第十六章 四


 

 反逆の殺意リベリオン


 闘争を象徴する彼が「反逆」へと名前を変えたのは、人間への信仰を守るためであったという。彼は、人間を愛していた。人間の愚かさも人間の醜さも、争い続ける不毛さも、狂気を宿してバラバラになっていく惨めな有り様も。誰かを守ろうと戦う尊さも、死のそばにありながら大切なものを思う愛の深さも、残されたものの祈りも……なにもかも。なにもかも引っくるめて、愛していたのだ。


 歪んだ愛だった。闘争により産み落とされた怪物は、信者の視座にて人間を慈しんだ。馬鹿な話だった。彼らにとって人間とは、殺意という思念を生み出す装置でしかないのに。世界が交われば、それこそ餌となるだけの存在なのに。


 祈りを捧げているのだ。


 生きていて欲しいと願っているのだ。


 最も殺意が渦巻く「闘争」という象徴をもつくせに。腐れた十字架を背負いながら捧げられる祈りに、敬虔さなどあるというのか?


 しかし翡翠は、彼を嫌悪することなどできなかった。


 彼はただ唯一明確な意志をもって、彼ら「殺意」にとって絶対である「殺意の王」に反旗を翻したのだから。


 それは小銃一丁を持って一個師団に立ち向かうような蛮勇である。「殺意」と同化した翡翠は、そのことをよく理解していた。それほどまでに、「殺意の王」とは絶大な力を持っていた。産まれ落ちたら死が確定する。そう信じて疑わぬほどその存在は巨大なのだ。


 避けられぬ死に逆らった。神に刃を向けた。


 それがどのような理由であれ、どのような経緯であれだ。


 翡翠は国家権力に逆らえず、娘に等しい大切なものに人殺しを命じ続けざるをえなかった。そのことをずっと悔いていた。本当は、桜南の手から銃を奪い去り投げ捨てたかったのに。できなかった。無力なせいで。いや、無力であることを言い訳にして何もしなかった。


 「反逆」の滑稽さを嘲笑う資格などありはしない。彼は行動に移し、翡翠は行動をしなかった。そこにはあまりにも大きな差があった。


 そんな翡翠に「反逆」が宿ったのは、皮肉な巡り合わせなのかもしれない。






 『Type-Red』はいない。


 翡翠が視ているのは、夢だった。


 「反逆」の殺意が、そばにいる。


「……目が覚めたか」


 白い軍服を着た顔のない男が、仰向けに倒れる翡翠を見下ろしている。波の音が聴こえ、晴天が男の後ろに広がっていた。顔を横に動かすと、鈍色の柵が見えた。救命用の浮き輪と、大きめのタッカーが吊るされている。船の上だ。軍艦……いや、せいぜいが駆逐艦程度のサイズの艦船。


 波が被っているからだろう。上甲板は濡れている。しかし、翡翠は海水の冷たさを感じられなかった。濡れた感触も甲板の板の肌触りさえもなかった。潮の香りもなく。太陽の熱もない。


