第十五章 一
「幸せになれねえからだ。――人を殺したやつはな、幸せになってはいけないんだよ」
透がそう吐き捨てて、ボードゲーム部から出ていった。勢いよく閉められた立て付けの悪い引き戸は、ガタガタと揺れ動き、やがて息を止めるように静まり返った。
遠くから運動部の掛け声が柔らかく響いていた。斜陽は思ったよりも深まっていて、室内は暗く焼けている。透の憤慨によって散らばったオセロの石は、黒ばかりだ。白が影に炙られて黒いからか。
桜南は、ふうっと息を吐き出す。
「……幸せになれないから、か」
ひどいことを言うものだ。それは、桜南の道を閉ざす言葉でもあるのだから。これまで積み重ねてきた屍は数えきれないほどに積み上がっている。背後にあるのは常に重たい罪だった。そのドス黒い闇を知らないくせに、よく言える。
なにも、知らないくせに。
「……私は、幸せになったら駄目なのかい?」
虚空に問いかけても、返事はない。
桜南は唇を噛み締めて、オセロの石を拾い始めた。一枚一枚拾う。まるで罪を数えているようだなと思えた。
わかっている。
きっと透の言うとおりなんだ。桜南は幸せになってはいけないのだろう。人並みの幸せを望む権利なんて、良心と一緒に削られつくしている。もう、取り返しがつかないんだ。引き金が軽いと感じたとき、血を見ることがパンに塗られたジャムを見る感慨と変わらなくなったとき、いや、もっと最初に人を殺したとき。もう、忘れた。忘れてしまった。夢にさえ見ない。
鈍麻していた罪への意識。
それを、強く認識するようになったのは透のせいだというのに。奪い続ける人生に疲れていたんだと、気づかせたのはあなただというのに。
あんまりじゃないか、幸せになれないなんて。
なんて酷い、悲しい皮肉。
「私は、祈っているのにね」
拾いあげた石は、夜の帳を映し出す白。
駄目なのか?
人を殺した人間の幸せを祈っては。
祈りは殺し合うことでしか届かない。
惨劇が、終わらないからだ。
異色香澄を殺さないかぎり。
「……」
桜南は一人駆けていた。
人外と化した桜南の速度は風に等しかった。流れゆくビル群は印象派絵画のごとくぼけて一瞬で消えていく。屋上を蹴り、壁を蹴り、看板を吹きとばし、走り抜ける衝撃で窓ガラスが割れる。だのに音がしない。音を消し去る暗殺の力が、桜南の疾駆に静謐を与えた。
身体中がズキズキと痛む。「絶望」の殺意の力が、消して癒えない深刻な傷を刻んだためだ。悪魔の力の代償は確実に桜南を蝕んでいく。だのに、「暗殺」の力だけが以前よりも飛躍的に向上していた。
見える世界が、赤いせいだ。神の復活が近づく中で、桜南の権能がそれに引っ張られる形で力を増しているのだろう。薄皮一枚むいた世界の醜さを知った瞬間に、進化する。もはや狂気としか言いようがない。
壁を蹴り飛ばした瞬間、悲鳴があがった。壁に咲いた口が鳴いたのだ。ピカソのゲルニカを見ている気分だった。壁中に、目や口がある。
桜南は舌打ちを鳴らす。
こんなところに、異色香澄は楽園を視ているというのか。あのイカれた女から、なんとしても透を救い出さないといけない。
さらに加速する。風に身体が溶けるかのようだった。軋み続ける身体の痛みは、際限なく動かされるエンジンの悲鳴にも似ていた。身体はただ目的地へ動く。異色香澄がいる、異色家の邸宅へと。
「……」
なぜ、異色香澄の居場所が分かるのか?
