレートが、「不条理」の顔面を貫いた。


 首の骨が砕ける音が響き、怪物化した不条理の顔面の半分が吹き飛んだ。肉ごと削がれた頭蓋の破片。まろびでる化け物の目を踏みしだき、透は追撃の左フックを放とうとして――。


 視た。


 それは、不条理の後ろにある黒板に浮かんだ。


「黒木死ね」


 幼稚な落書きとともに添えられたあからさまな悪意。一目見たらそれとわかる、子供のいたずらはんざいこうい


 ノイズのように走り抜ける光景。


 学ランを着たメガネの少年が、ズボンを剥ぎ取られ写真をとられていた。いくつも向けられた折りたたみ式の携帯電話が、何度も何度もフラッシュを繰り返している。少年の身体は濡れていた。掃除をし終わったあとの汚水で。「汚いから着替えさせてやってんだよ! ありがとうだろ!?」と、誰かが下品な笑いとともに少年を蹴っていた。


 そんなことをされているのにも関わらず、少年の目は伽藍堂だった。何も感じないように感情に蓋をしているという感じではない。まるで自分のされていることを他人事のようにとらえているかのように、どうでも良さそうにしていた。


 彼の目は、空を見ていた。


 快晴の空に浮かぶ太陽を。


 誰かは明らかだ。


 これは、「不条理」の記憶。


 回し蹴りが、眼前に迫ってきた。


「――」


 辛うじてブロックは間に合ったが、衝撃を受け流せずに透は廊下まで弾き飛ばされた。両腕が折れている。再生し、近づいてくる「不条理」を睨んだ。


 彼は、わずかに身体をふらつかせた。


 怪物の目からわずかに血がこぼれている。超再生と未来の変換の連続使用の代償。透よりも能力の使用に慣れていないせいか、ダメージを受けるスピードも透に比べると速いのだろう。


「……なかなカリスクの高い力みたいダ。このまマ使い続けるト、死んでしまうかもネ」


「ああ」


「まア、でもそれハ君も同じことダ。条件は五分と五分。どちらガ先に力尽きるかの勝負になりソうだネ」


「……不毛ダ」


「は?」


 透は唇を噛んで、「不条理」に咎めるような視線を投げた。


「こんナ殴り合いを続けてナにがわかル? お前が知りたイこトは、こんなこトを続けて得られルものなのカ?」


 「不条理」はわずかに沈黙して、言葉を紡いだ。


「そう思うケど。だっテ、君に殴られたとき僕はたしかに感じたんダ。激しイ心の動きみたいナものをネ。あんナ感覚、はじめテだっタ。あれの正体が恐怖なのかナんなのカは知らなイが、たぶん感情なんだろウ。だからもう一度知りタいと」


「いヤ」


 透は強い言葉で反駁した。


「たブん、お前はもうすでに知っていルはずダ。俺に殴られる前かラすでに、お前が知りたいことヲすでにお前は体験していル」


「……なぜ、そんなこト言い切れル?」


 ほんのわずかに、「不条理」の目が揺らいだ。おそらくは誰も気づかない、蚊に刺されるよりも儚い変化。


 はじめてだ。


 透ははじめて、この人形のような男にはっきりとした哀れみを抱いた。


 透にはずっと視えていた。


 彼のそばに立っている人影が。彼が、汚水を浴びせられ蹴られながら罵倒されているときも、遠くから心配そうに見つめていた少女の影が。


「……なあ、黒木」


 「不条理」が……黒木が、小さく目を見開いた。


「なぜ、僕の名ヲ?」


「視えたからダ」


 ――お前のすべてが。


 黒木が後退した。背中が壁にぶつかる。瞬きを忘れたように開かれた無数の目が、じっと透をとらえていた。


 透は目をそらさない。


 この男はきっと……すべてを閉ざしたのだろう。


 心の在りようを忘れてしまうほどに。


 不条理に満ちた自分の人生に、壊れてしまわないように。生きていくためにすべてに蓋をした。


「不毛なんだ。こんなことしたって」


「……だまレ」


「黒木」


「だまれヨ――クソガキ」


 黒木は抑揚のない声で、しかしはっきりと嫌悪を滲ませながら、日輪を回転させた。


 炎が広がる。


 教室と廊下を焼き尽くさんばかりに、火がすべてを包んだ。彼には聴こえない悲鳴が、透には聴こえる。彼は気づいていない。本当は知っていて、ずっと感じ続けていたはずのものを、ないものとして扱ってきたから。


「分からナい。分からナいんだ。知ラないんだヨ。だから知ラなきゃナらない。僕ハ君と殺しあっテ手に入れるんダ。僕が本当に欲しいものヲ」


「……」 


「殺してやル。――僕の太陽ハ、ずっと眩しいままなんだかラ」








  

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