第四部「もう一緒にいられなくなるからだね」

第十三章 一





 白いカーテンが揺蕩う。


 窓から差し込む柔らかな光が、病室の簡易べッドに座る少女を優しく祝福している。栗色の髪が揺れる。彼女の幸せそうな微笑みを隠すように。


 欺瞞に満ちた病室にいた。透は彼女の太ももに頭を乗せながら、呆然自失と美しい少女を見上げている。緩慢な思考放棄が、透の意識レベルを微睡みに近しいところへ追いやっているのだ。赤い瞳。香澄の、血の瞳。そこに、虚ろな自分が囚われている。


 飛行機の音が、遠くへ消えていく。


「……冷たい」


 透は、乾いた口を開いた。


 なぜ、そう思ったのかはわからない。ずっと血の気が引いているような感覚がある。窓が開いているせいなのか。窓から見える景色は春のように穏やかなのに、冬のように思えてくる。指先の感覚も足先の感覚もない。凍えているのか。


 香澄の彫像のごとき白い指先が、透の額に触れた。なんどか円を描いて、生え際へと動き、芝生に触れるように髪を撫ぜる。


「……もう少しの辛抱ですよ。すぐに暖かくなりますから」


 くすくす、と笑いながら香澄が温順な声で告げてくる。こんなにも優しかったか? 香澄の声は、もっと冷たかった気がする。


 ああ、わからない。


 何もかもわからない。どうしてこんなところにいるのか、どうしてこんなところで寝ているのかさえ、理解ができない。


 ――俺は、どうしちまったんだ?


 透の頭がわずかばかり香澄の腹側へと動いた。香澄が寄せたのだ。膨らんだ腹部にぴったりと耳がつく。


 小さな鼓動が聴こえた。とくん、とくんと心地よく耳朶を打つその音は、祝福された新しい生命の息遣い。


「ふふ、聴こえますか? 私達の愛がもうすぐ形になって産まれ落ちるんです。神秘的ですよね。兄さんと私の子供なんですよ」


「……こども?」


「ええ。今だけなんですよ。こうやって宿った命を感じられるのは……」


「……なんのことだ?」


 香澄が一瞬目を丸くして、すぐに破顔した。


「なんのことだって、もう……。兄さんったらすぐに忘れちゃうんですから。あれだけ激しく愛し合ったことも忘れてましたしね」


「……」


「でもまあ、仕方ないですよね。壊しちゃったのは私なんですから。記憶障害になってしまうくらい、忘却しておかなくちゃいけなかったことを思い出させてしまったんですもの」


 母様を殺したって、事実をね。


 香澄がそう言った瞬間、透は片目しかない目を見開いた。「あ……あ……」と白痴のごとく小さく呻き、泣き始めた。慟哭と呼ぶにはあまりにもか細い慟哭。しかし、魂からの叫びであったことに間違いはない。


 頭の中に溢れたのは忌まわしき記憶。ハンマーを持ち、狂乱したように咆哮を上げながら母親の顔面を叩いた。人間の顔面はこんなにも凹むんだと思えるほどに。痙攣する指先が動かなくなるまで徹底的に何度も何度も……。


 香澄が泣いていたから。母親に何度も叩かれて蹴られて首を絞められて死にそうだったから。「守らなければならない」と、「救わなければならない」と、思ってしまったんだ。何かに突き動かされるみたいに、いつの間にか手近にあったハンマーを握って、気づいたら部屋が血みどろになっていた。


 返り血を浴びた香澄が、酷く泣き叫んでいた。いや、違う。あれはたぶん嗤っていたんだ。でも、そんなことどうでもよくて。気づいたら透は、血の海の中に倒れていた。


 そこから先が、真っ暗だった。ヒーローを目指した少年の直向きな記憶は、闇を偽る賢明さが作り上げたものなんだと知った。


 残酷な皮肉。


 だって、透は母親を殺されたことをきっかけに、ヒーローになることを志したのだから。





 あまりにも静謐な慟哭が、啜り泣きに変わったころ。


 香澄は震える透を抱き起こし、乾ききって割れた唇に自らのそれを重ねた。しゃっくりを上げる透に熱い息を送り、残った微かな生気を吸い取るように舌を絡め唾液を吸う。歯茎の裏まで撫ぜ回し、口を離した。


