第十七章 三





 舞い落ちる羽根が、砕け散った香澄の血と脳漿のうしょうで汚される。


 寒天のごとく柔らかい脳味噌が、割れた頭からまろび出る。目玉が視神経を尾のように踊らせながら眼底から飛び出す様は、まるで卵から孵ったオタマジャクシのごとき生々しい勢いがあった。頭蓋が破砕する音が響く。拳が肉を潰しながら減り込んでいき、やがて貫いた。


 振り抜いた拳は赤く染まる。遅れて噴き上がった鮮血が透の銀の身体を汚濁し、さらなる罪を塗り重ねていく。


 赤い目玉が、ころりと地面を回る。「Type-Clear」の身体を遅れて引き裂いた赤い刃。「暗殺」の咆哮。女神から上がる誰のものと知れぬ悲鳴。「暗殺」は刃を翻し、女神の無数の腕を、脚を、彫像のごとき白い裸体を、バラバラに裁断してゆく。雷鳴のごとき絶叫が静まり、別れた肉塊が血の糸を引きながら崩れ落ちた。


 獣の唸り声。乱れた呼吸音。


 濃厚な血肉の生臭さに、むせ返りそうになるほどだった。


 羽根が、舞い降りた。


 赤黒く染まりきった地面に波紋をうつ。


「……勝っタ」


 透のつぶやきは、虚しく空気を揺すった。その残響が余韻を生む前に、桜南の足が血溜まりを踏みしめた。


「マダ、オワリジャナイ。ヤイバハ、ヤツニトドイテナカッタ」


 赤い長刀を振るい、桜南はバラバラになった女神の肉体に近づく。手足を千切られ無力化した腹部の膨らみが、まるで芋虫の足掻きのように微かな蠕動をみせていた。


 そうだ。


 まだ、終わりではない。王を討ち取らなければ、このゲームは終わらない。「殺意」の王。香澄の悪意と透の過ちによって宿った無垢なる怪物。


 透の子供。


「……待テ」


 透は、桜南の手を取って首を振った。狼の四つの瞳が訝しげに細められる。この期に及んで躊躇する気なのかと責める気配があった。


 少しも戸惑いを覚えないかと言えば嘘になる。だが、それは灯火のように立ち消えるわずかな逡巡だ。いまさら、過ちから目を逸らすつもりはない。


「そうじゃナい。……不用意に近づかナい方が賢明ダ。あれが生きていルなら、あのときのヨうにやられかねないダろ?」


「……ソレハ、ソウネ」


「一緒に行コう。何かあれバ、俺が未来を変えル」


「……、……ウン」


 桜南と透は手を離し、並んでゆっくりと近づいていく。赤い刃の切っ先から、黒いもやが立ち上りはじめた。


 これで今度こそ終わる。


 透は、三つの眼で桜南を見つめた。フードに隠れた狼の顔から桜南の秀麗な横顔が透けて見えるように想像できた。憂いを帯びた銀の瞳は、真っ直ぐに目標へと向けられている。


「透くん、会えてよかった」


 澄み切った流暢さを取り戻した桜南の言葉に、透は頷く。


「もう会えないかもしれないって思っていたよ。生きて会うことは叶わないかもしれないって……」


「……不安にさせてしマったな。俺が不甲斐ナいバかりに」


「ううん。私も力が足りなかった。もっと強かったら、透くんを苦しめずに済んだから」


「お前ハ強いよ。誰よりモ、俺よりもずっとな」


 透は、言葉を切って続けた。


「だかラ、俺はお前のよウにナりたい。お前のような、大切ナ人の幸せのために戦える本当のヒーローみたタいに」


「……透くん。あなた、変わったね」


「ああ。お前と充のおかげダ」


 透たちは立ち止まる。蠢く肉塊が、すぐそばにあった。お互いの顔を見合わせて頷くと、桜南はゆっくりと切っ先を肉塊へと向ける。


 透は目を逸らさない。目を閉じない。


 終わりを見届けなければならないからだ。異色家の狂気じみた因習と、香澄の歪みきった狂愛と憎悪の果てに生じた破壊の幕引きを。


 桜南が、刃を突き刺そうとした瞬間。


「逃げろ!!」


 鳴花の絶叫が轟いた。


 刃の切っ先が、肉塊を浅く貫いて止まった。桜南の目が見開かれる。馬鹿な。小さくこぼれた彼女の呟きは戦慄で震えていた。透は鳴花に視線を走らせる。十年ぶりの幼馴染との再会に驚く暇さえなかった。


 鳴花の告げた言葉に、意識が空白になるほど驚愕させられたから。


「そこに『王』は居ねえ! 俺たちは嵌められたんだ!」




「正解です」




 突き立てられた刃のすぐ横に、口が咲いた。


 香澄の声。


「残念です。もう少し気づくのが遅かったのなら、『絶望』の力を無駄撃ちさせられたものを」


「……ナンデ」


 桜南の言葉は震えていた。いや、声だけではなく全身が小刻みに震駭している。生温かった空気が一気に冷たく重く沈んでゆく。


 動揺する桜南を、香澄が嘲笑った。


「ふふふ、いい顔をしますね。ゾクゾクしますよ害虫さん。鳴花ちゃんの言ったとおり、『澄空そら』はここには居ません。私の本体とともに別の場所にいたんですよ、戦いが始まる前からずっと」


「バカナ……ミアヤマルワケガナイ。タシカニ、アノバケモノニハ、オマエノケハイガアッタ」


「ええ、間違っていませんよ。だってどちらも本体なんですから。あなたたちが戦っていたのは私の頭だけなんですよ。


 ――兄さんなら、いや「守護」ならわかるでしょう?


