第十七章 二




「……話をしようか透」


 充の穏やかな声は、羽を失って歌うことしかできなくなった天使のように美しくも儚い響きがあった。


 知りすぎるほど知りすぎた親友の声は、悲壮の中にあって。


 もうこの世には存在しない懐かしい音に、透は恐れを抱いた。


 海岸に深く沈んだ腰が、砂を引きずりながら勝手に横へと動いてゆく。


「……来るな」


 透は首を横に振る。


 潮の香りがきつかった。指先を掠めた小さな虫が、慌てふためく透を笑うように通り過ぎてゆく。温い風が、震える身体を不快に包んで玉のような汗が次々と額に浮かんで流れた。


 充が、ここにいる。その事実がただただ恐ろしい。また、香澄が朧な夢を見せて脅かそうとしているのか。それとも透の罪悪感が生んだ死を告げる悪魔なのか。充は死んだ。透が殺したのだ。存在するわけがない。


 桜南がみせる夢だとブラックナイトが言っていた。そのセリフを忘れたわけではない。だが、それを信じるに足る根拠はどこにあるというのか? 香澄。あの頭のおかしい天才が、透をさらに弄ぶために仕組んだことなのかもしれない。


 あいつならやりかねない。


 疑心暗鬼が、身体を動かす。充は動かない。寂しそうに微笑みながら、逃げようとする透を静謐な眼差しで見つめている。哀れんでいるようで、悲しんでいるようで、慈しんでいるようで、呆れているようで。


 波の音が穏やかに爆ぜる。


 充は、静かに言った。


「俺が信じられないか?」


 透はつばを飲み込んだ。言葉が出てきてくれない。砂を掴んだ。だが、掴んだまま固まる。


 何をしようとした? 砂を、投げようとしたのか? 親友の充に対して。


「……恐れているんだな。俺が、香澄ちゃんの見せる影なんじゃないかと」


 唇を噛んで、透は口を開いた。


「そうだ。お前は充じゃない。だって、充はもう……もういない。俺が殺したんだ」


 砂を持った手がぶるぶると震える。吐き出した言葉に血が混ざっているように感じられるほど、心が痛かった。刺されたかのようだ。息苦しい。勝手に呼吸があがる。


「……俺が、この手で」


「……」


「殺したんだよ。殺したんだ! 今でも感触が拳に残っている。頭を潰した。大切な親友の頭をぶん殴って……」


 充の微笑みが滲んで見えたのは、罪の意識が膨らんで止まらなかったからだ。張り裂けそうな痛みと重たい苦しさに溺れる。


 涙が止まらない。


「……お前が、充なわけないんだ」


 充がどんな顔をしているのか、もはや分からない。また目をそらそうとしているのか。でも、相手は幻だ。あれは充なんかじゃない。死んだ人間は蘇ることはない。


「……そうか」


 充の声は寂しげだった。


「そうだよな。あれだけの目に遭わされて、信じられるわけがない。お前が疑心暗鬼に陥るのはよくわかる。でもな……俺は本物だよ。本物の茶川充だ」


「嘘だ! そんなわけない!」


「そんなわけあるんだ。信じられないかもしれないけどな、信じてもらうしかない。あの悪魔はお前の記憶をすべて把握しているからな。お互いに知っている秘密を話して証明ってわけにもいかない。だから、言葉を紡ぐしかない」


 充は穏やかに告げる。


「いいか。『守護』が言っていただろう? 俺は銀城桜南がみせた夢だと。あの悪魔でも上位者は操れないみたいだからな、彼の言葉は信用できる。つまり、俺は香澄ちゃんが生み出した幻ではないということだ」


「……」


「『守護』そのものが幻の可能性もあるって疑うかもしれないが、それはない。なぜならお前の肉体はいま香澄ちゃんと戦闘をしているからだ。『守護』がお前の肉体を操ってな。香澄ちゃんが作り出した幻なら、わざわざそんなことをする理由がどこにある? ……目を閉じて見てみろ。お前にも、自分の体が戦っていることが感じられるだろう」


 充の言うとおり、恐るおそる目を閉じてみる。


 瞬間、砂浜の光景は赤い空に彩られた不気味な空間へと変質を遂げた。広大な敷地に、無造作に散らばる瓦礫の山。轟く絶叫と哄笑。舞い散る血しぶきと弾き飛ばされる肉塊。


「見えただろう?」


「……あ、ああ。ブラックナイトが戦っているのか」


「そうだ。これでわかっただろ? 俺が香澄ちゃんの見せる幻ではないってことが」


 ゆっくりと目を開いて、透は頷いた。


 充が安堵したように小さく息を吐いた。


「……信じてもらえたようでよかった。話を聞いてくれるか?」


 透は目元をぬぐって、逡巡しながら充へと顔を向ける。これまで何千回と見てきた親友の微笑みがそこにはあった。偽物だという疑念は、少しずつだが心の内側で収縮していく。


 波の音が引いて、透は言った。


「……ああ。聞かせてくれ」


 充が近づいてきた。引きそうになった身体に力を込めて、ぐっと堪える。三十センチほど距離を置いたところで、充はゆっくりと腰をおろした。隣を指差していた。座れよ、ということか。


