第十八章 一
ねえ、大丈夫?
俺の顔を怖がらず、俺に優しくしてくれたハルトを俺は殺した。
すべては、異色家が仕組んだことで。
すべては、俺が「復讐」と化すために必要な実験だった。
悪趣味な悪夢。
俺たちは、あの日、殺し合った。
異色香澄の絶叫が、赤い世界に轟然と風を起こしていた。
香澄の腹に突き刺さった金色の剣。突然現れた「不条理」が香澄に反旗を翻したのだ。剣先からは赤い血が滴り落ちている。
香澄は王の見えざる手で、剣を抜こうとしていた。だが、抜けないようだ。剣を見つめる香澄の瞳は血走って、まるで仁王のごとく顔が憤怒で歪んでいる。赤ん坊の笑い声。際限なく上がり続ける遠い悲鳴。濃厚に薫る錆びた鉄臭さ。
ここは、地獄だった。
終末を迎えようとする神話の最終章。
鳴花は、いま、そこに立ち会っている。
「……ア、アアアァ!」
叫び声がした。視界の端で、狼の姿をした銀城桜南が立ち上がろうとしていた。失った手足を血で形造り、鮮血の長刀を手にもって、震える身体に気合いを入れて――。
絶望しきっているはずなのに。
鳴花にはわかる。「王」の存在は、世界の終末に等しい絶望を見るものに与える。避けられない死が、突然実感を伴って目の前に現れるようなものだ。
普通なら心が折れて、立ち向かう気力さえなくなる。
「……」
だが、桜南は諦めていない。一度は折れたはずなのに、「不条理」の反逆をきっかけに再び立ち上がったのだろう。
そう、翡翠が言っていた。
「快楽」の殺意……金渡七雲には「殺意」の力を封ずる能力があると。
あの剣が、おそらくはそれだ。剣先から漂ってくる気配と、王の見えざる手でさえ動かせない事実からなんとなくわかる。あれは尋常な力ではない。「不条理」が何を思って七雲から能力を奪い、香澄を裏切ったのかはわからないが、これだけははっきりとしている。
一筋の光が差した。
針の穴を通るほどにか細い光ではあるが、先程の絶望に染まりきった状況と比べるとマシだ。
――まだ、諦めるわけにはいかない。
「……ハルト」
殺さねばならない。
すべては、復讐のために。
鳴花は、地面に手をついた。
まるで自分のものじゃないみたいに、身体に力が入らない。全身が気だるく、鉛をくくりつけられているように重かった。鳴花は砕けるほどに歯を噛み締めて、それでもなお身体を動かした。爪先が地面にめり込むほど突き立て、鈍痛を訴えてくる大腿筋に力を入れ、筋繊維が千切れる音を聞きながら、咆哮を上げた。
立ち上がった。
鳴花は、血走った目を空に向けながら自身の権能を発動する。
無限増殖。
進化した能力は、爆発的に鳴花の身体を膨れ上がらせ、数え切れぬほどの怪人を生み落とし、津波のごとき勢いで破壊された街を飲み込んだ。
一瞬で紫の肉の海と化した街。
鳴花は、莫大な怒声を上げて、天にいる香澄へと向かっていく。
己の復讐を果たすために。
ハルトたちと出会ったのは、おそらく六年くらい前だ。
おそらくと言ったのは、昼夜も判然としない状況下にずっと閉じ込められてきたせいで、時間感覚が麻痺していたからだ。香澄が一年に一度、嫌味のように言ってくる「誕生日、おめでとうございます」という言葉が、そのときは四回目だった。だから、たぶん六年前なのだ。
鳴花は、どこかの白い部屋にいきなり連れてこられた。
だだっ広い部屋だ。机やテーブルすらなく、隅の方に毛布が四つだけ畳まれていて、何もない。いや、正確に言うと部屋の真ん中に四角い箱が置かれていた。あれがなんなのかは分からない。だが、ここがロクでもない場所であることだけはなんとなくわかった。
次は何をされるのだろう?
