第十五章 二





 闇の中に落ちる。


 金渡七雲かなとなぐもと一緒に、落下していく。


 うなじに金渡の息があたる。生暖かい中年の吐息は、ミントの香りを漂わせるマウススプレーではカバーできない独特な臭さがある。歯の黄ばみが見えなくても想像できた。しかも、たまに鼻を押し付けて匂いを嗅いでくる。最悪ってやつだろう。燃やしてやろうかと思ったが、なぜか上手く権能を発動できない。


 落ちた。


 ばしゃん、と水の中に入ったような感覚があり、それはすぐに硬いアスファルトへと変わった。手をついていた。地面の亀裂。首のないネズミが走り抜けて壁の穴に消えていく。ドス黒いペンキをそのままぶつけたようなシミが壁にこべりついている。乾いた血だ。天井まで続くそれを目で追うと、シャンデリアのようなものがぶら下がっているのが見えた。


 いや、あれはシャンデリアではない。


 ――拷問器具。


 そして気付いた。部屋の隅に対照的に配置された複数の椅子に、血にまみれ腐りかけた、あるいは白骨化した死体が座らされている。すべてその口には何やら肉片が――おそらくは男性器が――突っ込まれ、両目には薔薇の花が活けられている。


「いらっしゃい黒木。私の秘密の愛の巣へ」


 金渡は、粘り気さえ感じられる喜色に満ちた声を発した。若干息が荒いのは、興奮を抑えきれないからか。


「なんだ、こんな秘密基地持ってたんだ。男のロマンだね。パワプロでもして遊ぶかい?」


「あいにくここにはゲーム機がないんだ。それに、課外授業だと言っただろ? 遊んでいる暇なんてないよ」


「それは残念だね」


 ちっとも惜しんだ様子もなく、「不条理」は肩をすくめる。


「で、世界史の課外授業ってなんなのかな? インディー・ジョーンズよろしく遺跡発掘でもするつもりかい? それとも、拷問器具の歴史でも学ぼうとでも?」


「それもいいかもなあ。実践も含めた体験的な学習になるだろうからな。いい思い出作りになるよきっと」


 どうせ殺すつもりなのに何言ってるんだろう。「不条理」はそう思ったが、面倒な地雷を踏みそうだからやめておいた。


「……で? どうして裏切ったの? こんなことしたって、どうせ聖母様から殺されるから無意味だと思うけど」


「おいおい、無意味なものか。お前と違って、私は諦めが悪いんだ。生き残る可能性が一ミリでもあるならそちらに賭けようとでもいうものさ」


「……生き残る可能性?」


 「不条理」は首を捻った。心底意味がわからない。生き残る可能性なんてゼロに決まっているのに。


 金渡が憐れむような眼差しを向け、一笑してきた。 


「わからないのか? このまま何もしなければ殺されるだけなんだぞ。最初からすべて諦めてどうする」


「いやいや、勝てるわけないでしょ。相手見て言いなよ」


「それは分からないだろう? どんな事柄にも絶対はないんだ。戦争において絶対に勝てないであろう状況を覆した例は歴史上いくらでもあるじゃないか。最初から諦めていたら、なんとかって漫画じゃないが、それこそ試合終了だろ?」


「少年漫画の主人公みたいなことを言うじゃないか。変態のくせに」


「それは光栄だな。近親相姦女インセストガール操り人形マリオネットよ」


 手を広げてけらけらと笑う金渡は、酔いしれているように見えた。少年刑務所時代にみた薬物乱用の映像教材を思い出す。薬物を接種したラットが挙動不審の末に天を見続けて動かなくなる実験映像だ。ラットの鼻だけが異様にひくついているのが印象的だった。目に見えない甘やかななにかに陶酔するかのごとく、そこには透明な快楽が横たわっている気がした。


 金渡もそれと同じだ。溶けかけた飴細工のように濡れた瞳を天井に向けて、鼻腔を開いたり閉じたりしている。薬物でもキメているのだろうか。そういえば鼻先が少し赤い。鼻から吸引したら、ああなると聞いたことがある気がする。


 金渡がジャンキーかどうか、そんなことに思考を割いている場合ではないか。「不条理」は思い直し、変化した自身の左半身を見やった。


 さっきから権能を出そうとしているのに、なぜか炎が出ない。時間稼ぎして様子を見てみたが、どうやら時が解決する問題でもなさそうだ。腹部を貫いた剣。これのせいだろうか。