それは、桜南が透の脳内に自分の血を仕込んでいたからだ。あのショッピングモールへと逃げたときに、眠っている透に対して保険をうっておいた。血を操る能力をもつ桜南には、操るべき血の場所が知覚できる。ましてや、己の血となればかなり高い確度で把握できた。数十キロ先の乾ききった自分の血の場所までわかるくらいだから、透の場所などすぐに補足可能だ。
翡翠も、桜南のそうした周到さを見越していたようだった。桜南なら、透を攫われたときのことも考えて必ず保険を打っていると。その信頼と慧眼には感服する他ないが、翡翠に読み取れているということは異色香澄にも見透かされているということだと考えざるを得ない。
おそらく異色香澄が異色家の邸宅に潜んだのは、逃げるのをやめたからだ。桜南が透の脳内に血を仕込んだのは、異色香澄から容易に取り出されないようにするためだ。あの女のことだから、そのことにも気付いただろう。透と離れるという選択は、あの女の性格上考えられないから、逃げるよりも待ち構えることにしたと考えられる。あの女には、こちらを凌駕する圧倒的な戦力がある。まとめて片付けることにしたのだろう。
最後の戦いが近づいていた。
正真正銘、これが最後の生き残りをかけた戦いになる。
どんな手を使ってでも勝たねばならない。翡翠が言ったとおり、今度こそかならずケリをつけねばならない。
血が、昂ぶっていた。
ようやくだ。ようやく、あの女を殺せる。あれが死なない限り、透は己が己に課した呪縛から解き放たれることはない。
桜南が、オフィスビルのガラス張りの壁面に着地した瞬間。
凄まじい勢いで、窓ガラスが破裂した。内側から爆発したのだ。
「――」
桜南は辛うじて飛んでかわした。爆発の正体は無数の触手。窓ガラスを突き破り、空気を引き裂きながら桜南へと迫る。先端に刃物――。
切っ先が頬に触れた瞬間、桜南は回る。頬肉を浅く削られた。空中で回転しながら左腕に血の盾を展開。二撃目の触手が盾を弾き、腕の骨が軋んだ。重い痛みを感じながら吹き飛ばされた桜南は、建物の屋上を幾度も転がり、体勢をたてなおす。
視線が走る。右。六本の脚が生えた犬のような化け物が、あぎとを開いて噛み砕かんと肉薄してきた。桜南はわずかに身体を引いてやり過ごすと、左手に血のナイフを形成し、化け物の脳天に突き刺した。
断末魔は余韻を残さない。引き抜いたナイフを、化け物の血を利用して長槍へと変化させると間をおかず投擲した。襲いかかってきた翼の生えた怪物が、叫びを上げて錐揉みしながら落ちてくる。もがき苦しむ化け物に突き刺さった長槍を爆発させて、砕けた肉塊へと変えた。波打つ小腸の美しさに浸る間もない。
新しい血のナイフを形成し、辺りを見渡す。
数えきれないほどの赤い目に囲まれていた。異色香澄の支配を受けた下等種の「殺意」たち。おそらく百や二百ではきかない。あの女の力も間違いなく向上している。
「久しぶりだね狼ちゃん」
化け物の背中に、「不条理」が乗っていた。ひらひらと手を振りながら、伽藍洞の黒い瞳を桜南へと向けている。
その後ろにも誰かがいた。この場には似つかわしくない、糊のきいたネイビーのスーツを着こなす壮年の男性。たくわえた口髭を撫でながら、品定めするように桜南を見下ろしていた。
翡翠の情報が正しければ、おそらくあれが「快楽の殺意」だ。上位者二人と化け物どもに包囲されるという、考えられる事態の中でも最悪といってもいい状況。
「オヤ、ヒサシブリジャナイカ。カミュモドキ」
「初手から煽るなんて元気なんだね。消える前の灯火にしては、なかなか明るそうだ」
「ハハハ、ソレハドウモ。アイカワラズ、アヤツリニンギョウニシテハ、ベンガタツネ」
桜南は肩を竦めながら余裕を見せつける。緊張を悟られてはいけない。翡翠の手筈通りなら何の問題もない。
信じろ、翡翠を。
「……ふうん、状況わかってないみたいだね。君は君の彼氏と違ってもう少し頭が良いのかと思っていたけど。せっかく気配を消す力を持っているのに、こんな堂々と接近してくるなんて、見つけてくださいと言ってるようなものだ」
「……フン」
「なにがおかしい?」
「アノオンナノコトダ。メボシイルートハ、ゼンブツブシテイルカ、メヲヒカラセテイルダロ」
「まあ、たしかにね。だからって、こんな堂々とわかりやすい方法で来ることもないだろ?」
「ラシクナイナ。シンパイシテクレテルノカ?」
「まさか。これから死ぬ人間の心配をするほど非生産的じゃないよ」
まあ、そんな感情はもともとないんだけどね。
「不条理」はそう言って、手を広げる。化け物たちがそれに呼応するように大呼をあげた。空気が破裂し、ビリビリと震える。生暖かい殺気のこもった風が、桜南の身体を撫ぜた。
桜南はナイフを天に突き出す。
「バカハ、オマエラダ」
――私と翡翠が、無策で突っ込むわけがないだろ?