 銀の橋が、つうっと落ちていく。血に濡れた透のシャツの上へ。


「上書きしないとね……。もっともっと」


 揺れるカーテンなんて本当はなかった。窓もない。香澄の髪も揺れてはいない。


 薄暗い空間。簡易ベッドにいる彼らは欺瞞の病室にいた。その本当の姿を知っているのは、香澄と傍らで兄妹の戯れを見ていた「不条理ムルソー」だけだ。


 ポタポタ、と床に血液が落ちて波紋が広がる。ベッドの周りは血の海にまみれていた。ずっと流れ落ち続けているのだ、斬り落とされた透の四肢から。


「頂戴イタシマス……。頂戴……イタシ、マス」


 透の四肢の周りには、人の顔をもつ鼠のごとき化け物が群がっていた。肉体が再生する端から喰わせているのだ。透の再生能力は上位者の中でもずば抜けていて、すぐに再生してしまう。かつて「不条理」がしたように、傷口を焼かせ続けて再生を抑える方法は、能力の継続時間を考慮しても現実的ではないし、常に二人の空間に「不条理」を置かなくてはならないからストレスになる。また、以前のように「守護」を脅して傷口を塞がせようとしても、覚醒して完全に透と溶けあった今、力の主導権は透にあるから上手くいかない。試してみたが、あいつは言うことを聞かなかった。


 香澄にとって、もっとも合理的な手段がこれだった。鼠どもの声や咀嚼音が時折煩いのが難点だが、黙らせようと思えば黙らせられるし、なんなら「狂信」の力の応用で感覚を共有して空想した世界に入り浸ればよい。二人の距離の近さや、与えた肉体の量に左右されるが、透とならば側にいれば幻覚さえ見せることができてしまう。これはつい最近気づいた能力の新しい使い方だが、二人で好きな世界に行けるのは本当に便利だ。


 こんなことをする理由は至極単純。


 ――こうすれば、もうどこにもいけないから。


「……父様から力を奪っておいて、本当によかった」


 香澄は小さく微笑みながらそう零した。


 最初は扱いに慣れなくて雑魚を動かすことにも手間取ったが、この数日の間に格段に精度が上がった。澄空の出産が限りなく近づいた影響か。もしくは一度銀城桜南に殺されたことが結果として覚醒を促したか……。


「あのー、僕は帰っていいかな? 血生臭さすぎて鼻が曲がりそうだ」


 「不条理」が手を上げながら、淡々と告げる。


 香澄は冷たい一瞥をくれて、溜息をこぼした。


「……ああ。まだ居たのですか?」


「ちょっとちょっと。先からずっと居たよ。僕への扱いが雑すぎるんじゃないかい? こんなにも身を粉にして働いたのに」


「ご苦労でした。もう下がっていいですよ。これ以上兄さんとの蜜月を邪魔されたくありませんもの」


「……蜜月ねえ」


 「不条理」が、無表情のまま透に目を向けた。


「……なんです? 何か文句でも?」


「いや……相変わらず『殺意』って人を狂わせるなあって思っただけだよ。正気を保っているのは、どうやら僕だけみたいだ」

 

「冗談でしょう?」


 香澄は眉根を寄せて、心底不服そうに言った。


「一度同じ穴のムジナという言葉の意味を調べると良いですよ? そもそも、あなたにだけは狂っているなんて誰も言われたくないと思います」


「えーそうかな。まあ、別にどう思われていたってどうでもいいけどさ。……それじゃ、言われたとおり辞書で検索してみたいからそろそろ帰るね。二人の時間を邪魔するのも面白そうではあるけど」


「思ってもないこと言わないで下さい。感情のない人形の分際で」


 舌打ちをしながらそう言ってやると、「不条理」は死んだ魚のような濁った目を向けて、ひらひらと手を振って消えていった。


 いけ好かない存在だが、殺すのは今じゃない。まだ害虫どもは生きているのだから。澄空が産まれ、用済みとなれば消せばよいのだ。


「……ふふっ」


 香澄は透の髪を梳きながらたおやかに笑う。


 この手に、愛するものを取り戻した。


「あとは、この世からすべての人間が消えるだけ」


 そうすれば完成する。


 二人だけの永遠の理想郷が。


「兄さんの隣は、永久に私だけのものです。私だけのものになるんですよ……」





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