第十六章 三
――透くん。
――起きて。
透は砂浜を歩いていた。
踏みしめるたびに足が沈み、くるぶしまで砂の中へ埋もれる。さらりとしていて冷たくも熱くもない。ざふりざふり。そんな音が足裏から反響してくるようだった。時折足裏が刺すように痛むのは、貝殻か石を踏んだからだろうか。肌に張り付く砂粒。ざらりとした不快感。
それでも、透は歩くことを止めない。
寄せては返す波の音。暗い海だった。破壊的な星の瞬きの下に存在する黒い海は、心を閉ざした人間の瞳のごとく、月の輝きさえ映さない。光という光を拒絶しているような、頑なな闇があった。
音だけがするのだ。波の様子は一切見えないのに、波の音だけはたしかにある。怖ろしい。まるで、そこに近づけば見えない波にさらわれて、帰ってこれなくなるのではないか。そう思えてならない。
だから、真っすぐ歩いた。波から離れてはならないとなぜか思ったから、近づかないようにただ真っすぐと。
声がした方へ。
「……」
そこへ行かなくてはならない。
なぜ、そう思うのかはわからない。だが、向かわなければこの長いながい夜は終わらないと感じられた。暗く冷たい海から襲われて、あぶくのごとく消えてしまう。そんな誇大妄想じみた恐怖が、そばについて回る異常――。
そこから、逃げ出したい。
「……また逃げるのか?」
海の方から声がした。透は小さな悲鳴を上げて、足を止める。
女の声だった。誰なのかわからない。
「そうやって、苦しいものから逃げ続けてきたのに、まだ続けるんだ。現実からは逃げられないと思い知ったはずなのに、そうやってまた見ないふりをして……ほんとどうしようもない」
波の音が、大きくなる。
「ヒーローになりたいと願う愚かなマザーキラー。おまえ、前に進んでいたつもりだったんだろ? すぐに困難から逃げるやつはいつもそうだ。前に進んでいるフリをする。頑張っているといい聞かせて、自分の欠点や不始末から目をそらしてなかったことにしようとする。後ろを振り返らない、という言葉を都合よく解釈してな、過ちから目をそらすんだ」
「……違う、俺はそんなつもりじゃ」
「黙れシスターファッカー。お前はクソ野郎だ。物語の主人公みたいな面をした、中身がスカスカの逃げ続けるただの犯罪者だ。縁日の屋台に並んだブラックナイトの風船みたいにな。詰まってるのはただの空気だ。ペラペラでなにもない」
「違う! 違う違う違う違う違う違う!」
透は、頭を抱えて叫ぶ。
「違うんだよぉ! 俺は、本当にそんなことするつもりはなかったんだ! 母様を殺したくて殺したわけじゃない! あのとき、俺がやらなかっ、たら……母様は香澄を……! それに、香澄とあんなことになったのも、あいつに薬を盛られて正常じゃなかったからだ!」
「……は」
一笑する声。それでも透は止まらない。
「充の気持ちにも気づいていた! でも……言えるわけないだろ……言えるわけがっ! 言ってしまったら、あいつとの関係が壊れちまうかもしれない! 怖かったんだ、ずっと! 俺は、あいつの気持ちには応えられないから!」
叫び声を上げ、透はさめざめと泣いた。
「俺はどうすれば良かったんだよぉ!? 正しく生きたかった! そうすれば、絶対に幸せになれるって信じて、ただそれだけを信じて一生懸命に頑張ってきたんだ! 俺がバカで愚かなのはわかっている! それでも……それでも俺は、正義を信じたかった! でも……現実は」
砂にまみれた手が、ノイズが走ったように赤黒く染まっていく。こべりついていたのは、決して逃れられぬ罪の烙印であり、汚れた福音だった。
