第十三章 二




 人の心なんていらなかった。


 「銀」に必要なのは命令を忠実に遂行する能力と、機械のように冷徹な知性だけであった。赤色の絵の具をつけた筆で、真っ白なキャンバスに線を引けば赤く染まるのが自明の理であるように。求められる使命に、忠実であることを常に求められる日々。


 銀の絵の具を、延々と使い続けた。延々と延々と。延々と延々と……。


 中国やロシアからの諜報員を、何度も捕まえて拷問し抹殺した。国家にとって都合の悪い政治活動家一家や、汚職に関わった政治家一家を無理心中に見せかけて殺したこともある。反社会組織の一員を酸で溶かしたり、ある会社役員の背中を押して電車に轢かせたり……やってきたことを数えれば切りがない。


 人の心なんて、いらなかった。


 それが当たり前だと思い込んでいた。


 そうじゃないと、奪うだけの人生にきっと耐えられなかった。





 目を開くと、焚き火のゆらめきが見えた。


 パチパチと、枝が爆ぜる音だけがする静謐な暗がりの中にいた。どこかの建物の中だろう。コンクリートの冷たい床が、優しい光で照らし出されている。


 ぬるい風が通り過ぎ、火を揺らした。その中に微かに漂う人の匂い。


 誰かがいる。少なくとも二人以上。


「……っ」


 身体を起こそうとした瞬間、貫くような激痛に襲われた。全身が骨折しているみたいだ。ギシギシと軋む音が、身体の内側から響いているようにさえ感じられる。なんとなく、右腕を見た。肘から先がなかった。断面の肉が粘菌みたいに蠢いている。


 額から滲んだ脂汗が顎先から溢れ落ち、地面を汚す。


「……目が覚めたか」


 くぐもった男の声。桜南は歯を食いしばりながら、ゆっくりと首を動かした。


 ガスマスクをつけたスーツ姿の男が、ドラム缶の上に座っていた。


 桜南は身構えた。だが、異様すぎる風体の男から敵意は感じられない。視認はできないが、もう一人……奥にいる人物も桜南に対して攻撃的な意志はなさそうだった。


 彼らは、「人工殺意」から助けてくれた人外たちで間違いないだろう。


「無理に身体を動かすな。我々に貴様を害する意志はない」


「……」


「計りかねているか。それはそうだろうな。どのような意図で我々が貴様を助けたのかもわからんからな」


「……それ以前に、あなたたちは怪しすぎる」


「もっともだ」


 ガスマスクの男は笑いもせず、淡々と同意した。


 この声、やはり聞き覚えがある。


「あなたは何者だ? 私のコードネームをなぜ知っている?」


「……私は翡翠だ。そう言えば、コードネームを知っている理由もわかるだろう?」


 桜南は思わず目を見開いた。


 翡翠は桜南の上官であり、彼女が所属していた部隊の隊長でもあった。精鋭揃いの「彩」の中でも「冷血の鬼」という異名で恐れられた優秀な諜報員で、射撃と殺人術のスペシャリストだ。


「……あなた、生きていたの?」


「ああ。生きている……というと少し怪しいところはあるがな」


 翡翠は肩をすくめてそう言った。


「異色香澄に殺されたんじゃなかったのか? 誰とも連絡を取れなくなっていたから、全滅させられたとばかり思っていたけど……」


「お前の言うとおり、この街に来ていた『彩』の構成員は全員殺されたよ。私も一度やつに殺されている」


 桜南は困惑を示すように眉根をよせた。


「どういう意味だ? 私と同じように『殺意』の力で助かったということか?」


「だいたい合っているが少し違うな。私は、お前のように緑川兼貴から『殺意の因子』を渡されたわけではない。死後、後天的に顕現したんだ」


「……」


 桜南はさらなる戸惑いに押し黙る。


 そんなことあり得るのか? 上位者は基本的に触媒となる「殺意の因子」を……異色香澄の細胞を埋め込まれた寄生虫を身体に取り入れなければ顕現できないはずだ。


 鋭い眼差しを翡翠に向ける。


 コードネームを知っていることだけで信用する根拠にはなり得ない。異色香澄か彼女の手のものが、「彩」のメンバーから何らかの方法で記憶を引き出した可能性もゼロとは言えない。「彩」の人間は拷問の訓練もかなり受けているから情報を漏らすことは考え難いが、記憶を引き出す権能があったとしても不思議ではないだろう。つまり、ブラフの可能性も十分考えられる。


「……本当に、君は翡翠なのか? 私に敵対する意思がないという証拠は?」


「それを証明するにたる完全な証拠はない。敵がどのような能力を持っているか分からない以上、顔を見せても信用はできないだろう。変身する力を持つ者がいる可能性も捨てきれんしな」


