第十五章 三







 紫音鳴花は走る。


 歯を食いしばり、目を怒らせながら、真正面に視線を向けて。


 一軒家の屋根を踏み蹴り、瓦を粉々に吹き飛ばしながら飛び上がり、ソーラーパネルの屋根に着地してガラスを粉砕。屋根の上を弾丸となって駆け抜ける。びゅう、と耳をなぜる温い風には血の匂いが混じっていた。


 赤色に堕ちた世界。用をなさなくなったパラボラアンテナには巨大な目が見開かれ、瞳が鳴花の動きを追いかけてくる。コンクリートブロックや建物の壁からは無数の口が開いて、洞窟に吹き込む風のごとき唸りをがなり立てている。駆けても駆けても、異常な光景が目の端から消えない。


 世界は醜く変質し、終末を迎えようとしていた。


 正直、世界がどうなろうが鳴花にとってはどうでも良いことだ。翡翠のような崇高な使命感は、鳴花にはない。ただ、復讐があるだけだ。異色香澄さえ殺せれば、この身が朽ち果てようと他人が何人死のうと構わない。どうなってもいい。


 異色香澄の元へ急ぐのは、「王」が産まれたら鳴花の目的が果たせなくなってしまうからだ。すべては復讐のためである。それ以外にはない。


「……」


 翡翠の顔が、ちらりと浮かぶ。あの男は敗色濃厚なのに、殺される可能性の方がどう考えても高いのに、身体を張って敵を引き受けた。異色香澄を倒して、世界を救うために。自分にはない崇高さを持つあの男は、すべてを自分に託してきた。復讐に取り憑かれ汚れきった自分に。


 自分の中にある異色香澄への殺意を信じて、託してくれたのだ。


「……格好つけやがって」


 鳴花は舌打ちを鳴らして、悪態をついた。


 そうだ。あの男はよく分かっている。鳴花がなんの救いも与えなかったこの世界を見限っていることも、異色香澄の殺害以外に生きる目的が無いことも、すべて理解した上で自分を信じてくれた。


 こんな自分をまだあんなふうに信じてくれるものがいるなんて、鳴花には信じられなかった。あの男は協力を持ちかけてきたときも、なんの躊躇もなく仮面を外した。それを見せることは、きっと勇気のいることだったはずだ。どんなに狂気に囚われようとも、自分の醜さを忌避する気持ちだけは消えなかったから、よくわかる。


 ――せめてもの、慈悲だ。その顔だけは治してやろう。


 自分の中にいる「復讐」は、受け入れたときにそう言って、異色香澄によってグズグズに崩された顔を治してくれた。だが、それでも水面や鏡を見ると、あのときの顔を思い出して発狂しそうになることがあった。自分の醜さに耐えられず、血が流れるまで何度も何度も頭を掻きむしった。その恐怖は、異色香澄の怪物じみた笑顔とともに虫のごとく湧いて、鳴花を脅かした。


 だから、わかってしまう。


 あの男は、自分の痛みを理解していると。そして、あの男の精神性が何よりも崇高で美しいものであることも。


「……はっ」


 柄にもない。鳴花は、思った。


 翡翠のためにも勝てねばならないと、頭の端でも思ってしまっている。世界なんてどうなろうが構わないはずなのに――。


 鳴花の目が、唐突に吊り上がった。


 止まる。化け物どもの気配が一気に膨れ上がった。地上から地下から空から――無数の化け物どもが鳴花を殺そうと湧いてくる。


 鳴花は、上下左右に視線を走らせ、牙をむき出すように口を開いた。


「邪魔すんナ雑魚どモがっ!」


 鳴花の肉体が爆発的に膨れ上がり、高速でなった果実のように無数の怪人共が生み落とされ、化け物どもに踊りかかった。


 異常増殖。「復讐」の殺意の権能。


 怪人共は、化け物の肉を巨大な爪で引き裂き、食いちぎり、バラバラに引き裂いていく。悲鳴と絶叫が渦を巻き、血と臓物の雨が降りしきる中を、鳴花は迷わず走り抜けた。


 ――異色香澄を殺すために。







 

