第十四章 異色の果実 四




 

 透が泣いていた。


 仲良くしていた友達が、一人引っ越してしまったそうだ。なんにも言わず、手紙すら寄越さず、いきなりいなくなったらしい。


 透は深くそのことを嘆いているみたいだった。強がってはいたが、七歳の純朴な彼にはショックが大きかったのだと思う。枕に顔を押し付けながら、啜り泣いていた。


 香澄はそんな透に寄り添い、労るように背中を撫でた。


「……悲しいですよね。いきなり居なくなるなんて」


 香澄の慰めは、透には届かない。


 寂しさと悲しみに惑う、言葉にならない透の叫びが、ささくれだった心の内側を激しく炙る。暗い愉悦と溶けた鉄のようなどろりとした怒り。


 裏切ったのはあなただ。嘘をついたから、こんなことになったんだ。許せない。許さない。許したくないけど、なんと可愛らしい。縋り付くあなたはなんて無力で弱々しいのだろうか。ああ、あなたを許しはしないけど、そんな子犬のように泣きつかれるとゾクゾクする。


 ――ねえ、私以外に頼る人がいなくなったら、あなたはずっとこうして縋りついてくれるんですか?


 香澄は口角を吊り上げながら、あやし続けた。






「泣いてましたよ、兄さん」


 机に置かれた電動ドリルを取りながら、香澄は淡々と告げた。


 啜り泣く声が背後から聴こえる。切れかけた電灯がパチパチと明滅を繰り返し、泣き虫な弱者を嘲笑っているかのようだった。香澄の目の前には、冷たいコンクリートの壁がある。黒い古びた染みで淀みきっており、ヒビだらけだ。


 遠くからも近くからも聴こえる水滴の音。黴と血の匂いが、花のごとく香る。


 異色家の地下実験場。香澄が産声を上げた場所。


「好かれていますね。兄さんがあんなに泣いているところ、初めて見ましたよ」


 香澄は電動ドリルを置いて、錆びたのこぎりに手を伸ばす。裏返し、刃こぼれを確認して机に戻すと、今度は小さなハンマーを掴んだ。他にも色々あるから悩む。糸鋸、アイスピック、バーナー、鋏、ナイフ、メス、ペンチ、鉈、黒い飼育ケース。机には、フリーマーケットのように様々な器具が置かれていて、インスピレーションを刺激されずにはいられない。


 エプロンの背中側の紐が解けていることに気づいた香澄は、紐を締め直した。ブラックナイトの顔が描かれたエプロンは、すっかり返り血で汚れている。ブラックナイトが、血塗れだ。


 香澄はくつくつと嗤った。


「ねえ、鳴花ちゃん。羨ましいですよ、そんなにも好かれちゃって。嫉妬で頭がどうにかなりそうなくらい」


 振り返ると、椅子があった。部屋の中央に置かれたその椅子には、一人の少女が全身を拘束された状態で座らされていた。紐と鎖で縛り付けられた彼女はうつむき、紫色の傷んだ髪が下向きに垂れている。


 香澄は、髪を掴んで顔を上げさせた。


「鳴花ちゃん、聞いてます?」


「……へルター、スケルター。……ヘルター……スケルター……」


「ああ、そうでした。歌うように命じていたんでしたね」


 泣きながら歌っている。その従順さが、滑稽で可笑しい。


 鳴花の顔は崩壊していた。アザだらけで腫れ上がり、唇がない。香澄が切り落としたのだ。そのせいで無理やり圧し折られたボロボロの乳歯が顕になっている。歯茎は真っ赤に染まりきり、血が溜まっていた。見目麗しかったはずの少女は、出土したばかりの欠けた土偶のような醜悪な姿に変わっていた。


 歌うばかりで反応が薄い。


 香澄は机から電動ドリルを持ってきて、彼女の耳元で回した。甲高い音を聞いた瞬間、鳴花の身体がびっくりと跳ね上がり、鎖がガチャガチャと軋む。


「ひ、ひいいいいいいいいいぃっ!」


 悲鳴を上げて、鳴花がイヤイヤと首をふる。


「ご機嫌よう、鳴花ちゃん」


「やめて、やめてぇ! 痛いのはもう嫌だあああぁ!」


「うるさいですねえ」


「助けてぇぇぇ! ママ……パパァ……!」


「あなたのお母さんとお父さんは、目の前で私の家の者が殺したじゃないですか。何度も言わせないでくださいよ」


 引き攣った声で嗚咽する鳴花。


 良心の呵責なんてまったく働かない。あるのは盗みを働こうとしたものを制裁する陶酔感と、決して消えない憎悪と憤怒。ただ一つの光を奪おうとした報いは、こんな程度では到底足りない。もっともっと痛めつけないと、蝿の羽音は頭から離れやしないんだ。 