「俺は、罪まみれで……。絶対に許せないと思っていたことを、俺がやっていたなんて……。受け入れられるわけないだろ。受け入れられるわけが! 幸せになりたかったのに、最初からその資格さえなかったなんて……! なんで、なんでなんだよ! なんで忘れてしまっていたんだ……」
ヘルタースケルター。頭の中が、現実を受け入れなければならないという使命感と、現実を受け入れられない拒絶感で、混乱の極みに達する。透が積み上げてきた十八年のすべては、嘘の漆喰で塗りつぶされ隠された血に塗れたものだった。
――人を殺してはならない理由は、幸せになれないから。
かつて桜南にぶつけた言葉は、すべて自分に返ってくる呪いだった。
人殺しが、人を殺してはならない理由を語ったのだ。
「……母様。俺は、なんで……あんなことを……。殺したくなんか、なかったのに……」
許してください。
そんな嘆きが、口からこぼれた。まるで限界まで我慢した息のごとく。自然と、あふれた。
あざ笑う声。
波の音が、さらに大きくなる。
「許されるわけないだろ、バーカ。お前は幸せになんかなっちゃならないんだよ! 死ね! クソ野郎! お前が目をそらしてきたすべての事実とともに、飲まれてこの世から消えてしまえ!」
波が、足首まで流れてきた。凍りつくような冷たさにぞっとする。後ずさった。逃げようとしても波は一瞬で透の腰辺りまで包み込み――。
――血塗れの母親が、目の前にいた。
「ひっ」
「逃さないぞ。お前は、壊れたまま一生香澄の玩具として生き続けるんだ。それが、逃げ続けてきたお前への罰だ」
「……い、いやだ! やめてくれ!」
「あははははははっ! あはははははははははははは! こっちへおいでえええ……!」
波が、透の顔を飲み込もうとした瞬間だった。
透の身体が、突然何者かに持ち上げられた。
「――」
驚愕のあまり、頭が真っ白になる。いつの間にか海の上に立っていた。見開かれた母親の眼差しが、暗い水面の下で鈍く光っている。白波が、身体を揺さぶった。
「けはははは、ざまあねえな坊や」
身体の内側に響いてくるような力強い声は、これまで何度も聞いてきたものだ。自分であって自分ではない、心に棲まうもう一人の声。
振り返る。
そこにいたのは、ブラックナイト。
透の中にいる上位者だった。
「……なんで、お前が」
「驚くのも無理はねえや。俺様がこんなことをするなんて、想定にあるわけもねえだろうしなあ」
ブラックナイトは……「守護」と「救済」を司る殺意は愉快げに嗤う。
「お前さんがぶっ壊れちまったのは本来なら中々の娯楽だろうがよお……。のんびり見てる間に、最上のサーカスが終わっちまったら馬鹿みてえだからなァ。それに、あのクソ女に騙された礼をまだ返してもいねえ」
「……」
「この身体の主導権は、おめえにあるんだ。おめえから借りる許可を貰えなけりゃ、俺は動けねえ! だから手を出してやったんだよォ……わかったか坊や!」
水面下から、母親のヒステリックな悲鳴が轟く。波が激しくうねり、透はバランスを崩して水面に尻もちをついた。
波に激しく身体を揺らしながら、ブラックナイトはゆっくりと拳を振り上げ、硬く硬く握りしめた。浮かび上がる血管。激しい関節と筋肉の軋み。
ブラックナイトが咆哮をあげて、渾身の力で水面を殴りつけた。
轟音。爆発的な光が走り抜け、大量の水が蒸発するような勢いで一気に掻き消された。凄まじい衝撃に、透の身体は吹き飛ばされる。濡れた砂浜を何度も転がり、テトラポットに背中をぶつけて、ようやく止まった。
衝撃に呼吸を乱しながら、ブラックナイトの方を見る。化け物はゲラゲラと笑いながら、瞬足で透に詰め寄った。
