第十四章 いしきのかじつ 終
うふふ。
ねえ、あなた。
これから墜ちていって。
私の、中に――。
兄さん。
虫が、あなたを呼んでいるの。
だからね、私はあなたを化け物に変えて、虫の声を聴こえなくするんです。そうしたら、あなたはどこにもいかないで、私と一緒にいてくれるでしょう?
これから、薬で眠らせたあなたに黒い虫を入れます。黒い虫は、私の一部なんですよ。嬉しいです。あなたと私が混ざり合うみたいで。ああ、天使の羽根が千切れていきます。ぶちぶち、ぶちぶちって。血の匂いとともに、羽根が桜の花びらみたいに舞うんです。
うふふ、兄さん綺麗ですね。黒い虫が、ほら、あなたの耳の中に入っていきます。脳に混ざって、あなたは「殺意」となるんです。守るために人を殺す。そんな傲慢なヒーローにあなたは成れるんです。よかったですね。これからは、玩具の剣を振り回さなくてよくなるんですから。
あはは。あなたの翼はもうありません。あなたに与えた力はね、特別なんです。あなたは何度だって治り続けるんですから。何をされてもどんなことが起こっても、あなたは安全でいられるんです。本来、選ばれた力は別だったようですが、無理やり上書きしました。十の「上位者」の内の二柱が、あなたの中にいるんです。素晴らしいですね。
あとは、あなたが誰かを殺すだけ。あなたの中には、「守るために殺す」という抗いがたい衝動が生まれることでしょう。正義はいつだって暴力によって執行されるんですよ。もし、目の前で大切な人が殺されそうになっていたら、あなたはきっと加害者を殺すでしょう。
ねえ、兄さん。
私を、守ってくれますよね?
あなたは私のヒーローなんですから。
私は母様に薬を盛り続けました。
父様から一切相手にされず、精神が不安定になっていた母様を欺いたのです。しかし、欺くにせよ、母様は私を毛嫌いしているので聞く耳を持たないでしょう。
だから薬は、人の良い錫風にもっていかせました。母様は錫風のことを気に入っていたので、錫風の説得に応じ、薬を飲み始めました。
きっと、薬を処方したのが父様であることを伝えたのも良かったのでしょうね。たしかに、父様が用意したものなのは間違いないです。でも、そこに妻に対する血の通った気遣いなんてありません。
そんなこと露と知らず、母様はご機嫌でした。まったくもって滑稽で可愛らしい。愛されてなんていないのに。一途で、無知で、羨ましいかぎりです。
父様が処方した薬は、向精神薬と少量の麻薬を混ぜたものでした。まともな薬ではありません。それを飲み続けた母様は、最初だけ元気を取り戻しましたが、少しずつ少しずつ精神のバランスを崩しはじめました。突然泣き始めることも多くなり、周りのものに当たり散らしていましたね。「明さんはどうして構ってくれないの!」と叫んでいるところを見たこともありました。
父様と私の思惑通り、彼女は狂い始め、生贄としてだんだんと完成に近づいていきました。
ねえ、母様。
あなたは哀れな羊だったんですよ、最初から。清澄に目をつけられず、あまつさえあんな男に好意を寄せなければ、あなたはもっと幸せでいられたでしょうに。家畜はきっと、自分のことを家畜だとは思わずに生きているでしょうから、仕方ないことなのかもしれませんが。
母様の気狂いは、日に日に酷くなっていくばかりでした。周囲のものたちも気に入っていたはずの兄さんや錫風さえも、母様は遠ざけるようになり、半ば引きこもりに近い状態になっていったのです。
周りのものたちは母様の異変を訝しみ、薬に原因があるのではないかと疑いはじめたようでした。父様の弟で、緑川家の当主である兼貴叔父様も、義理の妹である母様の様子をいたく心配していました。父様に再三、薬が合わないようだからやめさせるように、母様をもっと労るように苦言を呈していたようです。ですが、そのときにはすでに手遅れでした。
もう、始まっていたのですから。
「……」
私は、母様の枕元に立っていました。天蓋の付いたベッドで眠る母様は、やせ衰えたアフロディーテとでも言うべき醜悪な容貌でした。死人のように青白い肌。こけた頬。落ち窪んだ眼窩。炭を塗ったような隈。美しかった彼女は、死んでしまったようですね。
でも、思わないでしょうね。
これから、本当に死を迎えるなんて。
私は天井の隅にあるカメラを見ました。赤く点滅しています。ほんと、悪趣味な男。でも、許してさしあげますよ。いまは、なにより愉快ですから。