「どうした透?」


 ――食べかけのカツ丼。


 透ははっとして、顔を上げた。


 目の前には制服姿の充が座っていた。月見うどんの麺を箸で掴んだまま、怪訝そうに眉をひそめている。学校の食堂。充の後ろには女子生徒たちの集団がいて、充を見ながらひそひそと何かを話していた。どこか遠くの席から、男子たちの品のない笑い声が響く。


 充は騒ぎたてた男子たちを一瞥し、透の右頬を指差しながら小さく笑った。


「ついてるぞ」


「え?」


「ネギ、ついてる」


 透は慌てて頬に指先を当てた。人差し指に長ネギがくっついてきて、かすかな滑り気があった。


「……どうしたよホント。さっきまであんな勢いよく掻き込んでいたのに、急に俯いてぼうっとし始めるし。今日情緒やばめなの?」


「いや、別にそういうわけじゃねえけど……。なんだろ、昨日ゲーム夜中までやってたからかな」


「夜更かししすぎたわけか。飯食いながら寝るなんて子供かよ。よ、十七歳児」


「やかましいわ」


 透がそう言うと、充は快活に笑ってうどんを口に運んだ。麺をすする音がしない。こんな細かいところまで配慮するのだから、人気者のイケメンは大変だなと思う。


 衣がふやけたカツを箸でとり、口に運ぶ。冷めたせいか、やけにモサモサして感じられた。味がしない。なんでこんなにと思ってしまうくらい不味い。


「バカ二人。隣いい?」


 声がした方を見ると、春香と亜加子がいた。


「委員長。今日もお美しいですね」


 ヘラヘラと笑いながら透が冗談を飛ばすと、春香が露骨に眉をひそめた。


「は? 気持ち悪いこと言わないでよ。せっかくの親子丼が不味くなるでしょ?」


「辛辣すぎる。褒めたのに」


「はいはい。泣くふりはいいから、そこの七味唐辛子取ってもらっていいかしら?」


「本気で泣くぞ」


「あはは、透先輩可哀想〜。でも、先輩はかっこいいから大丈夫ですよ! 今日もばっちり髪のセット決まってますし!」


「亜加子〜! お前、ホントにいいやつだなあ……」


「駄目よ亜加子ちゃん。バカを甘やかしたら付け上がるだけなんだから」


「もっとこう、手心というかさ……。人のこころはないんか」


「七味唐辛子取ってくれたら考えてあげるわ」


 透は大人しく七味唐辛子を差し出した。「ありがとう」とウインクしながらつげる春香は、憎たらしくも可愛らしい。


 そう、思った。


 そう思ったはずだった。


 なのに、感情はどこまでもまっさらだった。充の冗談を聴いたときも、まずいカツを食べたときも、春香から辛辣な物言いを投げかけられ、亜加子に気を遣われたときも――言葉と感情が一致しない感覚があった。


 そう答えねばならないから、答えていたのだ。


 歴史を変えることを恐れ、同じ行動を繰り返さざるをえない未来人になったような気分だった。なぜ、そうしないといけないと考えてしまうのかがわからない。落ち着かなかった。春香たちの談笑を、笑いながら心の底では冷たく見ている自分が信じられない。


 ああ、わかってしまう。


 あと数秒で亜加子が、水の入ったコップを倒す。


「わっ! ご、ごめんなさい充先輩!」


 亜加子のコップが充の方へと倒れ、ズボンが水浸しになっていた。「いいよいいよ」と落ち着いた様子で充はハンカチを取り出し、濡れた部分を抑える。「あらら、それじゃ足りないわよ。ちょっと待ってなさい」と春香が食堂の側にある用務室にタオルを借りにいく。