 抜こうとした。だが、巨大な大根を抜こうとするかのように身体から離れない。


「無駄だよぉ。そいつハなあ、私の意思じゃナいと抜けなイぞぉ」


 金渡の声が歪む。肉が膨らみ、スーツを内側から引き裂くと、巨大なベージュ色の風船と化して、やがて収束した。


 魚の鱗に覆われた女性の裸体。


 自らの胸を愛撫し続ける白い四本の腕。


 苦悩の梨という拷問器具を思わせる裂けた頭部。


 明らかに異質な化け物。すべての人間の内から垢のように零れ落ちた生理的嫌悪感を、少しずつ集めて形にしたら斯様なものが出来上がるのではないか。感情がない「不条理」ですらそう思わせられるほどに、理解を超えた不吉な存在だった。


 首元には金渡の顔があった。その両目には薔薇が咲き誇り、妖しく微笑んでいる。まるで誰にも理解されない快楽に溺れているかのように、自己陶酔の粋がそこには視えた気がした。


 たぶん、こういうときに言うのだろう。


「きもちわるっ」


 化け物の全身の目が、見開いた。


「分からナいかナァアア、分かラないだろうナアア! オマエはまダ若いカラ。若イから、この素晴らしサには気づかナイだろう! 若さとハ青さ。新鮮ナ、果実のよウに、喰らいたくナる水々しサ! あア、そノ健康的な筋肉に、イマスグ歯を立ててヤりたい!」


 若いとか若くないとかそんな問題ではないが、面倒そうなので「不条理」は突っ込むことをやめた。自然と溜息がこぼれた。そのことに驚きはない。


「……とんだ課外授業だね」


 苦悩の梨みたいな頭から、無数の笑いが反響して響いていた。とんでもなく煩くて臭い。こんなやつに玩ばれた可哀想な青少年たちに、心があったのなら同情してやれるのか。きっと、そうなのだろう。こんな状況でも、やはり「不条理」は空っぽのままだった。


「ナゼかって? お前ををを攫ったのガ、なぜかってえエ!? 与えてヤりたクなったンダよおおっ! 僕ハ人形でスって顔をして歩いていルお前にい!」


 イカれた化け物は、聞いてもいないのにそう言って、一人絶頂を迎えたような顔で嗤う。


「魚ノ取り方じゃナくテ、魚をナあ! 感情とイうものガなにか、私がワタクシが、オレガ、僕が、教えテやる! 教えてヤる! ヤりながら教えてヤるよおおおおおおおっ。恐怖と喜ビを、その身についた皮ヲ一枚いちマい剥ぎながラ、ゆっくりじっくりとっ」


 ――快楽に溺れさせてあげるねっ。


 化け物の言葉に、「不条理」は肩をすくめる。


 どいつもこいつも救いようがない。








 「不条理」の分断は済んだ。


 翡翠は桜南からの信号を受け取り、目を細めた。桜南から渡された二つの血の結晶。そのうちの一つが液体に戻り、包んでいた布を赤黒く染め上げている。


 強烈な風が、身体を叩いていた。流れ行く灰色の霧は、この世界の濁りきった雲。翡翠が座していたのは赤黒く染まったレシプロ爆撃機の上――コックピットの後方だ。その座席の内部には黒い霧状の人影が座して、同乗を拒否している。


 爆撃機の形状は、大日本帝国海軍の一式陸上攻撃機に似ていたが、形状が酷似しているだけで異質なものである。「反逆」の中にある闘争の記憶。その中から再現されたものに過ぎない。彼にとってより強く残った印象が反映されているとはいえ、空白部分が画家の想像で補完された宗教画のごとく、少しずつ曖昧で少しずつ独創的だ。


 そしてなにより、これは「殺意」の権能である。


 兵装再現。


 それが、「反逆」の殺意の力。所詮は魔物の力で模られた偽物でしかない。


「……」


 後ろにいた鳴花が、肩を強く掴んできた。なぜ操縦席に乗れないのかと無言の抗議してきているようだった。翡翠は軽く手を振って、諦めろと合図を送る。振り払われないよう、身体を固定する器具を新たに造っているのだから文句を言うなと言ってやりたかった。鳴花の舌打ちが聴こえた気がした。風で消されて聴こえないが。


 翡翠は懐から懐中時計を出して、時間を確認した。


 ――そろそろか。


 人差し指を上げ、下に向ける。目的地は近いと鳴花に合図を送ったのだ。


 その時だった。


 何かが機体を掠めた。いや、左翼に小さな穴が空いている。上方から攻撃を受けた。機体が回避運動を取り、視界が急速に動く中、翡翠は敵影を見逃さなかった。


 怪鳥の群れ。飛行能力を有する「殺意」の集団に攻撃されたようだった。無数の針のようなものが飛んできている。


 翡翠は爆撃機を旋回させる。怪物たちが追ってくる。速い。レシプロ機のスピードでも振り切れない。凄まじい暴風にさらされ、高速移動の振動に身体を激しく揺さぶられる。身体が機体に固定されているとはいえ、人間を超越しているからこそ意識を保っていられるのだ。そうでなければ息さえもままならなかっただろう。