顔が緩んでいることに気づいて、私は頬の筋肉を引き締めました。後ろ手に持った錆びた金槌を、くるりと回して。
一年。
一年ですよ。
あの害虫を排除して兄さんの翼をもいでから、それだけの月日が流れたのです。背中がむず痒い。なんでこんなに愉快なのでしょう。これから兄さんの大切なものを奪うというのに、楽しくて楽しくて仕方ないんです。
もう引き返せません。
だって、兄さんは私の一部を受け入れたのですから。
私は腕時計で時間を確認しました。兄さんがこの部屋に来るまであと五分――。錫風に言伝を頼んだから、確実に来るでしょう。兄さんも、母様のことをいたく心配していたようですし。
ですが、兄さんには前科があります。だから保険を打つことにしました。ハンマーを左手に持ち直し、右手でスマートフォンを操作します。ラインのメッセージ。文面は、「助けて」です。
送信ボタンを押して、母様に声をかけました。
「母様」
反応がないので、肩を軽く揺すりながら再び言います。
「母様、起きてください。父様がお越しですよ」
母様の目が、ゆっくりと開かれました。黒い瞳がぎょろりとこちらに向けられます。
「……明さん? 明さんがいるの?」
噴き出しそうになりました。
なんだ、起きていたんじゃないですか。
「明さんはどこ……?」
「ああ、ごめんなさい。電話がかかってきて、一度外に出られました。そのうち戻ってきますよ」
「……そう」
母様は身体を起こして、虚ろな瞳で私を見つめた。
「……明さんに会いたい」
「会えますよ。そのうちね」
そう、そのうち。そのうちね。
ここではない別の場所で。
私は微笑みを浮かべます。
「兄さんが寂しがっていましたよ。母様がぜんぜん会ってくれないって」
「……そう」
「叔父様も心配していました。はやく元気になって欲しいと言っていましたね」
「……そう」
「錫風や家の者たちも回復を願っています。良かったですね、母様。皆から愛され心配されて」
無言。
この女は、どこまでもつまらない。父様に愛されること以外、関心がないのでしょう。あなたの愛した明は、ずっと前から抜け殻だというのに。清澄という寄生虫に魂を食われ、身体を奪われているんですよ。そんなことも知らず、一途で一途で、一途で一途で一途で一途で一途で一途で一途で一途で一途で一途で――。まるで、禁忌の恋をしてしまった誰かを見ているように一途で。
愚かしくて、たまらない。
「母様。父様より言伝を預かっていますので、先にお伝えしますね」
重たげに首を上げた母様の側に寄り、耳元にかかる乾いた髪を指先で退かしました。椿を思わせる上品な香りの膜にコーティングされた、かすかな脂臭さは哀愁の匂いでしょうか。露出した耳元に、ゆっくりと口を近づけます。
「……父様はね、こう言ってました」
くすりと一笑し、私は告げました。
悪意に満ちた誘いを。
「あなたとは、離婚するって」
「……は?」
母様が困惑に呟かれ、目を白黒させます。ああ、おかしい。まるでボタンを押しても餌が出てこないことに気付いた、餓死寸前のハツカネズミみたい。
「……うそ」
「本当ですよ。父様が言ってましたもの。あなたにはもう愛想が尽きた、顔も合わせたくないって」
「うそ……嘘よ! そんなこと、あの明さんが言うわけがないわっ!」
だから、その明はとっくに死んでいるんですよ。あなたの幼なじみだった明はね、転生した化け物の意志に呑まれたんです。
でも、そんなことを教えたって信じないし、意味はないですよね。
「話は変わりますが……母様は知っていますよね、父様が腐心されている研究について」
ぴくり、と母様の肩が跳ねます。頬の筋肉が露骨に引き攣っているのを見ると、図星だったようですね。うふふ、やはり父様の部屋に入って研究資料を見ていましたか。私が置いておいた、「殺意」の研究についての資料をね。
わかりやすくて助かりますよ、本当に。
「父様はね、化け物を作ること以外に興味がないのですよ。そのためなら、どんな手段も厭いません。見たはずですね、私と兄さんを造るために父様が何をやったのか」
「う、嘘よ! あんなの出鱈目に決まってるわ!」
「本当にそう思います?」
私がにこやかに言うと、母様は言葉を詰まらせました。
「父様の残酷さは、あなたが一番分かっているでしょう? 異色家が四百年かけてやってきた大事業……その中身をすべて知らずとも、それがまともでないことくらい、母様は薄々分かっていたはずです。兼貴叔父様や
