第十七章 四
私は、ドレスを着飾った泥人形だ。
醜い本音を建前で覆い隠して生きなければ、社会に存在することを許されなかった。
生まれながらに殺意であるということが、どれほど異常なことなのか?
愛することを許されない存在を愛してしまったことが、どれほど苦しくて辛いことなのか?
望まぬ才能を手に入れてしまったことが、どれほどの不幸と諦めを生んだのか?
誰にもわかるわけがない。
愛する人にさえ理解されず、ただ疎まれたのだ。劣等感を覆い隠す仮初の優しさを向けられて、その偽善に気づきながら、酔いしれる愚かさに笑いながら涙して。振り向いてくれる望みは限りなく薄いとわかっていたのに、私は一途に思い続けたんだ。
その想いが完全に無為だと悟ったとき。
私は、世界を破壊することを決めた。
鳥は卵からむりに出ようとする。
卵は世界だ。
生れようとする者は、ひとつの世界を破壊せねばならぬ。
殻は……破られた。
産まれてしまった神は、若すぎる母親に抱かれたまま、一つの街を破壊してみせた。
その光景は、比肩するものなど見つからないほどの暴力に満ちていて。
残骸と血だけが、無限に思えるほどに広がっていた。
「……」
異色香澄は、目を細めてうっとりと法悦に顔をとろけさせる。表情筋が溶けたようだった。氷解した理性とむき出しの本性が、芸術へと昇華されてそこにある。
月白に染まった髪の毛が、生暖かい風に揺蕩う。毛先から血の香りが漂うようだった。鋭い光を放つ赤い瞳が、酷薄な灯となって崩壊した世界を映していた。
無邪気に手を伸ばす赤子の頭を撫でながら、香澄は言った。
「……しぶといですね」
もはや原型も留めぬ異色邸。
瓦礫と大量の肉塊に埋もれたその中で、血に塗れながら生き残った二つの影があった。
手を前にかざして、立ち尽くす鳴花。
右脚を削りとられ、這いつくばる桜南。
「ああ、鳴花ちゃんの力ですね。害虫の分際でやるじゃないですか。腐っても王の力の一部を持つだけはあります」
けらけらと嘲弄しても、鳴花は反応さえできないようだった。血の塊を吐き出して、糸が切れた人形のごとく倒れる。
日に一度しか使えないはずの「絶命」の力。それを無理やり発動し、王の力を相殺して防いだのだろう。だが、あくまでも紛い物。完全に防ぐことはできず、反動で深刻なダメージを受けたようだ。
「……クソ……ガ」
その様が、その無様さが、可笑しくて可笑しくて。可笑しくて可笑しくて可笑しくて可笑しくて可笑しくて可笑しくて可笑しくて可笑しくて可笑しくて可笑しくて可笑しくて可笑しくて――。
狂おしいほどの愉悦で、頭の中が涼しかった。膨れ上がったエンドルフィンが、裏返った香澄の眼に桃源郷を映している。甘美。この世で最も憎悪する泥棒猫が、地に平伏して芋虫みたいに這いずっている。それを見下ろし、神を抱きながら見下す喜びを表現するには知覚できる色という色を集めたって足りないくらいだ。
香澄の太ももに、血に濁った半透明な雫が伝った。
壊れている。
そんな分かりきったことが、今は愉しくて愉しくて仕方ない。
全てを握っているのだ。
文字どおりこの世の全てを。
「……イカ……レ、オンナ……メ」
弱々しい悪態すらが、甘い。
絶頂にも等しき哄笑が、赤い空の沈黙を粉々に破壊する。
「……ああ」
――気持ちいい。
そのときだった。
香澄の視界の端で、瓦礫が轟音を上げて吹き飛んだ。
驟雨のごとき嘲笑がぴたりと止まる。裏返っていた香澄の赤い目が、ギョロリと横に向けられた。
銀色の影が、砲弾の如き勢いで迫っていた。
「……芸がないですね」
ため息混じりに独り言ち、「王」を撫でる。
瞬間、空間が歪み――渾身の力を込めて肉迫した銀の騎士の身体が、香澄の眼前で止まった。衝撃で巻き起こった風が、香澄の頬を撫でる。鼻先数ミリのところで震える岩のような拳。
無数の無色の手が、銀の騎士の身体に絡みついていた。
「残念でしたね、兄さん」
「……ギッ、があああぁ」
透の首の筋肉が、千切れんばかりに盛り上がっていた。足掻いている。だが、びくともしない。首筋に浮き出た血管の美しさに、甘美な興奮を覚える。噛みつきたい。なんて美しいのだろうか。暴れても暴れてもどうにもならない無知無謀さが、芸術的に表現されている。
香澄の脳内に、透の思考が走り抜けた。未来を変えようとしている。
その光景を先読みし、未来が変わるよりも先に起こりうる結果を変えた。
首の骨を捻り折った。
小気味よい音がして、ああ、愛しい兄の頭が、まるで猿に揺らされる梨のようにブラブラと背中側で踊っている。
「……なんて可愛いの?」
兜の隙間からこぼれ出る赤い泡が、タニシの卵みたいだ。