「……ここは?」


「オレの記憶だ」


 軍服の男は淡々と言った。身体を起こすと、艦橋が見えた。内部には黒い人形の靄が立っている。


「正確に言うなら、オレが過去に宿った人間の記憶の一部だ。とある駆逐艦の艦長をしていたらしい」 


「……そうか」


 艦橋の形や構造を見ても、いくつかの艦種の特徴が現れていて判然としない。それを考えることに意味はないだろう。翡翠は、立ち上がろうとして尻もちをついた。


「やめておけ。お前は、もう立ち上がることはできない」


「どういうことだ?」


「負けたんだよ、我々は」


 感情の籠らない声で告げられたのは、冷たい事実であった。


 そうか。だから、こんなところにいるのか。


「私は死んだんだな」


「まだ死んではいないさ。これから消えてしまうがな」


 翡翠は、己の手を見つめた。ツギハギだらけの手は、部下たちの一部だ。「彩」を背負って戦ったのに、その使命を果たせず道半ばで力尽きた。


 無味の風が吹き抜けていく。音だけが耳を過ぎて、まるで死神の口笛のように感じられた。


「……無念だ。まだ役目を果たしていないのに、このまま朽ち果てるなんて」


 男の言葉に、翡翠はうなずく。


「そうだな。お前の目的は、『無垢』の殺意を殺すことだった。それが果たされないまま死ぬのは悔しかろう。……私の力が及ばなかったせいだ。すまない」


「謝るのはよせ。お前を不完全な形で復活させたのはオレだ。せめて完全であれば、まだ勝負は分からなかった」


「……」


「せっかく眠りについたのに、さらに苦しめてしまったな。こちらこそ、すまなかった。妻と娘のもとに行けたはずだったものを」


 翡翠は、思わず小さな笑いを零した。男が鍛え上げられた太い首を傾げている。


「なにがおかしい?」


「……いや、『殺意』がそのような死生観を持っているとは思わなくてな」


「可笑しいだろうか? 人間にとっては普通のことではないのか?」


「信じるものもいるし信じないものもいるさ。私は信じていなかった。私では、どう足掻いても妻と娘のもとには行けないからな」


「なぜだ?」


「血に汚れすぎているからな」


 自嘲が、口元にしわを作る。


「殺しすぎた。罪を重ねすぎた。そういう人間が行き着く先は一つだろう?」


「地獄とやらか」


 翡翠が頷くと、男の能面がかすかに歪んだ。笑ったのだろうか。


「お前こそ面白いことを言うな。地獄は我々『殺意』が住む世界だ。つまり、お前はすでに地獄にいたわけだな。これからは違う場所に行ける」


「……優しいんだな」


「優しさなどではない。事実だ。お前は、これから愛するもののもとへ行くことができる。そこで、もう一度どんぐりでも拾って娘に見せてやればいいさ」


「本当に風変わりなやつだ。私を慰めたところで貴様には何の得もないのに」


「損得で動くようなら、そもそも反旗は翻さんだろ」


「それはもっともだ」


 翡翠は肩を竦めて息をつく。まさか死に際に、『殺意』とこんなやり取りを交わすことになるなんて思いもしなかった。


「……しかし、それが事実なら貴様には感謝しなくてはならないな」


「なぜだ? 死ぬ思いを二度味わったというのに」


「そんなことはどうでもいいさ。貴様が復活させてくれたおかげで、私はまた桜南に会うことができた。娘の成長を見届けることができたんだ」


「……」


「あいつがな……桜南と呼んでほしいと言ってきたんだ。私が与えた名を、誇りに思ってくれていた。それがどれほど嬉しいことかわかるか?」


「わかるよ。オレはお前の中に居たのだからな」


「桜南は、私の未練だったんだ。それがなくなったのは貴様のおかげなんだよ」


「……そうか。しかし、あの娘は」


「わかっている」


 あの娘はもう、数日も生きられはしない。「絶望」の力に蝕まれ、身体は壊れる寸前だった。何もしないでもその状態なのだ。あと一度でも力を使えば完全に崩壊する。


 そして、彼女は間違いなく使う。


 あの娘は、そういう子だ。


「いいのか、それで。お前は納得できるのか?」


「できるわけないさ。生きて幸せになって欲しかった。銃のない場所で、誰も欺かず誰も傷つけず普通に暮らして欲しかったよ。しかし、その望みは叶わなかった。我々の無力の結果ゆえにな」


「……異色家のせいだ。貴様のせいではない」


「そうだな。しかし、桜南を変えたのはその異色家の者であるのも事実だ。異色家の任務がなければ、桜南の成長はなかった」


 皮肉な話だがな、と翡翠は力なく笑い続けた。


「恨み言を言うのは簡単だが、運命はもうあの子に破滅をもたらした。こうなってしまった以上、大切なのはあの娘の選択を見守り助けることだ。……悔しいが、俺にできることはそれだけだった」


「……」


 翡翠は柵につかまり、気合いを吐いて動かない足に力を込めた。何度もふらつきながら、膝を崩しそうになりながら、それでもなんとか立ち上がった。


「行かなければ。まだ死んでいないのなら」


「……わかった」


 男は海の方に目を向ける。水平線から白い光が膨れ上がっていた。太陽の光ではない。光は海を白く輝かせながらこちらに迫ってきている。


「やはり、人間は素晴らしいな。オレは人間から産まれて本当によかったと思うよ」


「……」


「翡翠……いや銀丈武ぎんじょうたけしよ。お前には最後の光を残している。それを使え。『無垢』には届かなかったが、やつらを道連れにするくらいならできるはずだ」


「ああ。あとは、桜南たちにすべてを託そう」


 光が船を呑み込んだ。


 翡翠たちは白の中へ消えてゆく。


 







 光から覚めた翡翠の口が、か細く動いた。

  

 ――さな。


 そう声を発したはずが、口からは息さえもこぼれなかった。


 水滴の跳ねる音がする。巨大な鉈の刃先から血が滴り落ちているのが見えた。


 身体が言うことをきかない。指の一本さえぴくりとも動かせない。バラバラにされたからだ。五体の化け物に為す術もなく膾切りにされ、「彩」の寄せ集めだった身体は、もう翡翠のものではなくなっていた。


 冷たい建物のタイルの床に、「彩」の血が流れている。辺りに散らばった臓物が、まるで雨に濡れた花のようにぬらりと輝いていた。頭は半分以上失われ、もうどうにもならない死が近づきつつあった。


