第十六章 一



 佐奈、優子……。


 俺は、お前たちを守ることができなかった。


 警察署の死体安置所で、白い布をかぶって眠るお前たちを見たとき、俺は泣くこともできなかった。


 飲酒運転による事故。馬鹿な官僚の馬鹿な息子が、バーで酒を飲んだ帰りに無灯火で車を運転し、買い物帰りに駐車場へ向かおうと横断歩道を渡っていた妻と娘を跳ね飛ばした。優子つまは壁にぶつかった衝撃で背骨を骨折して即死し、佐奈むすめは頭を対向車のタイヤに潰されて原型さえ留めていなかった。


 娘の成長を見るのが楽しみだった。


 妻と一緒に、彼女が大きくなっていくのを見守るのが夢だったんだ。


 それを、すべて奪われた。


 俺が翡翠と呼ばれるようになったのは、それからだった。


 ――悪魔の条件を飲んで。


 妻と娘を殺したクズを殺してもいい代わりに、一生を国家のために捧げ続ける。


 俺は、悪魔と契約をかわした。

 



 



『ねえ、パパ! みてみてどんぐり!』


『……ふむ、大きい木の実だな。どこで見つけたんだ』


『あそこだよ! ほら、いっぱい落ちてる! これって食べられるの?』


『アク抜きをすれば食べられなくはないな。だが、それほど美味しくもない』


『アク抜きってなあに?』


『アク抜きって言うのはな、調理の工程の一つで野菜や木の実に含まれる苦味成分を取り除く作業を言うんだ』


『わかんなーい』


『む……そうか』


『あのねえあなた、もう少しわかりやすく教えなさいよ。幼稚園児にそんなウィキペディアみたいな説明が伝わるわけないでしょ?』


『たしかに、一理ある』


『百理しかないわよ。あのね、佐奈……アク抜きっていうのはね――』


 何百回と見たかわからないホームビデオ。


 もう、娘と妻はそこにしかいない。

 

 



 



 翡翠は瓦礫の中で目を覚ました。


「……」


 いつの間にか気を失っていたらしい。「Type-Red」との空中戦で、粉々に破壊された爆撃機から投げ出されたあとの記憶が曖昧だった。鳴花を先に行かせるために、砲撃で牽制したことは覚えているが――。


 額から、どろりと血がこぼれた。身体を起こそうとすると目眩がして、翡翠は再び倒れる。身体を覆っていた瓦礫が、ガラガラと音を立てて崩れ、砂煙がふわりと宙に消えた。


「……ぐっ」


 鈍い痛みが全身を叩く。内側から、あるいは皮膚の外から。ねじ切れた鉄筋の一部が翡翠の左腕に突き刺さっていた。怪物と化すと腕が四本になるが、そのうちの一本がやられている。問題はない。頭さえ潰されなければ治らずとも死なないからだ。


 翡翠は、歯を食いしばりながら起き上がる。瓦礫がガラガラと崩れ、赤く染まった空が現れた。


 幸せの残滓ともいうべき夢に、余韻を感じている暇はない。いったいどれだけ気を失っていた? その間に人工殺意どもが鳴花を追っていたらどうする――? 自ら足止めを引き受けておいて、「寝ていたから責務を果たせませんでした」では笑い話にもならない。


 立ち上がる。


 よろめいたが、しっかりと地を噛んで立つ。どこかのビルの残骸に埋もれていたようだ。左右を鋭く睨みつけ、敵の姿を探す。状況把握。戦闘機は気絶したせいかすべて消えている。かなりの数を殺したが、空を飛んでいた雑魚どもはまだいるかもしれない。「Type-Red」はどこだ? 