 そして、透が下らないことを口にして二人から顰蹙を買うのだ。「おもらしか、十八歳児」と。


「……」


 だが、透は初めて見えない義務感に逆らうことができた。意志と身体が初めて結びついた感覚に、まっさらな頭が晴れていく。


 ――ああ、俺が俺になった。


「……わりい、先に教室に戻ってるわ」


 充と、その側に駆け寄っていた亜加子がポカンと口を開け、お互いの顔を見合わせた。


「……え、戻るんですか?」


 この状況とタイミングで?と言いたげに、亜加子は目を瞬かせる。充は濡れた服を拭くことさえ忘れて心配そうだった。


「……お前、ホントに大丈夫か? さっきから様子がおかしいぞ」


「大丈夫。ちょっと気分が優れないだけだから」


「なら保健室に行った方が」


「大丈夫大丈夫。そんな酷いわけじゃねえし、机に突っ伏してちょっと寝れば元気になるよ」


 透はひらひらと手を振って食堂を後にした。校舎へと続く外廊下へ出ると、灰色の雲が空を覆っていた。雪が降っている。水墨画のごとくやけに淀んだ雪。なのに、自分はなぜか半袖のシャツを着ていた。季節感がズレている。なぜ、寒く感じないのか。


 おかしい。


 なにかが、おかしい。


 透は外廊下を早足で歩き、校舎に入る。すれ違う生徒たちの存在感が影のように薄い。教室に近づけば近づくほど、じわじわと光景が赤みを帯びていく。まるで写真が劣化していく様を高速で再生しているかのように。おかしい。確実になにかがおかしい。


 だのに、透の足は止まらない。戻ったはずの自分の感覚がいつの間にか離れていた。こわい。なんで、言うことを聞かないのか。そこに近づいてはいけないと心はアラートを鳴らし続けているのに、止まれない。


 窓に、無数の目が咲いた。廊下の壁に無数の顔が現れて念仏のような何かを唱え始める。天井にいくつもいくつも手が生えて、透を掴もうと伸びてくる。ガタガタと透の歯が音を立てる。恐怖で過呼吸を起こしそうだった。


 教室についた。


 扉の前に立つ。


 ――やめろ。


 頭の中で叫んだ言葉は、やまびこよりも虚しく反響するだけだった。何も及ぼさず、何も齎さず、何も反しない。


 手が、引き戸にかかった。


 ――開けるな。そこを、開けたらいけない。


 だが、身体は勝手に動いた。


 開けた先には変わらぬ教室があって、桜南が座っていた。彼女ただ一人で、静かに本を読んでいた。彼女の黒髪は、開いた窓から吹き込んだ柔らかい風に揺蕩い、美しく空をそよぐ。ああ、綺麗だ。キラキラと輝く陽光が、彼女を祝福している。


 桜南は透に気づくと本を閉じて、ゆっくりと顔を向けてきた。その表情は、秀麗極まる光の中で悲しげに沈んでゆく。透は、そんな彼女の痛々しい表情を見ていられなくなって横を向いた。


 向いてしまったのだ。





 母親殺し!!!!





 でかでかと、白いチョークで、黒板にそう書いてあった。


「――」


 母親殺し。母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し母親殺し。


 頭が一挙に埋め尽くされる。


 その文字の下には、幼稚園児が描き殴ったような下手くそな絵があった。頭をつぶされ、赤い血を咲かせた母親の絵。おめでとう、と小さく書いてある。ヒーローになれてよかったね。妹を犯して気持ちよかった? 逃げられると思うな。はんざいしゃ。れいぷまのさつじんき。親友のあたまは柔らかかったね。気づいてたくせに。おとこからこういを向けられて、キモチワルカッタね。


 いま、幸せ?


「あ――」


 透は膝を折って、身体を震わせる。


 そこには、すべてがあった。透のすべてが。目を逸らし、記憶をなくしてまで逃避し、見て見ぬふりをし、仕方なかったんだと言い聞かせてきたものすべて。


 透の目から涙が溢れ出す。ぼろぼろと、こぼれ止まらないまま、声を上げることもできずに桜南を見ると、彼女が小さく微笑んで言った。


「幸せになれるわけないでしょ。気持ち悪い」









「ああああああああああああああああああああ……ああああああああああああ……ああああああああああああああああ……!」


 獣のごとく慟哭をあげたのは、ヒーローだった何かだった。


 己の罪と醜さに耐えられず、生真面目で強がりな少年は粉々に砕かれ壊れた。


「……ふふ」


 そんな破滅したグロテスクな存在に、寄り添うのは彼が犯した過ちの象徴。


 香澄は、仄暗い闇の中でひとり笑う。


 四肢を食い千切られ続けていることにも気づかず、発狂する愛しい存在に寄り添いながら。




 

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