その瞬間、上空で何かが爆ぜた。「不条理」と「快楽」が天を見上げ、目を見開く。隕石のごとく巨大な血の塊が破裂したのだ。それは赤い雨へと変わり、無数の刃へと変質を遂げ、一斉に化け物たちへ襲いかかった。
次に空気を震わせたのは、化け物たちの絶叫だった。血が血を呼び、叫びが叫びを呼ぶ。舞い上がった大量の血飛沫で、赤い世界の空気がさらに錆びついていく。
「やるじゃナい。気づかナかっタよ」
「不条理」は身体を半分変化させ、降り注ぐ死の雨を炎で防いでいた。焦げ付いた臭いが鼻腔を障る。
桜南に動揺はない。こんな小手先の技で「上位者」をやれるわけがないと分かり切っているからだ。これで殺せるのなら苦労はしない。目的は別のところにある。
桜南は目線を「快楽」へと走らせる。男は炎の傘の下で、悠々と口角を吊り上げた。
「なあ、黒木」
「なにかナ?」
振り返りもせず、「不条理」は男に聞き返した。
「課外授業をしようじゃないか」
「ハ?」
「だから、課外授業だよ。これから私と授業をするんだ」
「なにヲ言って――」
「不条理」の口から、血が噴き出した。彼の見開かれた目が腹部へと向けられる。
そこには、長剣が突き刺さっていた。背中側から貫通したそれは赤黒い血を滴らせ、艶めかしく輝いている。
「……どういウ、つもりカナ?」
「見ればわかるだろう。私はまだ死にたくないんだ」
「快楽」はニヒルに笑って、長剣を捻った。「不条理」が咳き込みながら血を撒き散らす。男の口角がさらに醜く歪んだ瞬間、その背後の空間に亀裂が走り抜けた。黒い、あまりにもドス黒い亀裂が。
「さあ、行こう。私と君の愛の巣へ」
男と「不条理」の身体が、その亀裂へと引っ張られていく。男はその空間へ消える寸前に、桜南を見て言った。
「あの男に言っておいてくれよ。約束は必ず守るようにって」
桜南は答えなかった。
二人の身体は完全に亀裂の中に飲み込まれ、割れた空間ごと消失した。化け物たちの呻きだけが残る。ナイフを前方に構えると、死の雨で殺しきれなかった化け物たちがわらわらと出てきた。
「……翡翠を信じてよかった」
つぶやいて、小さく笑う。
「上位者」の一人に工作をかけたと言われたときには度肝を抜かれたが、翡翠の工作員としての手腕は本物だ。「快楽」は異色香澄へ消極的な不満を持っていたらしい。そこを見抜き、「鏖」が本格化する前から取引を持ちかけて協力者に変えていたそうだ。
やつに与えられた役目は、「不条理」の分断と妨害。それが果たされたいま、かなりの部分で桜南の負担は減ったといっていい。異色香澄が一番警戒しているのは「絶望」の力をもつ桜南だ。桜南を潰すための戦力として、「上位者」をぶつけてくる可能性が高いことは予想できていた。だからこそ、あえて目立つ動きをとって桜南の方へ多くの戦力を集中させた。
翡翠と、紫音鳴花を活かすために。
「……さて」
そろそろ一分――。
化け物たちが咆哮をあげた。桜南に襲いかからんと言わんばかりに、殺気を漲らせた瞬間。
桜南が、自身を覆う血のドームを展開した。
「ビンゴだ」
巨大な炸裂が、膨大な轟音と衝撃となって建物を揺らした。化け物たちの悲鳴。見えずともたしかに感じられる血飛沫と肉片が飛び散る気配と匂い。喉が焼ける爆発の熱――。
長距離砲による砲撃。
血の隕石の破裂。その本当の目的は、翡翠への合図だった。
炸裂弾による膨大な衝撃はしばらく続いた。醜い悲鳴が聴こえなくなったところで、桜南は血のドームを解除する。
焼けるような熱と、焦げた匂いが風とともに桜南を叩いた。焼けただれ、破壊されたコンクリートの建物は、ミミズでも張り付いているかのような赤い残光を光らせ、湯気を立てている。壁が悲鳴をあげていた。口が踊るように開かれ、目が血走り泣いている。
吹き飛ばされた化け物たちの骸は焼け焦げ、ところどころ消し炭となっていた。半分だけ炭化した引きちぎれた臓物が、桜南の足元に転がっている。脂臭い刺激臭は、怨念のごとく感じられた。
恨むなら飼い主を恨め。
「……」
桜南は、爆発の惨状からそうそうに視線を外して飛翔した。
急がねばならない。
産まれる前にやつを殺さないと、すべてが終わる。
人外は再び風となった。
すべてを、終わらせるために。
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