髪を掴まれ、ぐんと首が持ち上げられる。
「……てめえのションベン臭え
「……取引?」
「俺に王位を譲るって約定だよ。『殺意の王』を殺したあと、俺が地獄を統べる神になるんだ。『絶望』の力も俺が貰う」
「……なんだと? なんでそんなこと」
「それが元々の俺の目的だったんだよ。俺は『鏖』なんて乱痴気騒ぎには興味もねえし、そもそも『殺意の王』が気に喰わねえ。……あんな母親に依存するクソガキが、俺の上に立つなんて我慢できるわけがねえだろうがよぉ」
「……」
「しかしまあ、俺はあのクソ女から記憶をいじられていたみたいでよお。『絶望』の力を、俺が持っていると思い込まされていたんだ。おそらくは『絶望』の力を手に入れようと動かれちゃ困るからだったんだろうが……ナメた真似をしてくれたもんだ。バラバラにしないと気が済まねえ」
ブラックナイトは、黒く潰れた三つ目と貪婪に輝く猛禽のごとき鋭い三つ目で、透を睨みながら言った。
「すべては、俺が頂点に立つためだ。いいか、クソガキ。お前の身体を貸せ。あの女をぶち殺してやる」
「……」
透は目を伏せて、くすりと笑った。
――もうどうでもいい。
どうせどれだけ罪を贖ようと、もはや透は取り返しがつかない。最初から、すべて破綻していたのだ。こいつに委ねたところで、その事実は何も変わらない。
それに、香澄を許せるわけがなかった。
あいつを、バラバラにしてやりたい。
その気持ちは、透も同じだった。
ゆっくりと頷くと、ブラックナイトが嗤った。実に愉快そうに、破壊衝動に突き動かされるように。
化け物は、高らかに宣言する。
「いいぜえ! 俺が、あのクソ女に引導を渡してやるよおおおっ! アヒャヒャヒャヒャヒャ! あのクソ女、意外と詰めが甘えぜ! 俺の存在を縛る手段を持っていないんだからよぉ!」
透の髪から手を離し、ブラックナイトは踵を返した。去り際に親指で後ろを指差し、こう言い残した。
「お前さんはそこで、そいつと話でもしてろ。オオカミ女がみせる夢だとしても、お前さんには必要だろうからな」
ブラックナイトが消える。
残された透は、しばし呆然と空を見ていた。身体が動かなかった。ブラックナイトの言葉を確かめようとも思えないほど、億劫だった。目を閉じて眠りたい。そう思ったが、バラバラに砕けた心は眠りにつくことすら許さないほど、重く透の精神を呪縛して離さない。
――もう、どうでもいい。疲れた。
なにも考えたくない。
「……」
さくりさくり、と砂を踏む音がした。
その音が透の側で止まったとき、ようやく彼はゆっくりと顔を上げ、殴りつけられたような衝撃に目を見開いた。
そこにいたのは、彼の親友――茶川充。
「……話をしようか透」
巨大な異色の屋敷は、崩壊寸前であった。
壁も天井も、ここに存在したすべての調度品も航空爆撃すら凌ぐ神の鉄槌によって破壊され尽くしていた。
瓦礫の山の中央で、悪魔の赤き瞳が威圧的な光を放っている。無数に生えた腕と、白き女神の身体を持つ「Type-Clear」は酷薄な笑みを称えながら、ズタボロになった鳴花を見下ろしていた。
「……あ……ぁぐ」
瓦礫の上に仰向けに倒れる鳴花は、全身を穴だらけにされていた。両手両足は引きちぎれ、断面から白い骨とザクロのような赤黒い肉が覗いている。下腹部は子宮ごと抉られ、腹も右半分は消し飛び、小腸がでろりとこぼれ落ちている。左肺も穿たれ、肩も削れ、頭も半分が無い。瓦礫からシャンパンタワーを彷彿とさせる大量の血が流れ落ちて、地獄の如き凄惨な光景が広がっていた。
「……身重にはつラいですネ。身体とこころハ、別の場所にあっテも繋がっているんですカら」