「それは……」
母様は、わなわなと身体を震わせながら、シーツを強く握りしめました。
知っているんですよ。明の記憶を継承した清澄から訊いてね。生前の明が、あなたに対して真実を隠しつつも、それとなく異色家への不満をこぼしていたことを。だからこそ、あなたは信じられないのでしょうが。父様がそんな悍ましいものに夢中になってしまった事実をね。そして、受け入れられないからこそ目につくはずなんですよ。
「だから、父様はあなたに興味なんてありません。異色家の悲願が叶いさえすれば、他はどうなったって構わないんです」
「……違うわ、そんなことない。明さんはそんなこと」
「はっきり言わないと分かりませんか? 居てもいなくても同じなんですよ、あなた。父様の……私達の悲願を叶えるために、あなたという存在は必要のないものなんです。ゴミはゴミ箱に。いらないものは切り捨てるのが父様と私の主義です。だから、消えてください」
「あんた……!」
母様が歯噛みします。先まで色を失っていた虚ろな瞳に怒りの火が灯ったのを見て、とうとう耐えきれず私は噴き出しました。
「なにが可笑しいのよ!」
「だって、七歳の子供の言葉にムキになっているんですよ。可笑しいに決まっているじゃないですか。そんな風に幼稚だから、私に父様を取られてしまうんです」
飛んできた平手打ちを、私はかわしませんでした。頭の中で爆ぜる火花を愉しみながら、心地よい痺れと熱を頬に感じて、口元が勝手に吊り上がります。
肩を震わせ、息を乱す母様は、不気味なものでも見るように私を見ました。
ふふ、可哀想な人。
そのとき、狙いすましたようにスマートフォンが震え始めました。兄さん。ああ、兄さん。見なくてもわかりますよ。兄さんが、私を心配してかけてくれたんですよね。嬉しい。蕩けてしまいそうなほど、嬉しい。
「……ああ、そうそう」
私は振動をやめたスマートフォンに目を落とし、何事もなく言いました。
「父様は神様を造るために色々なことを試してきましたが、最近ようやく正解を見つけたようなんですよ。特別に教えてあげましょう」
――化け物を宿した身内同士で、性行為をするんです。
母様の充血した目が見開かれました。
私の咲かせた笑みは、きっと血に濡れたリコリスよりも残虐でしょうね。
さようなら、母様。
「父様は、私を孕ませるつもりなんです」
首を絞められました。
ベッドから飛び起きた母様は、私を押し倒してのしかかりました。後ろ手に持っていた金槌が転がります。骨と皮になったみすぼらしい腕のくせに、信じられないほどの力です。獲物を捕食する蜘蛛のような指が、私の首の肉に食い込んでぎりぎりと締め付けてきます。
私はスマートフォンだけ手放さないように努めました。表示させていた通話ボタンを押すと、数コールの後に愛しい人の声がしました。ああ、出てくれた。呼吸ができない苦悶の中で、私は笑います。
「きいいいいいぃ! きいいいいいいいぃぃぃ!」
母様が、魔女の断末魔のような、叫びを上げています。キレイな、目。憎悪にそまった、目。兄さんの、悲鳴。かす、れた、私の声。いた、い。くる、しい。
兄さん、わたし、いま苦しめ、られています、よ。ねえ、わたし、のヒーロー。助け、てください。わたしを、このくるしみから、かい、ほうして。
にいさ、ん。
「きいいいいいぃぃ! あんたなんか、あんたなんかああぁぁっ!」
てんじょう、があか、い。ムシが。おおき、なムシ、がうごめ、いています。あ、あはは。これ、が死にいた、るという、ことなんです、ね。
わ、たしは、みまし、た。
あかく、くろい、しろい、むらさきの、てんじょうに、たし、かに、赤子を。
赤子が、まるい、手で、ゆび、さし、ました。
ドアの方を。
「香澄!」
あ、あ――兄さ、ん。
「……す、け……て」
「なにしてんだ母様ぁっ! やめろ!」
兄さんが、かあさまに、とびかかりまし、た。引き剥がそう、と、ひっし、でしたが、びくとも、しま、せん。奇声をあげ、かあさまが、兄さんをつき、とばします。
首が、解放されました。
激しく咳き込みながら、私は母様を見上げました。母様の、なにか取り憑かれたような憤怒の瞳は、床に転がる金槌に向いて、いました。ああ、あれで殴り殺すことを、思いついたんですね。
母様は、這うように動いて金槌を手に取りました。兄さんが追いすがり、母様を摑まえます。
「母様、やめて! 香澄にひどいことをしちゃだめだ!」