最初に抱いた疑問はそれだった。何も知らされておらず、部屋に何もないせいで、かえって想像力が働いてしまい、身体の震えが止まらなくなる。痛みと恐怖から逃げるために鈍麻していたはずの感情が、ここにきて活性化していた。
鳴花は、部屋の隅に腰を落として、自分の身を守るように膝を抱えた。
何も考えるな。
何も、考えちゃいけない。
あの女は、自分を痛めつけてくるときにひたすら色んな歌を歌うように命令してきたが、その意味が最近わかるようになった。あれは、思考を放棄しないようにするためにやらされていたのだ。考えることをやめて少しでも苦痛や絶望から逃れることを防ぐために。
徹頭徹尾、あの女は悪魔だ。
だが、今はあの女はここにはいない。だから考えるのをやめることができる。それだけは救いだった。
どれくらい経っただろう。
扉が開く音がした。
人が入ってくる気配があった。鳴花は肩を震わせて、さらに自分の身体を強く抱きしめた。
わずかに顔を出して部屋の様子を伺うと、入ってきたのは三人の子供だとわかった。男の子二人に、女の子が一人。彼らはみな一様に不安そうに周囲を見渡して、落ちつかない様子であった。
しばらく沈黙が続き、誰かが口火を切った。
「……ここ、どこだろ?」
男の子の声。答えたのは女の子だった。
「さあ、いきなり連れてこられたからわからない。えっと、あんたは……」
「ハルト。君は?」
「エリよ。……その首飾りつけてるってことは、あんたも施設出身? みかけたことないから別のところでしょ?」
「うん。里親が決まったって言われて連れてこられたんだけどな……」
「私もよ。それがなんでこんなところに。あんたは何か知らない?」
話を振られたのは、もう一人の男の子だった。少し太り気味の男の子は、頬を揺らしながら首を横に振る。
「ぼ、ぼくも何もしらない。お菓子あげるって言われてついて行っただけだから」
「お菓子って……」
エリは呆れたように顔をしかめる。
「まあ、いいけどさ理由はどうでも。ところで、あんた名前は?」
「ふ、フトシ」
「見たまんまね〜」
「う、うるさい! 気にしてんだぞ!」
立腹したフトシをなだめるように、ハルトが言った。
「まあまあ。ただでさえよくわかんない状況で喧嘩してもいいことないだろ? 落ち着こうよ」
「……まあ、そうね。悪かったわ太っちょ」
「フトシだ!」
「喧嘩すんなって! エリも! フトシを煽るようなこと言うなよな」
「……ふん」
エリはそっぽを向いた。そして、鳴花に気づいたようだ。吊り目気味の目を小さく見開いて、指をさしてきた。
「誰かいるわよ」
「あ、ほんとだ。ねえ、君……」
フトシが大股で歩きながら近づいてきた。鳴花はさらに顔を埋めようとして――。
非常ベルがけたたましく騒ぎたてた。
ハルトたちは突然の騒音に身体を硬直させ、フトシは悲鳴を上げながら腰を抜かした。耳をつんざく音の嵐はすぐに過ぎ去り、部屋には静寂が返ってくる。
「うっさいわねえ、突然なんなの?」
「さあ……? すごいベルだったけど」
エリとハルトが首を傾げる中、フトシだけが腰を抜かして震え続けていた。「驚きすぎでしょ、あんた」とエリが呆れたように言うと、フトシは勢いよく首を横に振った。
「ば、ばけものがいる!」
「は?」
凍えているように震えるフトシの人差し指が示した先をみて、眉根を潜めていたエリの顔がさっと青ざめた。
「ひっ!」
鳴花が、顔を上げてしまったのだ。
突然の騒音に驚いて思わず――。異色香澄という悪魔に弄ばれ、破壊された顔面をさらしてしまった。鼻をそがれ、唇を切り落とされ、焼きごてで爛れさせられた顔を。
無垢な少年少女たちからすると、怪物以外の何者にも見えなかったことだろう。
慌てて鳴花は顔を伏せたが、すべてはもう手遅れだった。か細い悲鳴が聴こえてくる。ばけもの、幽霊。悪意のない罵倒が、鳴花を容赦なくえぐった。