 グズグズと、翡翠の肉片が泡を立てて消え始めた。


 化け物たちが消えかけの翡翠を見下ろしている。包帯に被われた顔から感情をうかがい知ることはできない。


 翡翠の死を確信したからだろうか。化け物たちは、踵を返そうとしていた。


 行かせてはならない。


 ここで、終わらせなければならない。


 自分の使命とともに。


「……」


 翡翠のバラバラになった身体から白い光が膨れ上がる。振り返った化け物たちが、脚の筋肉に力を溜めているのが見えた。その先にいた異色香澄が、翡翠のやろうとしたことを察したのだろう。素早い判断だ。化け物たちは腰を落とし、跳び上がろうとしていた。


 だが――翡翠の方が一手早い。


 化け物たちの頭上に現れた砲身が、火を吹いた。不意打ちを食らった化け物は、爆発とともに地面に縫い付けられる。凄まじい衝撃が建物を揺らした。


 これで終わりだ。


 もう、間に合わない。


 閃光が迸る瞬間、翡翠はたしかに視た。


 ――ああ。


 半壊した顔が、笑みを刻む。


 ――そこにいるんだな。……優子……佐奈。







 異色邸へと向かっていた桜南は、ビルの屋上で足を止めて、その光景を呆然と見つめた。


 轟音とともに迸った白い光。街の中心部で炸裂した巨大な爆発は、莫大な熱波を伴いながら暴風を走らせ、桜南を襲った。息がつまる。近くにあった看板がギシギシと軋み、窓ガラスにヒビが走り抜け、パラボラアンテナが歪んだ。


 黒い煙が、雲となって立ち上る。


 爆心地は、おそらくここより十キロ以上先だ。中心部から二キロほどは粉々に消し飛んでいるだろう。それほどの膨大な爆発……起こせる可能性がある者は一人しかいない。


「……ヒスイ」


 桜南は独り言ち、虚空に向かって指先を伸ばす。唇の震えが止まらなかった。心臓が痛いほどに鼓動を早めて、締め付けられていくかのように心が苦しくなる。


 わかってしまった。


 翡翠の身に何が起こったのか。『殺意』は本来自殺できないが、顕現が不完全だった彼には再生能力がない。つまり、自身の攻撃で自滅する可能性があるということだ。戦闘の最中にこんな広範囲の爆発を起こして巻き込まれずに済むとは思えないから、それこそ自殺行為に等しいだろう。


 翡翠がそんなことわからないはずがない。だから、あの爆発はきっと……きっと追い詰められた末にとった苦肉の策であるはずだ。


 翡翠は……翡翠はもう……。 


 息が、乱れていた。


 ――嫌だ。


 心臓の鼓動がうるさい。桜南の目から溢れ出したものは止まらなかった。一度は失ったと思い、無理やり受け入れ蓋をしたはずの感情。それが、翡翠と再会したせいか箍が外れてしまったのか。流れ落ちる雫とともに、彼と過ごした八年の記憶が頭を過る。


 彼は、厳しい人だった。だが、それと同じくらい温かい人でもあった。いつも優しい眼差しで、自分を見ていてくれた。任務を終えて疲れ果てて寝ていたときに、毛布をかけてくれた。ごつごつとした大きな手で、そっと頭を撫でてくれて穏やかに眠らせてくれた。彼は何も言わなかったけれど、桜南が学校に通えるように上層部と戦ってくれたことも知っていた。


 誇張でもなんでもなく、桜南にとって翡翠は父親に等しい存在だった。与えてもらった名前の由来が気になって密かに調べたとき、桜南は彼から向けられる愛情の深さを知った。


 銀城桜南。


 その名は桜南の誇りであり、翡翠の愛だ。


「……イヤダヨ」


 死なないで欲しい。


 いなくならないで欲しい。


 あなたともっと、言葉を交わしたかった。まだまだ話していないことがたくさんあったのに。もっと名前を呼んで欲しかった。たくさん呼んで欲しかった。


 お父さんと呼ぶことを、許して欲しかった。






 穏やかな風が吹いていた。


 立ち昇る黒い雲はいつの間にか消えていた。爆発によって破壊された街の残骸が、遠目からでも黒ずんで見える。


 いったい、どれだけ立ち竦んでいただろうか。


 桜南は、涙を拭った。心に生じる痛みを歯を噛み締めて耐えながら、ふらつきそうになる身体を気合いを入れて奮い立たせる。


 行かなければならない。


 ここで立ち止まっていたら、翡翠がなんのために命をかけたのか分からなくなる。


 桜南は跳んだ。


 異色香澄を殺すために。





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