 

「あなたが悪いンでスよ。私の大切ナものに手を出ソうとしタんでスからね」


 声が歪む。影が歪む。香澄の中から消えない怒りの正体が、虫の形となって影に現れる。良心はこの虫が殺した。ただ、愛するものを穢そうとした害虫への殺意と憎悪だけを暗い火に焚べた。赤い瞳が爛々と輝く。血が噴き出しそうなほど充血した目を見開いて、嗤った。


 香澄は「殺意」に魂を売ったのだ。自身が人智を超越した「上位者」であることを、兄を奪われそうになった絶望と恐怖とともに、完全に受け入れた。


 人の形のまま人でなくなった香澄は、酷薄に告げる。


「今日ハ、虫の餌にナってくだサい。あなタのお父様が大好きナ歌を口ずさみながラ、指先かラ食べらレるんでスよ」


 香澄は机の上にあった飼育ケースを持ってきた。黒い蠢く何かに埋め尽くされたそのケースを見た鳴花が、発狂したように叫び暴れる。様々な拷問でやせ衰えた左手は、まるで羽根が生え揃っていない雛の翼のようだった。無力に跳ねるだけ。あっさり捕まり、爪を剥がされ肌を削られた指先をケースの中へ無理やり入れられた。


 拒絶の叫びが、激痛と嫌悪の絶叫へと変わるまでそう時間はかからなかった。指先は触覚神経が集中している箇所であり、とくに爪の下にある皮膚、爪床を刺激されたときの痛みは尋常なものではない。実際、爪床に針を刺す拷問が存在し、痛みのあまりショック死するものもいたほどだという。


 香澄はそこを、虫に食わせた。


 もがき苦しみ、泡を吹きながら泣き叫ぶ鳴花の腕を抑えながら、香澄は言った。


「あははハははは! 大丈夫! あなたハまだ死にませン。殺せナいんでスよ、『殺意』に選ばれてしまっタんでね! 本当は殺しタい、今すグ殺したいんデす。この世から痕跡サえ残さズ、消してやりタいです!」


 ――だから、その時が来るまで痛めつけてやります。


 鳴花が、痛みのあまりに失禁しながら笑い始めた。拷問にさらされながら必死で覚えたビートルズの名曲を声にならない震える声で歌い、滂沱の涙と血を流す。


 ヘルタースケルター。


 狂気の混乱が、誰も知らぬ地下で叫ばれていた。




 


「害虫は捕らえました」


 灰色の女王の巣。その玉座に腰をおろして、香澄が言った。


「あとは、兄さんです。兄さんを『殺意』に変えます」


 頭を垂れる女王が、口を開いた。


 ――兄君を同胞はらからにするのですね。たしかに彼も資格がありますから。


「清澄の馬鹿者に、『上位者』の作り方は伝えました。あともう少しで実現できるでしょう」


 ――存じ上げております。しかし流石でございますね。貴女様がお気づきになられた方法というのは、なんとも素晴らしいものか。


「ええ」


 生返事をしながら、香澄は息をつく。


 香澄により編み出された「上位者」の顕現方法は、大して複雑なものでも何でもない。清澄がこれまで考えてきた方法をアレンジしたものに過ぎないのだ。


 香澄は、清澄がこれまで行った実験そのものについては軽んじていなかった。細胞移植や遺伝子操作では芳しい結果が得られなかったが、偶然でも香澄が生まれてきた以上、完全に誤りとは言えない。問題は、細胞移植のアプローチの方法にあった。細胞を直接植え付けて駄目なのなら、それを媒介するもの、橋渡しとなるものを差し挟む必要があるのではないか、と香澄は考えた。


 清澄も、ウイルスや細菌などを実験に使ったことがあるが、これはまったく上手くいかなかった。RNAウイルスに清澄のDNA情報を組み込み、感染からの覚醒を試みたり、あらゆるウイルスや細菌のゲノムを組み込んだ受精卵を作ってみたり……涙ぐましい努力も結局すべて骨折り損のくたびれ儲けだった。