口角が吊り上がる。桜南が、絶叫を上げて這い進んでいた。透くん、透くん、と喧しく騒ぎたてている。不快で愉快で頭が沸騰しそうだ。
――壊しちゃいなよ。
頭に響く、愛しい息子の声。
「うん、そうだネ」
赤子が柔らかく笑った瞬間、透の首から下が蒸発した。
赤い霧が香澄たちを祝福した。目を細めて、生温い霧状のシャワーを浴びる。顔に吹きつけられたそれを舐め取ると、微かな苦みと塩味を含んだ味が想像を豊かに広げた。キャビア。何度も食べてきた、あれに似ている。何が美味いのか理解できなかったが、これと同じだとしたら最上の味わいだったのだろう。
桜南が泣き叫んだ。
まだ死んでいないと知っているくせに。でも、そうやって取り乱してしまうくらい絶望してしまっているのだろう。もう、どうにもならないと感じてしまっているのだ。
あと失うのは、命だけ。
そんな状況に、一瞬で追いやられたような衝撃を見るものに与える。「王」の威光を深く理解できてしまう上位者なら尚の事。
血を浴びた赤子は、はしゃいでいる。
絶望など知りもせず。
「……ああ、これで終わりですね」
香澄は、人間の姿に戻った透の頭を引き寄せて、額に唇をよせる。額の硬さが心地よい。くすぐったくて気持ちいい。
澄空が泣いた。
地鳴りが、響いた。
「……ふふ」
始まったのだ。
本当の「
遠くから悲鳴が轟き始めた。異界がゆるりゆるりと拡張されているのだ。現世と地獄が……水と油が混ざり合う地点が広がってゆく。そうして新しく現れた化け物たちが、そこに巻き込まれた人間たちを殺し、跡形もなく喰らう。「鏖」とは、この街で起こった現象が、世界規模で展開される大量虐殺。
方舟が運ぶのは、兄妹とその子供だけ。あとはすべてが死に絶える。ゆっくりと、着実に、逃げることは許されず、殺される。
そして世界は「無垢」に還るのだ。
夢が叶おうとしていた。
香澄の幸せが、もう少しで実現する。
「……」
超再生を発動しようとした透に、香澄は無垢の手を添えて肉を消し続けた。潰した果実みたいに、果汁のような鮮血が上がり続ける。
「往生際が悪いですよ。もう無駄なんですから諦めなさい。澄空が産まれた時点で、あなたたちは詰んだのです」
透が、泡を吹きながら声にならない叫びを上げ続けた。ずっとチェーンソーで肉を削られ続けるような痛みが続いているはずだが、諦めようとしない。痛覚遮断を覚えたわけではないのは、思考を読み取ればわかる。
なんで諦めないのだろう?
どう考えても、ここから状況が覆るはずはないのに。馬鹿だからだろうか。愚かなのは可愛いが、さすがにちょっと不躾だ。
「先に銀城桜南を殺そうかしら? そうすれば諦めますか?」
うめき声が大きくなった。見開かれ飛び出た透の隻眼は、爛々と輝いている。
折れそうだな。香澄は確信し、笑う。
「では、そうしますか。……澄空。最後に八つ裂きにしようと思っていたけど、もういいです。あの蛆虫を殺してください。できれば残った足から――」
背後の空間に、ヒビが走り抜けた。
「……え?」
振り返ろうとした瞬間、それよりも早く割れた空間から剣の切っ先が飛び出してきた。反射的に発動された「王」の見えない手。それは、そこから現れた人物を的確に捉え、捕まえた。
捕まえたはずだった。
「――」
香澄は知らなかった。
「
捕まえた手から発せられた「絶命」は、確実に「不条理」を消滅させたはずだったが、その瞬間時が巻き戻り、未来が変えられた。
すべての手をかわした「不条理」が、香澄の肉体に剣を突き立てた。
ずぶりと腹に入り込んでくる異物は、痛みを消しさり「王」と結合した香澄には深刻なダメージを与えない。
だが、その権能は他者の
「絶命」が、発動しない。
「悪いね聖母様。せっかくの楽しいパーティー、僕も見たかったけど気が変わったんだ」
「……貴様!」
「なにも世界の滅びを邪魔しようってわけじゃない。ただ、君のお兄さんと話したいことがあるから借りていくよ」
いつの間にか、「不条理」の手には透の頭があった。剣を刺され、力を封じられた一瞬の間に抜かれたのだと気づいた。
「痴れ者がぁっ! 兄さんを返せ!」
「気が向いたらね。こちらから連絡するよ」
まるで営業電話への断り文句のようなことを言って、「不条理」は透とともに空間の中へ消えていった。割れた空間が元に戻る。手を伸ばしたが、そこにはもう愛しい兄はいない。
失った。今のこの、一瞬で。
この手に取り戻したと思った兄を――。
香澄の絶叫が、世界の縁から上がり続ける悲鳴とともに混ざりあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます