第十三章 四




 火の粉が、命のように消えた。


 この街にいた人々の命のように容易く。


 焚き火を見つめる桜南の瞳は、埃をかぶった銀塊のようにくすんだ色をしていた。揺らめく炎の頂点からは、昇天する魂のごとき火の粉が舞う。


 残酷な蛍だと思えた。


 綺麗なはずなのに、綺麗だと感じられない。


 桜南は細く長い溜息をこぼした。耳にかかっていた髪がはらりと落ちる。絹のような柔らかく艶やかな黒髪の先が、地面すれすれで揺れていた。暗がりに沈んだ部屋の中に微かな風が吹いているのか。


「透くん」


 無意識に口をついたのは、内心を渦巻く寂寥と後悔の象徴だった。


 桜南は膝を抱え縮こまる。


 顔が耳まで熱かった。噛み締めた奥歯からバキバキと音がする。唇を噛んでしまったのだろうか。温い血が顎先から鎖骨へと滴り落ちた。


 悔しい。


 自分が情けなくて仕方がない。自分の不甲斐なさに怒りさえ感じてしまう。


 透に友人を殺させてしまった。さらなる業を背負わせてしまったのだ。そんな苦悩を抱えさせたくなかったのに。彼は背負い続け、死ぬまで絶望し続ける。そうなると分かっていたのに、彼の友人も彼の心も守れなかった。自分のせいだ。自分にもっと力があれば、殺人者としての痛苦を味わわせなくて済んだはずだ。


 それだけじゃない。


 奪われた。


 透を、あんなクソみたいな女に。あんな雌猫に。許せない。朗らかな彼の笑顔が、彼の温順な心が、またあの女に穢されてしまう。


 どうしても浮かんでくるイメージがある。あの女が、死んだ目をして動かない透の上に跨り、腰を振って嬌声を上げている淫靡な光景。汗を流しながら、快楽に歪んだ勝ち誇った顔で、あの女がこちらを見てくる。それが、その顔が、空気の入ったボールを水の中に沈めるがごとく、打ち消しても打ち消しても浮上を繰り返す。


 あの女は、必ず透を弄ぶ。それが分かっているのに、作戦が開始されるまでの間は何もできず手をこまねいていることしかできない。今すぐ駆け出したい。この手であの女を刺し殺してやりたい。


