最終部「幸せになれないからだ」
第十七章 一
「兄さん、私、兄さんの子供が欲しいです」
いつかの幼かった香澄の声が少しも舌足らずではなかったことを、透は忘れていた。
すでに精神の完成されていた香澄の姿に、幻のごとき幼さを見ていたのだ。それは香澄という完全な存在に対するコンプレックスが歪めた記憶であり、幼かった透の無知な愚かさの証左でもあった。
「いいよ」
透がそれこそ舌足らずに答えたとき、香澄のみせた笑顔は心の底から嬉しそうなものだった。だが、それは欲しかった人形を与えられたときの子供のような無邪気なものではなかった。恍惚としていて、とろけそうなほどに蠱惑的な悪魔じみた笑みであった。
あの頃、なにも考えずに紡いだ透の口約束は、香澄にとっては終生続く契りに等しきものであり、その約束はまさに果たされようとしていた。
「鏖」という、地獄の中で。
「あハはははハハは! 兄さンの身体がたくサん! タくさん、転がっテますネ! キレイですよ、アハはははハはッ!」
真紅の瞳が、血飛沫で烟る異色邸で妖しく輝いていた。瓦礫の海の真ん中で、無数の手を広げながら佇む毒虫の女神。あたりに転がる手足や臓物は、ブラックナイトから削り取った残骸であった。まるでクリスマスの飾り付けでも見るように、女神は恍惚と笑う。
ブラックナイトは咆哮を上げた。吹き飛ばされた腕を再生し、瓦礫を吹き飛ばす勢いで地面を蹴りつけ、女神へ肉薄する。
空気が轟然と唸った。女神が放った数多の槍が、音速を超える速度で殺到する。不可視の槍。視えないはずのそれを、ブラックナイトははっきりと知覚していた。眼前に迫ったものを叩きつけ、かわし、受け流し、蹴り飛ばす。
だが、すべてはかわせない。
さばききれない槍に、肉を削り飛ばされる。腕が舞い、脇腹をえぐられ、肩肉を食われ、足の甲が潰れ、ブラックナイトは倒れる。だが、それでも片腕に力を込めて跳び上がる。地面に穴が穿たれた。宙を舞いながら再生し、ブラックナイトは叫んだ。
槍が、休みなく殺到する。空中で穴だらけにされてバラバラにされた肉塊が、庭に撒き散らされた。
「バカの一つ覚えデスか? あははハはッ」
近づくことさえ叶わない。
哄笑を高らかに奏でる女神。頭から再生したブラックナイトの憤激が、破壊され尽くした異色家の敷地を揺るがした。瓦礫が、転がる。ガラガラと煙を立てながら。
ブラックナイトは走り、自身の倍近くある巨大な瓦礫を蹴り上げる。宙に浮いたそれに足刀蹴りを放った。粉々に吹き飛んだ破片が、散弾のごとく女神へ殺到する。
だが、その一片も女神には届かない。
すべてが、彼女に触れる直前で弾け飛ぶ。まるで視えない壁に遮られているかのように。
――不可視の盾だ。
視えざる矛盾。
それが、「狂愛」の権能。
「――ふフッ」
ブラックナイトは牙をむき出しにして、女神を睨んだ。完全なる膠着状態。近づこうとしても凄まじい弾幕と壁で近接できない。
甘やかな血の匂いが、むせ返るほどに充満していた。視界が微かに歪んだのは、その密のごとき甘さに酔っぱらったせいか。それとも能力の使用が重なった疲弊のせいか。
ブラックナイトは、口から涎を滴らせる。殺意が満ち満ちていた。アドレナリンの分泌が加速されているのか。目の裏が清涼剤を直接塗りつけたように痛いほど涼しく、全身に血がみなぎり、鼓動が爆発しそうだった。女神の顔面を、すり潰したい。この拳で。この足で。この肘で。この膝で。持てる全ての力を開放し、八つ裂きにしてやりたい。
ああ――気持ちいい。
殺意に溶けてゆく。
「ギギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
ブラックナイトは、裡なる獣の衝動を解き放ち、弾丸のごとき勢いで跳んだ。女神が嗤う。突っ込むことしかできず、衝動のまま動く愚かな存在をコケにするように。赤き瞳が刃の切っ先のように光り、獰猛な殺意で空気さえも凍らせる。
