第十五章 四
――うふふ。
兄さん、待っていてくださいね。
今から蛆虫を排除しにいきますから。
帰ってきたら、続きをしましょう。
天に翻る紫の怪人――。
飛翔する鳴花は、ミミズのような化け物を巨大な爪で突き刺しながら踏み抜いて殺した。質量と衝撃に耐えきれなかったアスファルトに、巨大な亀裂が走り抜ける。貫いた体内から内臓を引きずり出すと、鳴花はそれを食い千切った。化け物から上がる断末魔。
血しぶきに染まる怪人は、赤い目を爛々と光らせて肉を噛み潰す。脂と血を含んだ粘着質な咀嚼音が、小さくなる悲鳴とともに静寂を乱暴に破壊する。
鳴花は、化け物が動かなくなるまで肉を食い漁り、やがてゆっくりと顔をあげる。
その先に見えたのは、延々と続く要塞の如き赤レンガの壁――。
とうとうたどり着いた。
――異色邸。
魔王の潜む、異界の城。
「……」
鳴花は、化け物から飛び降りると右腕を天に伸ばした。腕の筋肉が膨れ上がり、暴走するスライムのような勢いでぐちゃぐちゃと形を変えていく。巨木のごとく膨張した腕。
怒りを込めるように、それを赤レンガの壁へと叩きつけた。
落雷が落ちたかのような爆発的な音ともに、吹き飛ばされたレンガの破片は、散弾となって中にいた化け物たちの肉を抉った。狂気的な叫びと怒りに満ちた唸りが、巻き上がった砂煙の先から聞こえてくる。
煙を引き裂きながら現れた鳴花の目は、獲物を狩る肉食獣のごとく鋭い。血の薫る風が、怪人の長い小紫の髪を揺らす。鳴花は咆哮をあげ、身体を濡らす鮮血と脂を吹き飛ばし、異常増殖を発動させた。
産み落とされた怪人たちが、中にいた怪物の群れに襲いかかる。
死が積み重なった。
芝生の敷かれた広大な庭にも、敷地内を移動するためだけに用意された車の上にも、噴水と池の中にも、引き千切られ、砕かれ、バラバラにされた頭や臓物や手足が――肉塊という肉塊が落ちていく。鳴花の色褪せた記憶が、さらに血で汚される。あのときここに通ったんだ。透というバカを迎えに行くために……。
そんなことをしなければ、あんなやつと仲良くなんてしなければ、こんな目には合わなかった。そう何万回も後悔し、そのたびに一緒に浮かんでくる異色邸の景色。虫が蠢く地下で、異色香澄に拷問されながら、鮮烈に浮かんでくる光景。家族とともに過ごした思い出は、恐怖とともに消え失せたのに、なぜかこの景色だけは消えなかった。
あのとき。
あのとき、あいつを迎えに行かなければ――。
「ガアアアァァッ!」
鳴花は叫ぶ。
血飛沫が敷地を汚すたび、彼女の中に狂的な後悔と怒りが湧き上がる。恋なんてしなければよかった。あんなやつに。あんなやつに。あんなやつに――。あいつのせいで、香澄のせいで、あのとき頬にキスなんかしたせいで、自分の淡い恋心のせいで、すべてがぶち壊れた。
壊れてしまったんだ。
鳴花は叫びながら泣いた。
あいつを殺さなければならない。あの糞女を殺さなければ、とうてい救われない。ほとんどを拷問で費やされた失われた十年も、ぐちゃぐちゃにされた自分の尊厳と魂も、なにもかもあいつを殺さなければ精算されることはないのだ。
許せるわけがなかった。
「異色香澄ぃっ! どコに居やガる!」
血塗れになりながら獣のごとく叫んだ。頭に血が登りすぎていた。狂的な殺人衝動は、ただ異色香澄だけを求める。
真っ赤に染まりきった庭園を駆け抜ける。追従していた分身体の群れがゼリーのように溶けて崩壊していく。分身体を保っていられる限界はおよそ二分半。権能を発動させて、次の権能を発動させるまでのインターバルは九十秒。つまり、分裂はどんなに多くても二回分までしか維持できない。鳴花の強すぎる憎しみは、能力にうまく反映されてはいなかった。
いや、もしかすると神の皮肉なのかもしれない。本来、憎しみを永久に燃やし続けることはできないのだから。
「……ふふっ」
鳴花は立ち止まった。
屋敷の入口に入る直前で、顔に手が生えた小さな異形が現れた。のっぺらぼうの顔に、口だけが咲いて微笑んでいる。その口が、艶めかしく動いた。