「……なら」


「あー、面倒くせえな!」


 闇の中から枯れた女の声がした。素足でコンクリートを歩く音がして、異様に長い紫髪の女が現れた。


「証拠もくそもいらねえだろうがよ! 俺らがてめえの敵なら、わざわざ助けたりしねえしとっくに殺してるわ! 単純に考えればわかるだろが!」


「……単細胞め」


 翡翠が、ぼそりと呟いた。


「あぁ!? んだとコラ! 誰が単三電池だてめえ!」


「そんなことは言ってない。話がややこしくなるから、とりあえず私に任せておいてくれ」


 噛みつきそうな勢いの女を遮って、翡翠は話を続けた。


「たしかに完全に証明する方法はないが、紫音の言うことにも一理ある。もちろん、それでもまだまだ疑念や猜疑を抱くポイントはあるだろうが、私たちに出来ることは貴様に信用してもらえるよう言葉を尽くすことだけだ。……どうか話だけでも聞いてもらえないか?」


「……わかった」


 桜南は頷く。


 疑念が消えたわけではないが、ここでこの二人と敵対したところで一切の得などない。桜南は満身創痍の域を出ていないし、戦闘になってもまず勝ち目がない。それに……。


 それに、ここに透はいない。


「……話を聞く前に一ついいかい?」


「異色透のことか?」


 桜南の思考を読んでいるかのように、翡翠が言った。


 一瞬押し黙り、「ああ」と頷く。


「彼はまず間違いなく異色香澄に拐われただろう。その後どうなったのかは分からないが」


「……助けないと」


 桜南の言葉に、鳴花が露骨に舌打ちを鳴らした。「紫音」と翡翠が諫めていたが、鳴花は無視して言葉を発した。


「嫌にやつのことを気にするじゃねえか? あんなやつのどこがいいかねぇ」


「……あ?」


「はっ。なんだ、手前の男をバカにされて腹が立ったか? わりいが俺は異色家の連中がゲロを吐くほど嫌いなもんでな。とくに異色香澄っていう頭のおかしいカスアマと透のことはなあ! あんな変身に失敗した雑魚ヒーローみたいなやつに惚れるなんて、気の毒で仕方ねえよ」


「透くんのことを悪く言うな。お前みたいな脳味噌のシワがないやつに、彼の何がわかる?」


「あぁ? 少なくともてめえよりは知ってるよ。だって俺は」


「いい加減にしろ紫音」


 翡翠の冷たい声が鳴花の言葉を遮った。見ると、彼女の背後にある空間から機関銃の銃口が突き出ていた。


「……ちっ」


 忌々しそうに鳴花は歯ぎしりを鳴らしたが、忠告を聞き入れたらしい。壁に背をつけて、不貞腐れたように天井を睨んだ。


「すまないな、銀。あいつのことは悪く思わないでくれ。人一倍異色家に恨みを持っているんだ」


「そうか。別にそれほど気にはしてないからいいよ」


「いや……」


 翡翠が、何かを言いかけて口を噤んだ。


「……とにかく、異色透についてはこちらも何とか助けたいとは思っている。異色香澄と戦うなら、単純に考えても頭数は多いに越したことはないからな。だが、無策で突っ込んでも上手くはいかない。彼の救出も含め、これから異色香澄とどう戦うか考えたいんだ」


「……そうだね。たしかに透くんを助けようと思ったら、必然的に異色香澄と戦いになるだろうしな。あの女の透くんに対する執着は並大抵のものではないし」


「そうだな。……では、まず最初に私たちの目的を言っておこう。貴様と同じでね、私たちは異色香澄を殺したい。奴を抹殺して、『鏖』を何としても止めたいんだ。……今度こそ、何としてもな」


 桜南は無言で頷いた。


 目の前にいる男が本当に翡翠なら、そう言うだろう。我々「彩」は、元々異色家の蛮行を止めるために戦ってきたのだから。


 だが、失敗してしまった。そのせいで数多くの悲劇を生み出してしまった。


 そのツケは必ず払わねばならない。


「……あなたはやはり翡翠なのかもな」


「なにか言ったか?」


「いや、なんでもない。……それより、言葉を尽くすと言っていたよな。なら、あなたが『殺意』になった経緯を教えて欲しい。異色香澄の細胞を媒介にせず、どう『殺意』になったのか」