 起き上がってから、少しずつ記憶が鮮明になってゆく。向かってきた「Type-Red」を、大量の弾幕で迎撃し、やつらの翼をもいだことだけは覚えている。落下したやつらとともに、翡翠も落ちた。だからやつらがどうなったのかはわからないが、確実に死んでいないことだけは間違いない。あの赤坂亜加子をベースにした人工殺意が、あの程度で死ぬわけがない。


「……紫音」


 翡翠は走った。走り出しはふらついたが、再び歯を食いしばって無理やり身体に活をいれる。やつらが翡翠を放置して、鳴花を追った可能性は極めて高い。そうなると鳴花は、異色香澄と人工殺意で挟み打ちにされる形になる。それだけは避けねばならなかった。


 だが、敵は翡翠の想定とは違う選択肢をとったようだ。


「――」


 翡翠は突然、前方に無数の砲を出現させた。折り重なった鉄塊が、凄まじい速度で襲いかかってきた黒い塊を受け止める。火花が弾け、爆発的な衝撃が暴風となって周囲の瓦礫を吹き飛ばした。一瞬見えたのは、巨大な鉈を叩きつけてきた巨人の残像。翡翠は反射的に後方に飛んで、間合いを取った。


 その後ろに、巨人の影がかかった。


 翡翠は後方に砲身を現出させる。だが、若干タイミングが遅かった。鉈の一撃を受け流しきれず、そのまま弾丸のごとく吹き飛ばされ、車や街路樹をなぎ倒しながら、何度も何度もアスファルトの地面を跳ねた。身体にさらなる鈍痛を蓄えながら、転がり続けた翡翠は、どうにか体勢をたてなおし、前方を睨んだ。


 五体の巨人がいた。


 錆びついた鉄塊のごとき鉈を構える、絶対的な力の象徴。そんな化け物が、五体。


「……そう来るか」


 翡翠は砲身を空中から現出させながら呟いた。


 理由ははっきりしないが、異色香澄は人工殺意に鳴花を追わせることをしなかった。戦力の一部を割いて追撃することさえ選ばなかったらしい。


 鳴花をなめているのか。それとも鳴花を撃退する自信があるだけの策を用意しているのか。


 ――もしくは、未知数の翡翠の力を警戒したからか。


 真相はわからない。わからないが、「Type-Red」がこの場に留まってくれるなら、都合はよい。形はどうあれ本来の目的どおりになったのだから。


 翡翠は三本の腕を前にかざす。


 化け物どもは膝を曲げ、身体を低く沈めてゆく。


 両者の間を、温い微風が吹き抜ける。ふわりと揺れた砂煙。それが突然、ふっ、と掻き消えた。五体の化け物が走った衝撃で――。


 微風が暴風となって逆流する。弾き飛ばされるアスファルトの破片。ヒビが走り抜ける周囲の窓ガラス。破片が、周囲の造形物にぶつかり粉々に砕かれるその瞬間。瞬きすらも許されぬ間で、一気に詰めよった化け物たちに、翡翠の放った無数の砲弾が向かった。その牙が、化け物たちに食らいつくさらなる刹那。化け物たちが瞬速で鉈をふるった。


 轟音。膨大な炎と光が、両者の間で巻きおこった。アスファルトの破片が造形物を破壊し、両断されて弾道を変えた砲弾が、周囲のビルを崩壊させる。落雷のごとき爆発。


 翡翠は後方に飛びながら距離をとり、再び砲の群れを展開すると、容赦なく放ち続けた。粉々に砕け、爆発とともに街は景色を変えてゆく。手を緩めたら死ぬ。撃ち続けるしかない。


 下がりながら撃ちまくる翡翠。膨大な弾幕は、しかし化け物たちを殺さない。


 瞬間、横合いから鈍色の閃光が走った。


 鉈。


「……ちぃぃ」


 辛うじて展開した砲で受け止め、翡翠は弾き飛ばされた。何度も転がり、ガラスを割りながらビルの中まで消えてゆく。


 身体を起こそうとした瞬間。


 上から影がかかった。


「――ガッ」


 辛うじて身体を引いたが、振り落とされた巨大な鉄塊に右腕の一つを千切られた。鉄塊が突き刺さった地面が震える。宙を舞う腕。噴き上がる血。走り抜ける激痛にうめきながら、しかし翡翠は動きを止めなかった。


 再び砲を展開し、化け物を撃つ。


 だが、化け物はゲラゲラと笑いながら砲弾を弾き飛ばすと、翡翠に詰めよった。鉈の一撃。どうにかしゃがんでかわした翡翠に、巨木のごとき横蹴りが突き刺さった。


「――カハッ」


 ミキッ、という音が全身から反響した。意識が黒と赤に明滅し、突き刺さった壁に巨大なクレーターを走らせる。ズン、と轟きを上げながら建物が揺れた。


 倒れ伏した翡翠は震える上体を起こして、激しく咳き込みながら血の塊を吐き出した。全身の骨がイカれている。たったの一撃で。化け物。これほどまで。力の差がありすぎる。歪む視界。意識を取り戻せ。死ぬ。殺される――。


 ――優子、佐奈。


 ――桜南!