「『狂愛』め……」


 あの女だけは絶対に許さない。


 あいつさえいなければ、こんな悲劇は起こっていない。あいつさえいなければ。


 誰かの手が、肩に触れた。


 顔を上げると、ガスマスクを被った翡翠が側に立っていた。


「隣、いいか?」


 座ってもいいか尋ねているのだろう。桜南は頷く。


 翡翠は少し離れたところに腰を下ろした。


「荒れているな。酷い顔をしているぞ」


「……そう」


 素っ気のない返事になってしまった。桜南は眉根を押さえて短く息を吐いた。


「疲れているのかもね。一日以上寝ていたくせにな」


「それだけじゃないだろ?」


 桜南は目を細める。


 相変わらず図星をさしてくる男だ。


「そうだね。悪い?」


 棘のある言い方になったのにも関わらず、翡翠は肩をすくめる。


「悪くはないさ。昔なら諜報員には不要な感情だと小言でも言ってやるところだが、今はそんなことを言うつもりはない」


「ふうん。てっきり説教でもされるのかと思っていたんだけど。翡翠、丸くなったのか?」


「分かっているだろう? 私は元々そこまで角張っていない」


 桜南は小さく笑うと、「そうだね」と告げた。分かっていた。彼も、ただ必要に応じて感情を殺しているだけだ。


「むしろ変わったのは貴様の方だ、銀」


「自覚はあるよ。私はもう諜報員だった頃の私には戻れないだろう」


「……そうか」


「ああ。自分のあり方に疑問を抱いてしまったからね。もう、駄目だ」


 薄く口元を吊り上げて、悲しげに眉根を下げた桜南は、薄皮一枚の非人間性を拭い取るようにこう言った。


「だから、私のことは桜南と呼んで欲しい。銀も銀城桜南も組織から与えられた偽りの名前だけどね、そんなこと関係ないんだ。私はこの名前を気に入っているから」


 私は、もう銀城桜南なんだよ。


 翡翠のガスマスクのガラス部分に映った桜南の影は、薄く歪んでいるのに綺麗に映っていた。しばし黙していた翡翠が、小さく笑ってマスクに手を当てる。


「わかったよ、桜南」


 その声は、驚くほど優しかった。


「……ありがとう。あなたのことはなんて呼べばいいかな?」


「翡翠でいい。私は、これからもずっと『彩』だからな」


「そうか……」


 ずっと、「彩」か。


 彼は背負っているのだ。これまでの仲間の死も、仲間の身体を依り代に再生したことも、すべてを罪として受け入れて進むつもりなのだ。


 その先が、たとえ地獄だったとしても。


「異色透に感謝せねばならんな」


「……なんであなたが感謝するんだよ」


 少し面映ゆくて、つい目を逸らしてしまった。火は穏やかに揺れている。


「貴様を変えたのは、異色透なんだろう」


「まあ、ね……」


「ふっ、私の見立て通りだったな。やっぱり貴様は諜報員には向いていなかった。調査対象に恋愛感情を抱くなんて」


「うるさいな、うるさい」


 からかわれて、さらに気恥ずかしさが増す。まさか翡翠から、こんな風にイジられる日が来るなんて思いもしなかった。


「異色透のどこを好きになったんだ?」


「うるさい。教えない。絶対に教えないから」


「そう言うなよ。何事にも冷静だった貴様が、紫音から異色透を馬鹿にされて逆上したり、今もこうして思い悩んだりしている。貴様がこれ程までに執着して、心を乱されてしまう理由を知りたいんだ」


「……どうして?」


「聞くだけ野暮だろう」


 桜南は深く溜息をついた。野暮なのはどっちだよと言い返そうと思ったが、言葉を呑み込む。翡翠の親心のような心情を汲み取れないほど鈍くはない。


 本当に、不器用な男だ。


「……私はね、本当はずっと疲れていたんだ」


「……」


「朝食はよくサンドイッチを食べていた。ジャムを塗ったりハムやチーズを挟んだりしてね、色々な味のものを作っていたよ。でもね、どれも全部同じだった。柔らかいスポンジを食べているかのように、味が一切しないんだ。ずっと気にしないようにしていた。味はしなくとも栄養は取れると言い聞かせて」


 桜南は言葉を切って、自嘲的に微笑む。


「必要ないと思っていたんだ、そんな些細な幸せを感じる情緒なんて。人を騙し、自分を騙し、情報を集め、銃の引き金を弾く。与えられた命令を忠実にこなすだけの機械のような生き方が、私の人生だと思おうとしていた。でもね、そんな心に麻酔をかけているかのような生き方、本当はずっと嫌だった。疲れていたんだ、ずっと前から」


 翡翠が、両の手を握りしめていた。ガスマスクに隠れた表情は杳と知れない。だが、きっと、彼は桜南の本音に悲痛を感じている。


 風に煽られた火が微かに伸びた。暴けない闇を少しでも照らそうとするかのように。


 物心ついたときから、人を殺す訓練を受けてきた。桜南には親の記憶はなく、およそ幼少期に与えられるであろう愛情の一切を知らなかった。最初から施設にいた。「彩」が運営する、諜報員と暗殺者を養成するための施設に。


 愛情の代わりに与えられたのは、諜報員になるための膨大な教育と血のにじむような訓練だった。そこでは、非人間的であることが喜ばれ、機械に近づけば近づくほど優遇された。


 桜南は、殺人機械として育てられた。


 だが、機械にはなりきれなかった。人の心を捨て去ることなんてできなかった。たとえ、最初から機械になる教育を受けていようとも。諜報員として嘘をつく技術と演技力をどれだけ上げようとも。


「……透くんが教えてくれたんだ。私が人間であることを」


「……」


「最初はいつもと同じだった。彼はただの調査対象でそれ以上でも以下でもなかった。近付いて取り入るために、彼の好みそうなキャラクターを演じていつものように自分を偽っていた。銀城桜南という、ボードゲームが好きな物静かで飄々とした少女の仮面をかぶって。氷のように冷たい心情で、自分の役割を演じていたよ」