「うるさい! どかないとあんたを殴り殺すわよっ!」
「母様っ!」
獣のごとき唸り声を上げながら、母様はハンマーを振り回そうとします。母様の腕に掴まった兄さんが、必死の形相で噛みつきました。悲鳴が上がり、落ちる金槌。兄さんがそれを拾い上げた瞬間、母様の蹴りが何度も兄さんを襲いました。
「やめて……母様……っ」
「黙りなさい、黙りなさいっ! この小娘のせいで、私は明さんから嫌われたのよっ! こいつさえ……こいつさえいなかったら! 私は幸せでいられたのぉ!」
興奮し混乱しきっているのでしょう。母様の言葉は、なんの合理性も認めらない支離滅裂なものになっていました。ただ、怒りがあるだけ。怒りという鍋で煮込まれて崩れた思考が、彼女の理性をどろどろに溶かしている。
母様が、起き上がろうとした私に、またのしかかりました。
「死になさいよおおおおっ!」
あはは、可笑しい。
また首を絞めるなんて。ああ、また視界が歪んでいます。甘やかな苦痛が、痛みを裏返した気持ち悪い気持ちよさが、私の意識をくらくら、と、ゆがめ、ます。
わたしは、にいさん、を見ました。
にいさん。にいさんは、金槌、と母様を、かたみがわりに、みてます。わかり、ます。わたし、には、わかります。いま、あなたは、きっと、虫のこえを、聴いている。だって、瞳が、どこか遠くを、見ています、もの。会って、いるのでしょう? かれ、に。あなたの中に、宿った、ものに。
ねえ、
「……すけ、て」
その、瞬間。
兄さんが、信じられないほどの、絶叫を、あげました。この世のもの、とは、思えない、破調。母様の手の力が、ほんのわずか、ですが、ゆるみまし、た。
なにかが、潰れた音が、しました。
高所から、硬い果実を落としたときのような、生々しい音。噴き上がったのは、鉄臭い赤い果汁。母様が、やけにゆっくりと、斜めに傾いています。走り抜けたのは金槌の残像。子供が、ふるったとは思えないほど、重たく滑らかな軌道でした。
咳き込みながら、私は笑みを抑えきれませんでした。
やった。
これで、すべてが成った。
「ギギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァッ!」
兄さんの叫びは、まるで鉄の弦でできたバイオリンのように凶悪で。人のそれではありません。赤く赤く染まった瞳に映るのは、「殺意」に魅了されたものの狂気と絶望。そして、人を殺せる歓喜。
殺意が、加速します。
彼は、倒れて痙攣する母様に股がると、叫ぶように嗤いながら金槌を振るいました。何度も、何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も――。潰れすぎて、音が出なくなるくらいに。
血と脳漿の雨は、思ったよりも濃厚で甘やかでした。
ああ、脳が溶けてしまいそう。
ここには、心地よい
殴り続け、もはや原型を留めていない真っ赤な果実をみて、兄さんは笑い、叫び、泣きました。息も絶え絶えにしながら、頭を抱え、慟哭をあげていたんです。可哀想な兄さん。でも、混乱の極みに達した兄さんが、可愛くて可愛くて食べちゃいたくなるくらい可愛くて、ああ、たまりません。
嬉しい。
嬉しい嬉しい嬉しい。
兄さんが、突然、糸が切れたように意識を失いました。赤黒い水溜りのなかに、身を投げ出すように倒れます。私は、兄さんのもとまで這い寄り、そっと頭を抱き起こしました。
ふわりと、カーテンが揺蕩います。風の香りは死の香りを振り払うことなく、ただ微温く通り過ぎるばかりでした。私達は生と死と罪のほとりで、亡骸を前に穏やかなときを共有します。
触れた頬には、指紋混じりの血の跡が走りました。
「うふふ……」
これでいい。
これで、よかったんです。
私は兄さんを、本格的に化け物へと変えてしまいました。目覚めた兄さんが、どう変わっていても構いません。獣のごとく凶暴になったのなら、いくらでもこの身を差し出しましょう。罪の意識に苛まれてしまうなら、いくらでも寄り添い癒やしましょう。壊れてしまったのなら、大切にしまってあげましょう。
天井のカメラが、こちらを向いて笑っているかのようでした。その先にいる馬鹿の、ほくそ笑んだ顔が嫌でも浮かんできますね。
でも、どうでもいいんです。
だって、いま、私は幸せなんですから。
――本当に?
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