突きつけられたのは、容赦のない現実だった。
「みないでっ! みないでぇぇ!」
縮こまり、悲鳴を上げる。
分かっている。自分の顔がもう人間のそれじゃなくなってしまっていることなんて。あの女に鏡を見せられたとき、頭がどうにかなりそうだった。化け物。自分でも思った。これが自分の顔なわけがない。これが、自分の顔なわけがないんだ。そう何度も何度も否定してきたが、そうすればするほど自分の醜さに意識が向く。
もう、女の子じゃない。
ばけものなんだって。
「……みない、で」
目頭が熱い。砕けた歯の隙間から流れ込む悔しさと羞恥の代謝物は、にがりのように苦くて苦くて。唇がないせいで、ひゅーひゅーと抜け出てくる笛の音みたいな呼吸音を止められず、気持ち悪い。
気持ち悪い。自分が、気持ち悪い。
消えてしまいたくなる衝動にかられ、浮き出た胸骨に痛みを感じるほど自分の身体をさらに折り曲げたとき、ふと、左肩に手を置かれた。
「……ねえ、大丈夫?」
ハルトの声だった。
悲鳴を上げずにいられなかった。手を振りほどこうとしたが、痛めつけられて弱った力では弾くことさえできなかった。
「大丈夫……じゃないよな。怖がらせてごめんよ。でも、俺たちは君をいじめたりなんかしないから心配しないで」
「……嘘だ。俺は……ばけものなんでしょ?」
「二人が言った酷いことは謝る。ごめんな、あんなこと言っちゃって」
ハルトは穏やかな声で言うと、肩から手を離した。
「俺はハルト。君、名前は?」
「……紫音」
鳴花とは、名乗れなかった。どうせ女の子だって言ってもこの醜い顔では信じてもらえない。それに、女の子といって否定されるのも怖かった。
「シオンか。よろしくな」
鳴花は目線だけ膝から覗かせる。ハルトの細くて白い手が差し出されていた。
「……お、俺が、怖く……ないのか?」
「怖くないよ」
ハルトは即答する。
「怖くない。俺もね……身体にたくさん傷があるんだ。前にいたところで、そのせいでいっぱい悪く言われたり嫌がらせされたりしたよ。だから、少しだけど君の気持ちはわかると思う」
「……」
「嫌じゃなければ、俺と友達になってほしい。こんな変なところに連れてこられて、ただでさえワケわからない状態なんだ。いがみ合ってもいいことないしさ、仲良くしてほしいな」
「……」
素直に首を縦に降ることはできなかった。差し出された手を握り返すことも、ハルトの屈託のない笑顔を見つめ続けることも。
怖い。
きっとハルトは、典型的な根明の善人なのだろう。まるでどこかの誰かを思い出して、暗い気持ちになってくる。あいつのせいで、すべてを失った。ハルトはあいつではない。そんなことは分かっているが、しかしどうしてもあの馬鹿みたいに真っ直ぐな笑顔が浮かぶ。
笑顔に、気を許すのが怖い。
「……わからない」
なんて返せばいいかわからなくて、そう答えるしかなかった。嫌な汗が脇下を伝っていた。力が入りすぎているせいか肩が重い。
思えば、まともな人間と会話するのも何年かぶりだ。ずっとイカれた女王様の玩具にされてきて、喉を使うのは悲鳴と歌だけだったから、言葉がまずうまく出てきてくれない。
ハルトは、ゆっくりと手を降ろすと少し残念そうに眉根を下げた。
「そうか……。まあ、いきなりじゃ仲良くしてって言われても難しいよな」
「……」
「とりあえず、今はここがどこなのか、どうしてこんなところに連れてこられたのか知らなきゃな……。シオンも何かしっていることあったら、教えてくれよ」
知らない。
そう答えた。だが、絶対にロクでもない理由で連れてこられたことだけはわかる。あの女が、わざわざ自分を表に出して連れてきて、こんな子どもたちと会わせたのだ。新種の拷問が始まったとしか思えない。
そして、その予想は最悪なことに当たっていた。
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