「ごきげんよう、鳴花ちゃん。あんなにも我が家の庭を荒らすなんて、相変わらず品性も欠片もないですね」
「異色香澄っ!」
「あはははは、ペットと戯れるのは楽しかったですか? あなた好きですもんね、獣と戯れるのが」
鳴花は狂的な叫びを上げて、異形を粉砕した。踏み抜いた顔面がプレスされた果実のごとく脳髄と肉をまき散らし、入口を赤く赤く染めあげる。
「もう、話の途中ですよ」
潰された脳みそ。潰された肉塊の中に口が咲く。
「相変わらず短気で嫌ですねえ。せっかくお越しいただいたので、私のところまでご案内しようと思ったのに」
「なにヲ企んデやがるテメエ! いイからさっさト出てきテ、大人しク殺さレやがれ!」
「会話する努力をしましょうよ。また耳元でドリルの音でも聴かせてあげましょうか?」
鳴花の肩がびくりと震える。だが、鳴花は目を吊り上げて睨めつけた。
「へえ、強がりにしては立派ではないですか。いいですよ、お入りください。私は、一階の応接室に居ます。ダージリンでも淹れて待ってますよ」
「……」
「では、後ほど――」
叩き潰した。残りの肉塊が完全に粉々に消し飛んだ。
鳴花は扉を蹴り破って、屋敷の中に踏み入った。血走った目を左右に走らせる。室内灯などなく、グリザイユに沈んだ室内は、病的なほどに真っ赤な外の景色とは打って変わって、不気味なほどに静かな淀みがあった。
足を進める。大理石の床。いけ好かない金持ちの屋敷らしく、シャンデリアが天井にぶらさがっている。調度品の壺。豪奢な額縁に入れられた価値が一切理解できない油絵。奥に行けば行くほど、苛立ちが込み上げてくる。自分が地下で虫を食わされていたとき、やつらはこんな華美な屋敷で飯を食っていたのだ。
鳴花は迷わなかった。ここまで来ると異色香澄の気配がはっきりと感じられる。だが、前回の失敗もあるから十分に気をつけなければならない。スズカゼの気配を香澄のそれと勘違いした件だ。また同じような実験体がいないとは限らないし、どんな罠が潜んでいるかもわからない。
「……ちっ」
違和感が拭えなかった。
あの
自分の頭の悪さが憎かった。考えても答えが出てこない。まだるっこしくてイライラする。
「……くそ女が」
――ぶち殺してやる。
廊下の曲がり角に差し掛かった瞬間だった。
声が、聞こえた。
「『Type-Clear』起動――」
「……は?」
鳴花の身体が急激に傾いた。床が接近して、気がつくとうつ伏せに倒れていたのだ。やけに身体が軽かった。歩いている感覚がある。歩いているはずなのに、倒れている。なぜ? 後ろを振り向く。
歩いていた。
鳴花の、下半身が。
ふらふらと二歩ほど動いたそれは、やがて動きを静止して、どちゃり倒れた。そこにくっついていた引きちぎれた腸が、赤黒い血溜まりとともに撒き散らされる。理解が追いつかない。何が起こった? 鳴花は、壁の方に視線を動かし――遅れてやってきた激痛に、爆発的な悲鳴を上げた。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァッ!」
上半身が、内臓を引きずりながらのたうち回る。血溜まりが床に広がり、鳴花の動きとともにカーペットに前衛的な絵画を描き上げていた。痛覚の遮断すら意識から飛んでしまうほどの激痛。焼きごてで内臓をそのまま焼かれるような痛みだ。いや、これまで拷問で味わってきた痛みの記憶が束になって襲ってきたかのような、そんな人知に及ばぬ痛み――。
視界がスパークし、気を失いかけながら、なんとか鳴花は歯を食いしばって痛覚の遮断を成功させることができた。痛みが波のように引いていく。だが、身体は震え続ける。
鳴花は息を荒らげながら、もう一度壁を見た。壁に巨大な穴が空いていた。おそらくはこの辺りの部屋からずっと先の場所から攻撃をされたのだ。異色香澄の権能。『不可視の槍』で――。
だが、その力を使えるものはもう潰したはずだ。あのとき――スズカゼと「Type-Blue」との戦闘のとき、追い詰められた鳴花は切り札の「王の権能」を発動させて、そのすべてを葬り去り、事なきを得た。やはりスズカゼとは違う別の人工殺意がいたのか?