訳の分からないことを言いながら、破滅の女神は笑っていた。圧倒的な力で鳴花を粉砕したことを愉悦と捉えているのか。しかし、その愉悦は花畑の観賞を楽しむような気軽さで発されている。
女神は、地獄の神であった。
「……しかシ、遊ぶつもりはなイのにどうにも狙いが微妙に外れてしまいマすね。おかゲで三十二手も無駄な攻防ガありましタ」
女神の手が、三つの顔のうち一つを撫でた。スズカゼの、艶を失いきった老婆のごとき顔だ。まるで乾いた樹皮を撫でているような感触に、女神は香澄の顔をしかめる。
「……もう、あなたのせイでしょ。第六研究所のときもそうでしタね? 最初ノ不意打ちで頭を砕けたハずなのにできナかった。昔のよしミだからって躊躇してしまいマしたカ? ン?」
「……モ、もももうしわけ……ございマせん……お嬢サ……ま」
「これだかラ、人間はいけマセんね。下らない情を持ち合わせテ……合理性に欠ける選択ばカりするんですカら」
「……ひっ、お、おオお許しを」
スズカゼの両目に、指を捩じ込んだ。
絶叫があがる。香澄の顔が、法悦にとろりと歪む。虫の顔がきちきちと音を立て顎を開いて嗤う。
イカれていた。壊れていた。
女神は、超越者としての限界さえ超えていた。悪魔という悪魔を集めて一つに融合したような、そんな人知の及ばぬ残虐極まる精神性。そこに至らしめたのは、すべてが香澄の抱く「狂愛」の呪いによるものだ。
悪意の蠱毒により生まれた、毒虫の女神。
「あははハはははハはハはははハははははっ! 次の増殖ヲ発動すルのに、あと三十秒もありますかラ。ゆっくリ殺スのも乙かもしれないデすね! 鳴花ちゃンは、本当にいイ玩具ですヨ! うふふふ、あひゃあひゃひゃヒャヒャ! あああ、ハエの羽音がウルサくて、ここちイいぃ……」
女神はすべての腕を広げる。周囲の空間がゆらりと揺らいだ。神の裁きに等しい「不可視の槍」が音もなくうごめき、鳴花へと狙いを定めた。
次の攻撃で、鳴花の身体をゆっくりと削ぎながら確実に殺し切る。
残虐な女神は、恍惚の声を発した。
「さよナら、兄さンに擦り寄っタ害虫さん。十年越しにようやク死ねるかラよかったデすね」
そのときだった。
まさに、女神が槍を放とうと命令を下す直前――どこかで瓦礫の崩れる音が響いた。女神の命令が降る。一撃目の槍が、空気を引き裂きながら鳴花へと迫る。その見えない切っ先が鳴花の身体に触れようとしたさらに刹那。黒い影が横切り――見えない槍を蹴り飛ばし、軌道を変えた。
「――」
二撃目三撃目が放たれる中、女神は小さく目を見開いた。黒い騎士の姿をした怪物。殺到する槍の連撃。見えないはずのそれを、怪物は拳を叩きつけ、蹴りつけ、受け流し、神速でさばききった。
周囲の地面が、瓦礫が抉られる。爆撃のごとき暴風が両者の間を駆け抜けた。
女神は、妖しげに笑う。
「……来るとハ思ってまシたケど、思っていたヨり速かっタですネ。銀城桜南がなにかシましたか?」
怪物は答えない。
「兄さンを壊せテも、あなたは無理でスからネ。上位者ハ、『狂信』では操れマせんし……。二ヶ月以上時間ヲかけて、ようやくちょっと記憶をイジれる程度でしたかラ……時間が足りませんデした」
「……」
「でもマあ、想定内でス。なんの問題もありまセん」
女神が手を広げると、怪物は金属の弦で引いたバイオリンのごとき破滅的な咆哮を上げ、踊りかかった。
香澄の口が、吊り上がった。
「さア。遊びまショ、破滅が訪れルそのときまデ!」
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