 舌打ちをしたくなる。


 ――やはり読まれていたか。


 翡翠が己の存在をギリギリまで隠していたのは、異色香澄に権能を悟られないようにするためで、空からの強襲を当初から想定していたためだ。だが、権能を見られてしまった以上、異色香澄ならば能力の本質を見抜いてくる可能性は十分に考えられた。だからこそ全勢力を集中しての空からの奇襲という計画を断念し、桜南とは別行動をとり、異色香澄の戦力を分断させることに努めたのだ。


 それが結果としては、凶とならずに済んだ。


 だが――。


 翡翠は右手の人指し指を立て、空を切るように振った。


 突如、爆撃機を追っていた化け物たちから血飛沫があがる。悲鳴を上げて錐揉みしながら落ちていく化け物たちのあとを横切ったのは、戦闘機――零式艦上戦闘機に似た機影だった。


 六機のレシプロ戦闘機。それが、爆撃機の群れを守るように飛び回って化け物たちとドッグファイトを繰り広げる。雷が落ちたような轟音が絶えず空を狂わせる。二十ミリ機銃の強烈なマズルフラッシュが、イカれた蛍のごとく明滅を繰り返し、天の怒りと言っても過言ではない激烈な光景が展開された。血を吹き出し、叫び、空に肉片を撒き散らす化け物たち。


 翡翠の身体が、内側から軋んだ。ギシギシと音をたて痛みが増してゆく。能力を使って攻撃を繰り出すたびに、翡翠の肉体を反動が襲うのだ。通常兵器では殺せないはずの「殺意」に通用する近代兵器の具現化。そんな強大な力をノーリスクで使えるほど、神は寛容ではないということだ。それに、翡翠は中途半端に顕現した成りそこないである。本来、「上位者」の力に耐えうる身体を持ち合わせてはいない。


 苛烈さを増す痛みに耐えながら、翡翠は指を切る。空中の戦局をできる限り把握し、戦闘機に効率的な指示を出しながら、さらにその先の展開を見極める。


 もはや爆撃に大した意味はなくなった。能力を見られてしまった以上、異色香澄が遠距離攻撃の影響が少ない場所に避難することを翡翠は当然想定していたし、元々上空からの強襲で異色香澄を殺せるとは思っていなかった。事実、桜南からの情報によると本命は地下にいるとのことだ。


 異色邸の周囲にいる敵の掃討と撹乱――それが主たる目的だった。また、飛行機による接近が最も理にかなっているからでもあった。だからこそ、異色香澄に読まれたともいえるかもしれないが、結果としては最も接近できてはいる。だが、こうして爆撃を読まれた以上、爆撃の有効範囲にはまず接近できないし、異色香澄がもっとも重視する戦力……人工殺意は地下に隠されてしまった可能性が高い。


 つまり、空からの接近を諦めて降りてきたところを狩られる公算が大きいと見るべきだ。ならば、鳴花や桜南を活かすためにも自分が――。


「――おいっ!」


 轟音鳴り止まない中で、懸命な鳴花の叫びをたしかに聴いた。肩を揺さぶられ、反射的に上をみる。


 翡翠の目が見開かれた。


 ――翼。


 意識のすべてが埋め尽くされるほどに、視界を覆っていたのは翼だった。凄まじい勢いで滑空してくる巨人。Type-RED。赤坂亜加子を模した人工殺意。その背中にある天使の翼。音が消えた。世界から色が失せる。圧縮する時の中で、五体の巨人はたしかに嗤う。嗤っている。包帯で覆われた内側で――。


 完全に、虚を突かれた。


「――」


 爆撃機が機体を傾ける。だがもう間に合わない。直掩機も遠い。


 翡翠は、固定を解除して鳴花を突き飛ばした。


「先生っ!」


 鳴花が叫ぶ。 


 瞬間、爆撃機に悪魔が踊りかかった。まるで紙切れのごとく引き裂かれ、爆発した機体から翡翠は投げ出された。辛うじて直撃は避けられたが、爆発の衝撃が容赦なく翡翠を痛めつけた。血を吹き出しながら、翡翠の身体はくるくると宙を踊る。明滅する意識。だが、気合いで目を見開くと、喉が引き裂けんばかりの激を上げた。


「いけっ、紫音! 奴らは俺が引き受ける!」


 遥か先を落ちる鳴花に届いたかは知らない。だが、それでもいい。やつなら、何も言わずとも異色香澄を殺しに行く。それだけのために生き抜いてきたようなやつだから。


 悪魔たちが、旋回する影が視界の端に視えた。


 翡翠は落ちながら、全身から血を吹き出しながら手を翳す。


 背後の空間から、無数の砲門が花開いた。


「来るがいい……! 化け物ども!」


 ――ケジメを、つけてやる。




 

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