 桜南の声がわずかに震える。押し寄せてくる温順な思い出と切なさと悲しみを飲み込むように、彼女は一呼吸置いて口を開いた。


 唇は、それでも微かに震えた。


「でもね、透くんと接しているうちに、だんだん自分がわからなくなっていったんだ。詰まらないはずのボードゲームが、本当に面白く感じるようになっていた。透くんの他愛無い冗談に、自然と口元が綻ぶようになっていた。頭の悪い彼に勉強を教えるのも、からかって真っ赤になる彼の顔を見るのも、全部全部……楽しいと思っていたんだ。夢に彼が出てくるようになった。目を覚ますと嬉しくて悲しかった。学校に行って、彼が友達と楽しそうに話しているのを目にして、決まってほっとしていたよ。わけわかんないよね。私も知らないうちに、そんな風になっていったんだから」


「……いや、わかるよ。お前は向いてないからな。わかっているから、もう堪えるな」


 翡翠の言葉は寄り添うように発せられた。桜南は唇を噛んだ。目頭が熱くなる。嘘はもう、つかなくていいんだ。


「気づくと、透くんのことばかり考えるようになっていた。毎日毎日、なんで彼のことばかりが頭に浮かぶのかわからなくて、不要な感慨を浮かべてしまう自分を恥じた。でも、でもね、どれだけ自分に言い聞かせたって、私は自分の感情を否定しきれなかった。楽しかった。楽しかったんだ。彼といる時間が本当に楽しくて楽しくて仕方なかったんだよ。人生に色があることを初めて知った。そんなの……好きにならないわけないじゃないか」


「……」


「透くんが好きだとはっきり気づいたのは、私の偽りの誕生日に彼がクッキーを焼いて持ってきてくれたときだった。私をイメージして、猫のクッキーを焼いてきたって恥ずかしそうに言っていたね。少し焦げていて形も悪い、お世辞にも上手とは言えないクッキーだった。家に帰ってから食べたんだ。ちょっとパサついていたけど、とても甘かった。それが私にはとても衝撃的だった。初めて味を感じたんだ。今まで何を食べても、味なんてしなかったのに」


「……そうか」


「……うん。どうしてこんなに、と思うくらい甘くて世界一美味しかった。その日は、寝れなかったよ。心臓がずっとうるさくて、身体が熱くて熱くて燃えてしまいそうだった。好きだって独りで何回も何回も呟いていた。あのとき、完全に壊れてしまったんだ。殺人機械としての私は……」


 ねえ、翡翠。


 桜南は、困ったように眉根を下げながら言った。


「私は、透くんが大好き。彼のそばにいないと狂いそうになるくらい大好きなの。こんな感情、人殺しの私には相応しくないと分かっているのに、私は彼に想いを告げることを止められなかった。文化祭の最終日に、私は告白したよ。こうなると分かっていたのに、どうしても……私は……」


「想いを告げられないことに耐えられなかったんだな」


「うん……。ごめんね、話に脈絡も整合性もなくて」


「そんなものはいらない。これはプレゼンじゃないんだ。貴様の想いの丈を聞けてよかったよ」


 翡翠の無骨な手が頭に置かれた。固くてざらざらした感触が温かさとともに髪の毛から伝わってくる。


「告白は、成功したのか?」


 桜南はゆっくりと頷いた。「そうか」と翡翠の短い言葉に、悲喜が滲んだ。


「おめでとう、桜南」


「やめてよ……。泣くだろ」


「泣いたらいよいよ諜報員失格だな」


 くつくつと笑う翡翠は、桜南の頭から手を退かした。彼の目線が、桜南の肘から先のない右腕に一瞬落ちる。


 少しの沈黙の後に、翡翠は口を開いた。


「必ず取り戻すぞ、異色透を」


「ありがとう。そうだね、必ず取り戻す」


 左手を固く握りしめ、桜南は言った。


「この命が尽きる前に、必ず」


 


 


 

 








 

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