暴風が、庭木を引き千切った。
ブラックナイトの鮮血が、芝生を汚していく。削り取られた肉塊が鳩の餌のごとく撒き散らされていく。穴だらけになりながら、それでもなお黒き騎士は前に進む。後退の二文字は頭の片隅にさえない。削られる端から再生し、血しぶきの噴水と化しながら女神へと手を伸ばす。まるで、嵐の中を走るように。
削られ削られ削られ削られ続け――。
ついに、たどり着いた。
ブラックナイトの拳が、女神の見えざる壁に叩きつけられた。狂気じみた叫びとともに放たれた一撃は、落雷のような轟音を立てながら、微かなヒビを空間に走らせる。微かに目を開いた女神は、しかしすぐ不敵に口元を歪めた。
女神の槍が、ブラックナイトの拳が、間合いで赤い閃光と血しぶきを上げながらぶつかり合う。ブラックナイトの肉が削り飛び、女神の視えざる壁が攻撃で震える。空間のヒビが徐々に徐々に広がってゆく。
加速する再生スピード。加速する攻撃。だが、その分限界は確実に確実に近づいていく。能力使用の限界点へ、ブラックナイトが到達しつつあることは女神に知られていた。
消耗戦だった。どちらが先に力尽きるか、根気の勝負。
だが、その勝負に付き合うほど、破滅の女神はお人好しではない。
女神は、三本の腕を右に向ける。
ブラックナイトの視線が右へ走った。そこには満身創痍の鳴花がいる。槍の出現で空間が歪むことを知覚した瞬間、ブラックナイトは駆けた。放たれた槍の一撃を、横蹴りで弾き飛ばし、殺到する後続の連撃を削られながらいなし続けた。舞い散る飛沫はもはや赤い霧となっていた。
休む間もなく続く連撃。
それはまさに大量発生した飛蝗の群れに、身を晒すような避けようのなさ。ブラックナイトは凄まじい速度で消耗してゆく。
能力使用の限界は、すぐそこまで来ていた。
女神の哄笑。ブラックナイトの悲鳴。
「――」
だが突然、攻撃が止んだ。
女神は後ろに意識を向けていた。赤き刃が、女神の背中に届く直前で阻まれていた。ローブを被った狼の怪人。気配もなく現れた「暗殺」が、女神を背後から襲撃したのだ。
「チィッ」
「アハははハ! ようやく来まシたか害虫サん。あの爆発に巻き込まれテ死んでいればよかっタのに」
「シネ、クソオンナ」
「こっチのセリフでスよ。――死ね」
女神が、全身の手を広げた。
瞬間、音が爆ぜる。
血で烟った空間は一挙に破壊された。航空爆撃を連想するほどの音の暴力。瓦礫の山が、辺を汚す血の塊が、ブラックナイトから削り落とされた残骸が、そこに存在したものが一瞬にして吹き飛ばされる。
鳴花を庇うように抱えたブラックナイトは跳んだ。脇腹と脚を槍に食われ、飛散した瓦礫を背中に受けながら、彼は超再生を発動させて体勢を立て直す。
鳴花のうめき声。意識が混濁しているせいか、目が虚ろだ。
「……」
鋭い金属音が響いた。空間に形成された無数の赤い刃が、絶対防御を展開する女神を襲っている。「暗殺」は狙いをつけられないよう神速で動きながら、刃を放っているようだった。槍の発動する間を封じるためか、攻撃は女神の連撃と同じくらい執拗だった。刃を壁に砕かれたさきから再構築し、さらにぶつける。
「……」
だが、決定打には欠ける。視えざる壁を打ち破るにはまるで威力が足りない。もっと力がいる。もっと破壊力のある一撃がいる。
そのために、もう一手必要となる。
壁を破壊する確実な一手。
ブラックナイトは、鳴花の頭を地面に叩きつけた。
――起きろ、復讐。
鳴花の瞳に、光が戻ってゆく。ブラックナイトは人知の及ばぬ言語で、傲慢に言った。
――王の権能を使え。あれさえあれば、やつに届く。狂愛を殺すぞ。
「……あ?」
見開かれた鳴花の瞳は、血を吹き出しそうなほどに血管が刻まれていた。青筋が蛇のごとく額を昇り、彼女は叫んだ。