 向けられた問いの冷たさに悪寒が走った。奥底にいるブラックナイトが、忌々しげな唸りを上げている。記憶が脳裏を駆け巡った。燃え盛る地下駐車場。首だけになったブラックナイトが、飛び散った肉塊から身体を再生させ、頭のない身体で「不条理」を殴りつけていた。


 そう、つまり……首が分離した状態でも身体を動かせるということだ。


 おそらく香澄は「不条理」を介してそのことを知り、実践に移したのだろう。「殺意」の王を宿した身体を安全な場所に置き、頭だけを人工殺意と融合させた。


「それにしても、産痛とは凄まじいものですね。まるで身体をバラバラに引き裂かれて全身の骨が砕けるような痛みでした。おかげで上手く頭が働きませんでしたよ。……しかしまあ、良しとしましょう。おかげで演出も自然な感じになって、あなたたちは全員雁首揃えて騙されてくれたんですから」


「……陽動だったノか、すべて」


「ええ、そうですとも。策に走る人間を上手く騙すコツをご存知ですか、兄さん。それはね、失敗と成功をバランスよく織り交ぜることなんです。策が上手く行き過ぎていると人は不安になって疑い出すものですからね。上手く行っていると思わせるために、あなたたちの作戦にあえてある程度乗ってあげていたんです」


「――」 


「滑稽でしたよ。あなたたちは将棋をしているつもりだったのでしょう。でも、最初から勝負として成立さえしていなかった。だって、討ち取るべき王は最初から盤面にいないんですから。……うふふ。まったく、本当に愚かですね」


 凡人どもが、天才わたしに勝てるわけないでしょう?


 香澄が、酷薄に告げた刹那。


 蠕動する肉塊から、あまりにも静かに花が咲いた。いや、花ではない。巨大な人間の手だ。白磁を思わせる生気のない手は天に伸びながら合掌し、その根本から無数の手が折り重なるように生え、花びらを思わせた。


 まるで水面に浮かぶ蓮の花のごとく。


 透は、音もなく現れたそれに目を奪われた。意識という水面に波紋が起こる。まるで宇宙を……世界の真理を目の当たりにしたように、ただただ呆然と意思は揺蕩う。


 身体が、後ろに引っ張られた。


 我に返って振り返ると、紫色の怪人が桜南と透の身体を引っ張っていた。風のごとく走り、声にならない叫声を耳鳴りがするほどに震わせる。入れ替わるように、怪人の群れが手の花へ向かった。牙という牙を、爪という爪を、殺意という殺意を剥き出しにして。


 圧倒的な恐怖に突き動かされ、加速する。


 だが――すべては矮小だった。


 絶対的な力の前では。


「――澄空」


 香澄が祈った。


「破壊して、すべてを」








 赤ん坊の鳴き声が響き渡り――。


 閃光が、街を走り抜けた。


 光は数え切れぬほどの無色透明の手となって、街に存在する全てのものに優しく触る。まるで、慈母が赤子の柔肌を撫ぜるがごとく。あまりにも速く、あまりにも優しく、あまりにも唐突で、あまりにも冷たく、あまりにも上品に、あまりにも偉大で、あまりにも威厳があり、あまりにも神々しく――。


 すべては、「無垢」へと消えた。


 絶命。


 触れたものを絶対的に破壊する王の権能。


 それが、触れたものすべてに行使された。もはや比肩するものなど見つからないほどの轟音が、大地の崩壊を彷彿とさせるほどの暴力的な震撃が、この街のすべてを徹底的に破壊して徹底的に支配した。怪人の群れは蒸発し、桜南たちは光に飲まれ、アスファルトは隆起し、屋敷や家は粉々に砕け、放置された数多の車はサイコロよりも小さく圧縮し、踏切はちり紙のごとく千切れ、ビルは倒壊し、窓ガラスは塵となり、跋扈していた化け物たちは祈りながら喜びに震えながら拉げた。


 神の一撃は、街の景色を一瞬で変えた。


 赤き世界は死に沈む。


 たった一人の赤子の一鳴きで。


 すべてが覆った。


 「殺意」の王。


 「無垢」の殺意。「殺意」たちの神にして、絶対的な滅びの象徴であり、息をするように殺害を行う完全なる破壊者。そこに理由などないのだ。殺すことに感情も欲望も何も働かず、ただ殺す。意思なき殺意という矛盾を体現している存在しえない「殺意」だ。


 ゆえに、その存在は聖性にして奇跡そのものだった。


 崩壊した街が、完全なる静寂に還ったころ。赤い空に、一筋の光が差した。その安らかな光に祝福されるように、血の海で染色した福音は浮かんだ。雪のごとく透明な白さをもった裸体の少女が、下腹部を血に染めながら赤子を慈愛でもって抱きしめ泣いている。栗色だった髪は白く、瞳だけは赤く、涙は聖水のように秀麗で、下腹部から伸びたへその緒が赤子と繋がっている。


 赤黒く濡れたその赤子は、人を象りながら明らかに人外の存在であった。まるで後ろから目隠しするように後頭部から生えた手が、小さな顔を覆い尽くしている。腕が四本あり、脚が三本あった。奇形と言わざるを得ない姿。だが、そこには何者も冒し難い神聖な輝きがたしかにあり、だからこそ彼は異形の神であった。


 赤子は、無邪気に笑った。


 穏やかに見つめる母親の顔を見つめて。


 白い少女は、心の底から幸福そうな笑みを返した。


「……はじめまして、私の赤ちゃん」

 




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