 透は震える身体を起こして、戸惑いながらも充の隣に座った。


「『守護』は、俺のことを姫が見せる夢だと言っていたけどな。正確に言うと違う」


「……どういうことだ?」


「姫の権能は、知ってのとおり血の操作だ。しかし、亜加子との戦いを経てその能力が進化したらしい。単純に操作するだけじゃなくて、操った血の持ち主の意思を呼び起こすことができるようになったんだ。死んだ人間のもの限定らしいけどな」


「……つまり、桜南はその力でお前を再現したのか?」


 充は小さく頷く。


「再現というか……本物なんだよ。俺の意思、いうなれば魂をお前の精神世界に呼び起こしたんだ。お前の中にある姫本人の血を介してな」


「……、……そんなことが可能なのか?」


「だから俺はここにいる」


 充は砂の中から石を拾い、暗い海へ向かって投げ捨てた。星の瞬きに混ざった石が、どこへ消えたのかは杳としれない。


 波がさらったのか。


「お前の恋人は……いいやつだな」


 充の言葉には、微かな羨望と嫉妬が揺蕩っていた。そこに強く充の気配を感じてしまい、透はバツの悪さに目をそらした。


「呼ばれたときにな、彼女の記憶が垣間見えたんだ。お前を救おうと必死に戦ってきたことが嫌というほどに伝わってきたよ」


 充の言葉に滲む悔しさを波は消さない。充は再び石を投げ、力なく笑った。


「正直、俺はあの娘のことがあまり好きではなかった。澄ました顔で誰とも馴染まない、冷たくて面白みのない女だってずっと思っていた。だけど……違った。彼女は誰よりも強い意志をもっていた。色んなことから目を逸らし続けて空虚に笑い合っていた俺たちなんかとは、比べものにならないくらいに」


「……そう、だな」


 充の言うとおりだ。これまで一体どれほど現実から目を逸らし続けてきただろうか。そうして気づかないふりをして逃げ続けてきた結果が、このザマである。思えば美しく生きようとし過ぎたのかもしれない。最初から理想は死んでいたことに気づかず、だからこそ滑稽なほど簡単に壊れたのだ。


 戦い抜いてきた桜南とは違う。彼女は、業と向き合いながら必死に生きていたはずだ。人を殺した数は、罪を重ねてきた数は、透とは比べものにならないだろうに。


 それでも強くつよく真っ直ぐに。


「あの娘はお前の罪を知っていた。それでもなおお前のことを愛しているし、お前の幸せを心の底から願っている。命がけで戦えるのも、その願いがあるからこそだ」


「……」


「同じなんだ、姫と俺は。俺たちはお前に救われた。どうしようもない暗闇から、お前が引っ張り上げてくれた。だからこそ俺たちはお前に強い憧れと恩を感じていたし、お前に惹かれたんだ」


「……充」


 星の瞬きが、薄っすらと黒い海に伸びていく。ぼんやりとした光芒が、穏やかな波の輪郭を微かに映し出し、その姿を顕にしてゆく。


 充は泣いていた。届かない星の瞬きに、悲しみを抱いたように。


「お前は、ずっと目を逸らし続けてきたのかもしれない。自分の罪からも、人の想いからも、逃げてきたのかもしれない。そうして、自分の理想と幻想のような綺麗な日々を守ろうとしてきたんだろう。……それがきっとお前の一番の罪なんだ。向き合わなくちゃいけないことだったんだよ」


「……、……ああ」


「でも、それは俺も同じだ。亜加子が狂ったのも、春香の気持ちを踏みにじったのも、お前と向き合えず苦しんだのも、俺が目を逸らしてきたからだ。だから、お前だけを責めることなんてできないし、そんな資格もない。……なあ、透。俺たちは罪人だよ。現実から逃げて理想に溺れるのはそれだけでもう立派な罪なんだ」


 でもな。


 充はそう一言置いて、続けた。


「そんな罪人でも、お前はたしかに人を救ったんだ。いじめに苦しんでいた俺を、たった一人でいじめっ子たちに立ち向かって助けてくれた。心と安らぎを知らなかった姫に、心と安らぎを与えた。俺たちにとって、お前は紛れもないヒーローなんだよ。誰がなんと言おうと、お前は俺たちを救ったヒーローなんだ!」


「……」


「お前の犯した罪はたしかに許されないことなのかもしれない。でも、それでも……俺たちはお前の幸せを願っているんだ。生きて、幸せになって欲しい。そんな風に願う奴らがいるのに、お前はそんな願いからも目をそらすのか? また逃げてこのまま腐っていくのか? そんなのは、許さない!」