 香澄が着目したのはウイルスや細菌ではなく、とある寄生虫だった。「殺意」の誕生に、思考と感情を司る機関……脳が重要な役割をすることはすでに清澄が明らかにしていたが、脳に入り込む異物として考えられる一番の候補はこれだった。トキソプラズマ原虫や有鉤条虫ゆうこうじょうちゅうなど人間の脳に寄生する寄生虫は数多くおり、清澄も一時期寄生虫の実験を行ったことがあるようだが、いずれも失敗に終わっていた。


 香澄がその寄生虫の存在に辿り着いたのは、世界に数冊しかないと言われるとある冒険家の手記からだった。それは清澄が四百年かけて集めた資料、人生を十辺繰り返しても読み切れないほどの膨大な情報媒体の中に埋もれたものだった。「意味がない」と清澄が捨てた情報の中から見つけてきたのだから、砂漠の中からダイヤモンドの指輪を探し出したような奇跡と言えよう。いや、おそらくは必然だったのかもしれない。香澄という奇跡の果実が、奇跡に辿り着いたのは――。


 十九世紀に書かれたその手記には、孤島やジャングルの中にある少数部族との交流の記録が書かれていた。ほとんどは、部族ごとの風習や文化を紹介する退屈な内容だったが、ある孤島に住む部族を取り扱った章に引っかかるものがあった。


 その部族は、冒険家が辿り着いたころには滅びかけていた。なぜかというと、彼が辿り着く数年前に部族内で凄惨な殺し合いがあったからだ。突如として獣のごとく凶暴化した男たちが、村民に襲かかり、老若男女関わらず殺し尽くしたという。すべて、戦士として認められた成人の男たちだ。


 その部族の生き残りは、悪魔に取り憑かれたと言っていたそうだ。悪魔の肉を食らったがゆえに、悪魔になったのだと。


 香澄はこれを新種の寄生虫の仕業だと考えた。なんらかの動物を中間宿主や終宿主とし、人間の脳に寄生して殺人衝動や欲求、攻撃性などを高める性質を持つ風土病だと。


 しかし、冒険家の本に対する信憑性の是非が問われたため、独自に資料を集めて裏付けをとった。その結果、たしかにその孤島に十九世紀まで同じ名前の少数部族が存在していたことが明らかになり、文化や風習についてもほぼ一致していた。その精査の中で、悪魔の肉がなんのことを指すのかもわかった。


 悪魔とは、猿だ。この島の固有種であるダンタリオンマントヒヒという猿である。悪魔のような凶悪な顔つきをしていることが特徴で、その部族は戦士の祭りの際に、その猿を神への贄に捧げる文化を持っていた。そして、神と思いを共有するために、その肉を喰らった。


 感染経路がはっきりした。しかし、その猿の肉を食う風習は十九世紀以前から確認できるもので、それまで感染しなかったのかという疑問もあった。文献をさらうと、猿を食らった戦士が凶暴化した例は過去にもあったようで、「悪魔の誘惑に負けた軟弱な戦士」として、捕らえられ処刑されていた記録があった。つまり、それまでは感染力が弱く、ある時点を境に突然変異を起こして感染力が高まった可能性があるということだ。


 香澄は清澄にそのことを伝え、清澄はすぐにその島へ調査団を派遣した。持ち帰られたサンプルは、ダンタリオンマントヒヒから取れた、霊長類を終宿主とした新種の寄生虫だった。香澄の予想通りだ。そしてあらゆる実験と調査の結果、その寄生虫が霊長類の脳に寄生し、殺人衝動や攻撃性などを高めることが証明された。


 その虫のことを公表すれば、香澄たちは大変な栄誉が得られただろう。だが、香澄も清澄も現し世の名声になど何の興味もなかった。すべては、目的のためだけに向いている。香澄は、なんの躊躇もなくこの寄生虫に、自分の遺伝子を組み込み――そして成功してしまった。


 殺意を呼び寄せる媒介、「へその緒」を創り出すことに。


「……もう少しです」


 香澄は、俯きながらぽつりと呟く。


 もう少しで、天使は悪魔へと変わる。


 ――逡巡なされておいでですか?


「いえ」


 暗く淀んだ瞳は、ルビーの原石よりも光がない。


「もう戻れません。私にはこうするしかないんですから。今更躊躇なんてしませんよ」


 ――香澄様。


「決めたんです。私は、この世界を破壊する」


 何も奪われない世界を創るために。


 兄と二人だけの理想郷を手に入れる。







 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る