 温い風が走り抜け、火が揺れる。薄明かりに照らされていた翡翠のガスマスクが見えなくなった。


 彼の手が、ガスマスクに伸びていく。金具が擦れ合う音が静寂をくすぐる。マスクを持った手が太ももの位置まで下がった。


 光が、彼の顔を再び照らした。


 桜南は唖然とする。


「……それは」


「我々の顔だ。驚いただろう?」


 驚いたなんてものではない。光が暴き出した翡翠の素顔は、もはや人間のそれでは無くなっていたからだ。


 連想したのはキュビスムの絵画だった。複数の目や鼻や耳が、まるで過剰にパーツを追加した福笑いのようにバラバラに付いていた。顔中に境目が見えたのは、モザイクアートのごとくそれぞれの場所の肌の色がバラバラだからか。


 翡翠の面影は微かにある。だが、もはやそれは顔の輪郭だけだと言ってもいいかもしれない。


「なんで、そんなことに……?」


 ほとんど絶句に近い桜南の言葉に、翡翠は初めて笑みをこぼした。崩れた自嘲は、痛々しい。


「……我々は、異色香澄と赤坂亜加子に皆殺しにされた。まるで光が走ったかのようだったよ。ほとんど抵抗する間もなく、バラバラにされ、潰され、破壊された。周囲は肉の山と血の海が広がって、私は自分の無力を呪いながら死んでいったはずだった」


「……」


「だが、気づくと私は意識を取り戻していた。『反逆』の殺意の力で、皆の肉体を寄り集めくっつけた、下手くそな粘土工作みたいな身体でな」


「……それが、あなたの『殺意』なのか」


 『反逆』の殺意。


 透の叔父、緑川兼貴のもたらした情報には無かった上位者の名。つまり、異色香澄の研究により生み出された「殺意」ではない。そんな「殺意」が存在したのか。


「『反逆』は、異色香澄と異色明が顕現を避けた上位者だった。その名のとおり、『殺意の王』へ明確に反逆する意思をもつ存在だったからだ。実体を持たない、所在不明の『絶望』の殺意を宿している可能性が一番高いと判断されたことも理由だったようだが……」


「なら、なぜ貴方に顕現できたんだ?」


「はっきりとした理由はわからない。異色香澄に無視され、顕現に必要な器を持てなかった『反逆』の執念としか言いようがないだろう。『反逆』は言葉を有さないから、聞いても理由は判然としないしな」


「……そうなのか」


 信じられない話だ。しかし、異色香澄が召喚を躊躇うほどの「殺意」で、実際に顕現に必要な触媒も器も用意されていなかった。それほどの存在だ。何が起こっても不思議ではない。

 

 翡翠は、淡々と続ける。


「しかし不完全な顕現だったから、私の身体を再生することができなかった。貴様らと違って、私には再生能力がないんだ。だから、『反逆』は顕現する際に器の不足を補うために、辺りに転がっていた部下たちの死体を繋ぎ合わせたんだ。復活してからよく分かるが、私の身体は八割近く消滅していたようでな。その八割を補うために、顕現に一月以上をかけた」


「……」


 この世界は時空が歪んでいる。生物以外は、その歪みの影響を受けるから一月で腐らなかった肉を集めたのだろう。いずれにせよ、背筋が凍るような恐ろしいことだ。執念。翡翠はそう表現したが、それは間違いないかもしれない。


「顕現に一月。バラバラに繋ぎ合わせた身体を満足に動かせるようになるまでさらに時を使った。貴様らをすぐに助けにいけなかった理由がこれだよ。すまないな」


「いえ……」


 桜南は目を伏せる。なんと声をかければ良いかわからない。さっきまで疑っていて、まだ疑念を持つ余地はあると頭ではわかっていても、感情では目の前にいる男を翡翠だと捉えていた。


 「冷血の鬼」と呼ばれ、任務には一切の容赦がなく、たしかに血も涙もない冷たい男だったが、反面で彼は部下思いでもあった。多忙を極めている中でも、亡くなった隊員の墓参りに毎月欠かさず行くほどには。


 そんな彼を知っていたから遣る瀬無い。意図しないにしろ、部下の身体を使って復活してしまった彼の胸中は察するにあまりある。


「……『反逆』は、なぜそこまでして『殺意の王』を殺したいのだろうか?」


 桜南はわずかに話題を変えた。


「やつは……」


 翡翠が言葉を飲み、わずかに間を開ける。


「やつは、『殺意の王』を許せないらしい。言葉を介さなくてもこれは伝わってきたよ。『反逆』のやつは、他の『殺意』どもの誰とも違う特殊な信仰を持っているようでな。やつは人間を信仰しているんだ」