 充の叫びは、夜の海へ溶けはしない。小さく漏れる嗚咽と、鼻をすする音は波の音よりも大きくて。透の目からも涙が溢れた。噛んだ唇から溢れた血は、酷く苦い。


 充の手が、肩に置かれた。そこから伝わる温かさは死んだ人間のそれとはどうしても思えない。


「……なあ、透。お前は俺のようになってはダメだ。お前には、まだ愛してくれる人がいる。幸せを願ってくれる人がいる。その人のために、戦ってほしい。生き抜いて幸せを掴むんだ」


「……でも、俺はお前を殺したんだぞ。お前だけじゃない。母さんも亜加子も……。そんなやつが、幸せを願われていいのか?」


「いいに決まってるだろ! 何度も言わせんな! 愛されることから逃げるんじゃねえ! 幸せになる努力から逃げるんじゃねえよ! 戦ってくれ! お前にはまだ光がある!」


「……」


 透は目を閉じて俯向いた。砂に落ちた涙は、蒸発することなく色を変えて留まる。身体の震えが止まらない。


 もう、自分には何も願う価値などないと思っていた。追い求めていた理想は最初から壊れていて、罪を重ねた事実から逃げていただけだと思い知らされ、自分の中身のなさを自覚したとき、もう終わったのだと思っていた。


 だが――まだ自分にはこうして幸せを願ってくれる人たちがいる。自分の罪を知りながら、ヒーローだと思ってくれる人たちがいる。愛してくれる人がいる。愛する人がいる。


 幸せを願う人がいる。


「……わかった」


 透は泣きじゃくる充の頭に手を置いて、優しく撫でた。


「わかったよ、充。俺は、戦う。理想はもう追い求めない。どれだけ現実が血生臭くて、這いつくばらなきゃならないとしても、もう逃げない」


「……透」


「ありがとう。俺の大切な親友。お前と友達になれて本当によかったよ」


「……うん」


「だからこそ、言わなきゃいけない。お前の好意は本当にすごく嬉しかった。でも、俺はお前の気持ちには応えられない。好きな人がいてもいなくても、きっとお前のことを親友以上には見れなかったと思う。……ごめんな充。それが、俺がずっと伝えることから逃げてきた本音だ」


「……っ、うん」


「ごめんな……ごめんな……」


 唇が震える。枯れることを知らない涙が、お互いを濡らす。


 ずっと言えなかった。いつか言わないといけないとわかっていたのに。ようやく、透は逃げ続けてきた充の想いに、真剣に向き合うことができたのだ。もう少し早かったなら、こんなことが起こる前に言えていたのなら、何かが変わっていたのだろうか。でも、そんなことを思うのはもはや意味がない。


 きっとすべてが、遅すぎた。


 でも――透はもう逃げない。


 たとえ、手遅れであったとしても。


「……バーカ」


 充に突き飛ばされ、透はたたらを踏んだ。涙に汚れた端正な顔立ちは、美しい強がりを刻んで柔らかく輝いている。それはけっして星の瞬きにも劣らない秀麗な輝きだった。


「知ってたよ! 今更になって言いやがって、この唐変木め。ずっとずっと聞きたかったんだ!」


「……ごめん」


「いいから行け! お前の大切な人が待ってるぞ!」


「……ああ」


 透は涙を拭い、充を真っ直ぐに見つめた。


「行ってくる」







 不可視の槍が、ブラックナイトと「暗殺」の身体を粉々に引き裂いた。


 傷だらけの女神は恍惚と嗤う。


 ブラックナイトは頭だけを残して消し飛び、「暗殺」にいたっては頭部から下腹部まで穴だらけにしてバラバラにしてやった。脳味噌が確実に砕けた。もはや再生することは叶わない。


 ――終わりだ。


 王が生まれる前に片がついた。あとは「王」の権能を使い切った鳴花とブラックナイトが再生しなくなるまで潰し続ければよい。


 だが、終わりを確信した女神から笑いが消える。


 舞い降りる白い羽根が見えたからだ。気づくと粉々にしたはずのブラックナイトと「暗殺」の身体が元に戻っている。それだけじゃない。ブラックナイトの身体が、銀色に染まっている。何が起こったか悟った。向かってくるブラックナイトの拳と、赤い刃の切っ先。脳内にスパークが走り、透の意思と思考が流れてくる。バラバラにする瞬間、復活した透とブラックナイトの意識が切り替わったのだ。「狂信」の力が働く瞬間よりもはやく。香澄が知覚し対策を立てるよりもはやく。


 それよりもはやく、時が巻き戻り未来が変えられた。


 ――終わりだ香澄。


 透の思考が、流れてくる。


 香澄の顔面を、透の拳が貫いた。砕け散る頭蓋。裏返る思考。真っ黒に染まる視界。走り抜けた激痛は一瞬で消え、透の言葉だけが最後に残った。


 ――俺たちの勝ちだ。



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