「俺に命令しテんじゃねエぞクソ野郎がああああっ!」
その瞬間――異常増殖が発動した。
爆発的に膨れ上がった肉塊から、果実のように怪人たちが産み落とされてゆく。咆哮を上げた怪人の群れが一斉に女神に向かって踊りかかった。
女神の瞳が動いた。
女神は暴雨のごとき血の連撃を再び範囲攻撃で吹き飛ばすと、踊りかかってくる怪人たちに槍を放つ。
穴だらけにされ、怪人たちは肉塊を撒き散らす。
だが――それで終わらない。
バラバラにされた全ての肉塊が、突然膨れ上がった。
「――」
女神から薄ら笑いが消える。
この土壇場で――「復讐」の権能が進化したのだ。九十秒の縛りが無くなり、バラバラにされた肉塊からも増殖が可能となった。さらに膨れ上がった怪人の群れが、津波のごとき勢いをもって女神に襲いかかった。
「ちっ、うっとうシイ!」
女神は、再び全身の手を広げる。
全体攻撃が、三度放たれた。音の暴力は爆風を伴いながら怪人の群れを血祭りに上げたが、その圧倒的な一撃で追いつかないほどに、爆発的に増殖を繰り返す怪人は、無数の槍をくぐり抜け、ついに女神の壁にその手を触れた。
「くたバれ糞女がぁぁあアアア!」
鳴花は、「王」の権能を発動する。
それは十年という地獄の中で後天的にギフトされた、日に一度しか使えない鳴花のもう一つの権能。「殺意の王」の力の一部だ。
――絶命。
触れた命や物を絶対的に破壊する力。
鳴花の叫びとともに、女神の壁に亀裂が走り抜け、やがてガラスが砕けるように轟然と破裂する。光を受けた破片が、キラキラと輝く。女神は眉根を寄せて、その日初めて焦りを顔に刻んだ。
襲いくる怪人の群れに呑み込まれ、女神から鋭い悲鳴があがった。怪人どもが、女神の肉に食らいつき、その鋭い牙をもって肉を抉りとったのだ。腕が千切れ、脚がねじ切られ、スズカゼの顔が血の涙を流しながら顎から引き裂かれる。不可侵の神の絶叫が、怪人の喜悦が、空気を破砕する。
もはや理性はない。
あるのはただ、十年に詰められた恐怖と憎悪による惨劇の一幕だった。
鳴花が、内側から破裂しそうなほどに哄笑をあげる。
「ギャハハハハハハハハ! さすが上位者ダなぁ! こんナに引き千切っても死なねエぜ! ざまあミろよクソ女があ! 痛えか? 痛えダろうが! あア!? 俺が受けた痛みはコんなもんじゃねエんだよ! もっともっト苦しんデ死ねやこのブラコンがああ! 痛感の遮断をシてみろよ、その瞬間てメえのクソガキを腹の中かラ引摺り出してやらああ! ヒャはハハハは!」
そう言った瞬間だった。鳴花の笑いが止まった。顔に刻まれていた酷薄な笑みが、霧のごとく消え失せている。
気づいたのだ。
そこにあるべきはずのものが、足りないことに。
気づいて、しまったのだ。
「……バカな」
だが、疑問を言葉にする暇はなかった。鳴花の攻勢が緩んだ一瞬の間に、女神は不可視の槍で自分に群がった怪人どもを一斉に蹴散らした。力を溜めて放たれた渾身の一撃は、怪人の肉を粉々に破砕して血の洪水を周囲に巻き起こした。
呆然と突っ立っていた鳴花の上半身を、女神の槍が吹き飛ばす。
「弄ばれルだけが能の下等生物の分際デ……調子に乗るな」
見開かれた赤い目。手足を食い千切られ、身体のあちこちを引き裂かれた女神の身体は血まみれだった。下顎を失ったスズカゼが、声にならないすすり泣きをあげている。
女神は、右を睨んだ。
ブラックナイトと「暗殺」が、間近に迫っていた。焼き尽くさんばかりの怒りが、憎しみが、狂気に沈んだ女神の脳内を支配していた。
「ウジ虫が、私かラ兄さんを奪ったゴミどもが……っ!」
――死ね。
女神は残った手を翳し、二人の身体をバラバラに引き裂いた。
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