いや、肌で感じてわかる。
この力、オリジナルのそれと何ら遜色がない。
「……ぐっ……くそが」
鳴花は歯を食いしばり、異常増殖を発動させる。この力を使えば、増殖とともにオリジナルの身体も再生する。「守護」の殺意にはさすがに劣るが、凄まじい再生能力をもった力でもあった。
だが、狭い場所で生み出せる分身体には限界がある。鳴花はなるべく分身体を分散させて攻撃地点へと向かおうと考えたが、狭い場所のせいですぐに機動力を発揮することができなかった。
その隙を突くように、「不可視の槍」が分身体を襲う。
機関砲の掃射。そう表現する他ない透明の弾幕が分身体を容赦なく薙ぎ払い、その肉を引き裂いていった。壁が粉々に破壊され、調度品の数々が吹き飛び、絶望的なほどの力で建物が破壊されていく。絶えず轟音が鳴り響き、鳴花は右腕を吹き飛ばされた。
「くそがああああっ!」
逃げる他なかった。鳴花はその場を離脱する。腕の患部を抑えながら肉塊と残骸を蹴散らし、全力で駆け抜ける鳴花の背中を、透明な殺意の槍が容赦なく追いかける。凄まじい衝撃に建物が揺らぐ。壁に無数の穴が穿たれ、豪奢な建物はその原型すらわからないほど破壊されてゆく。
大広間に出たとき、鳴花は足を止めた。
「ドコにいくんデすカ? 鳴花ちゃン」
不気味なほどに高揚した声。
そこに居たのは、醜悪な魔物たちの神と呼ぶに相応しき存在。白い女性の裸体に無数の腕が伸び、出来損ないの千手観音のごとき歪な神聖を放っている。身体は腹部を中心にところどころに膨れ上がり、顔が三つある。一つは蜘蛛の複眼をもつ蜂のごとき顔、もう一つは老婆のごとくしわがれたスズカゼの顔。そして最後の一つは、異色香澄の顔だった。
その左耳にある、鎖のように連なった安全ピンのピアスが、化け物の動きに合わせてゆらりと揺れ動いた。
「……っ」
鳴花は、その意味を理解して絶句する。
つまり、つまりだ。考えられる可能性は一つしかない。
異色香澄は力を取り戻すために……鳴花が倒したスズカゼと融合したのだ。
その悍ましいまでの執念に、怖気が走る。
――本物のマッドサイエンティストだ。この女は勝つためならどんな手段をも厭わない。
「……鳴花チャん。詰めガ甘いンですよ。アナタ、スズカゼの死ヲ確認しなかっタでショ? だかラ、こんな事態になルんでス」
香澄はケタケタと嗤う。
理解不能だった。なぜ、そんな化け物に成り果てたのに嗤えるというのか? 精神構造の一切が理解できず、生理的嫌悪を覚えざるをえない。足が一歩引いた。背筋を這い回る悪寒が止まらない。
「……化け物メ」
「あはハ、アははははははハハははっ。アナタがいいまスか? アナタが!」
香澄は、無数の腕を動かして鳴花に指をさした。
狂気に沈んだ魔王は、赤い目を半月状に歪めて鳴花をあざ笑う。
「殺しテあげまスよ。兄さんヲ奪おウとする蛆虫……。アはははは、ハエの羽音ガうるさくテたまらナいんでス! あひゃははハハハッ!」
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