「……は?」


 桜南は瞬きを繰り返した。


「訳がわからないよな。だが、やつは確かに人間への信仰を持っている。『殺意』は人間の殺人欲求に支えられて存在してきたからな、やつにとって人間の存在は敬うべき信仰対象と捉えられるものなのだろう。丁度、我々の祖先が狩りの対象である動植物を信仰対象にしてきたような感じに近いのかもしれない」


「……なんか、変なやつだね」


 桜南の正直すぎる言葉に、翡翠は肩をすくめて冷たい微苦笑を浮かべた。


「……ああ。酔狂なやつだよ。しかし、こいつのおかげで借りを返すことができるから、なんとも言えんがな」


 人間に友好的な「殺意」なんて、皮肉を通り越して馬鹿みたいだ。草食動物の赤子を助けるメスの肉食獣よりも信じられない話である。


「……話を少し戻そう。私は充分動けるようになるまで、少しでも異色香澄と戦えるように準備をしてきた。紫音と手を結んだのもそのうちの一つだった。こいつは私と目的がほとんど同じだったからな。異色香澄に対する復讐の手引きをする代わりに、力を貸してもらえることになった」


「まあ、そんなところさ。俺は頭を使うのが苦手だからね。センセーの頭脳を利用した方が、異色香澄をぶっ殺しやすいと思ったわけよ」


 ケラケラと笑いながら鳴花が口を挟んできた。気にした様子もなく、翡翠は話を進める。


「異色香澄にとっても私はイレギュラーな存在だろうからな。悟られることなく動くことができた。やつと戦う体制が整うくらいには、準備はできたよ」


「……しかし、今回私を助けたせいで翡翠の存在はあの女に認知されることとなった。そんなリスクを背負ってまで私を助けた理由は、単純に仲間が欲しかったからというわけじゃないんだろ? 私が『絶望』の力を持っているからだな」


「そうだ。私は貴様と異色透のどちらかが『絶望』の力を有していると踏んでいた。あの力は『殺意の王』を殺すための切り札になりうる。異色香澄に回収されるわけにはいかなかった」


「……なぜ透くんではなく、私が所有者だと分かった?」


 桜南の口調が、わずかに厳しさを帯びる。


「赤坂亜加子との戦闘を見ていない限り、知りようがないはずだ。静観していたのか? あの状況で?」


「……通常ならそう考えるだろうな。だが、我々が貴様らの戦闘に気づいて到着したころにはすべてが終わっていた。貴様は『人工殺意』に囲まれ、異色透は『不条理』に敗れていた。間に合わなかったんだよ。だから、貴様が『絶望』の力を使うところを実際に目にしたわけではない。だが、それでもすぐにわかった。貴様を見た瞬間な」


「……」


「察したようだな。『絶望』は、『殺意』たちにとっても忌むべき力であり、畏怖の対象だ。俺と紫音の中にいる『殺意』がどちらも怯えていたよ。破滅の匂いがすると言って」


「……破滅の匂い、か。私はシャネルの香水以外使わないんだけどね」


 軽口を叩いても、失笑さえ起きなかった。

 

 桜南は右腕を見遣る。ぼこぼこと肉の沸き立つ断面。だが、これ以上は治らないだろう。再生力が以前よりも明らかに弱まっている。この状態まで治ってはいるが、「殺意」としての肉体は確実に破滅へと向かっている。


 ――そう、破滅へと。


「あと何日もつ?」


 石を投げ込まれた水面のように、心臓がどくんと跳ねた。翡翠の顔にある複数の目が細められているのは憐憫のためだろう。フルーツの飴玉のように色味の違う様々な瞳に光が揺らめいていた。「彩」が、泣いている。頭に浮かんだのは、そんな希望的観測に等しいただの妄想。


 透の泣きそうな顔が、頭に浮かんだ。


「……あれから、どれくらい経ってる?」


「二十七時間三十二分だ」


「そうか……」


 桜南は、淡々と告げる。努めて淡々と。


「あと二日か三日だ。そして、次に絶望の力を使った場合、その瞬間に死ぬだろうな」


 ちっ、と火をつけることに失敗したライターのような音がした。鳴花の舌打ちは、作戦遂行までのタイムリミットの短さに対する不満だろうか。


 翡翠は、俯く。


 焚き火がまた揺らめいて、彼の表情を覆い隠す。「冷血の鬼」なんて言われた人間でも、人としての心は完全に捨てきれないのだから、桜南には土台無理な話だったのだ。つい、自嘲的に口元が綻ぶ。闇は光に暴かれる。どんなに覆い隠したところで、必ずそうなる。


 桜南も、透という陽光に照らされたのだ。


 翡翠が、感情の消えた鮮やかな瞳を上げる。


 「彩」が、動き出した。


「……作戦を伝える。しかと聞け」





 


 

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