「が、ぐがあああああっ」 


 翡翠は咆哮を上げて、砲と機銃を展開した。


 化け物どもが、間合いに入っていた。


 振り下ろされる五つの刃。


 逃げ場などなかった。


 機銃と砲撃の掃射が、火を吹いた。







 ――あのとき。


 桜南と初めて顔を合わせたとき。


 この国は、どうしようもなく腐っていると心の底から思った。


 その少女はどう見ても十歳になるかならないか、という年の頃だったからだ。それを、新入りの暗殺者として紹介された。「彩」の運営する諜報員を養成するための施設――そこでゼロから育てられた国家公認の殺人機械。倫理もくそもなかった。


 その少女の名を聞いたとき、「自分には名乗る名などないし、必要はない」と言っていた。感情の映らない、光のない瞳で。


 あまりにも悲しい存在だと思った。


 国の狂気の犠牲になっていることに、疑問さえ抱かない。そんな思考を抱くようには教育されていないのだろう。彼女は、空っぽだった。


 銀。


 色を与えられた少女は、こころを持たずに任務をこなし、人を騙し、人を殺し続けた。人を欺くときだけ愛らしく笑うのだ。その笑顔はこころがないことを知っていると酷く薄っぺらく、不気味にしか見えなかった。笑っていてもその裏には一切の感情がないのだから、その不整合が悲しいほどに気味悪く映った。


 翡翠は、銀をどうにか救ってやりたいと思った。人殺しの集まる組織で部隊長をやっているものが抱いていい感情でないことは当然承知の上だった。自身に与えられた職務上の責任を考えると、銀を特別視することは許されない。それでもだ。それでも、翡翠は不器用なまでに銀と向き合おうとした。


 どうしても放っておくことはできなかった。


 ――彼女の姿が、佐奈と重なって見えたから。


 だが、翡翠はあまりにも無力だった。


 銀にこころを教えることはおろか、人を欺くことも殺すこともやめさせることはできなかった。できるわけもない。人殺しの組織にいながら、人殺しの自分が「人を殺すことは良くない」と説教をすることなど――。ましてや、自分は銀に人殺しを命ずる側なのだ。思いと行動を一致させることができない、螺旋を描いた矛盾。娘のように思うものに、人殺しをさせ続ける自分がひどく愚かしい存在に思えて歯痒かった。


 できたことといえば、眠る彼女に毛布をかけてあげることくらいだった。せめて安らかに眠れるように、ひっそりと頭を撫で続けた。


 八年、そうやって寄り添い続けた。


 そしていつからか、彼女が自分のあり方に疑問を抱いていたことに気づいた。グロテスクな教育では人のこころは消せないのだと証明された気がして嬉しくもあったが、同時に苦しみを抱える彼女を見るのが辛くもあった。きっと、もう佐奈と重ねているというレベルではなくなっていたのだろう。まさに娘のように愛していた。


 彼女の幸せを、心から願っていた。


 だから、異色透の調査で学校に潜入させるのが決まったときは嬉しかった。彼女を、同年代の少年少女たちと交流させることができるのだから、何かが変わることを期待せずにはいられなかった。


 銀城桜南という名を与えられ、学校に通い始めた彼女は、少しずつだがたしかに変わっていった。異色透の調査に大した意味はないと桜南が報告を上げてきたときも、潜入任務を継続するように命じ、考えつく限りの理屈を並べたて本気で上を説得さえした。


 その甲斐もあって、桜南は大きく変わった。


 異色透との出会いがきっかけとなったようで、他者に対して恋愛感情すら抱くようになった桜南は、もうただの機械ではなくなっていた。


 その桜南の成長が、なによりも嬉しかった。


 本物の笑顔を浮かべるようになった桜南を、願わくばずっと見ていたいと思った。


 ずっと。


 ずっと。








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