第十二章 四





 瓦礫の山が、がらがらと音を立てて崩れる。


 転がり落ちたコンクリート片。そこからはみ出た異形鉄筋は、まるで溶けたキャンディのように捻じ曲がり千切れている。


 瓦礫の山の中央には、赤いドーム状のものがあった。それはゆっくりと膨れ上がり、やがて風船が破裂したときのような音を立てて四散した。周囲が、光沢のある赤い液体に汚れる。


 壊れたドームから、上に手をかざした銀城桜南が現れた。


「……っ」


 桜南は前のめりに倒れる。激しく息を荒らげながら、大量の脂汗を流していた。


 全身が針で貫かれているみたいだ。たった一回の能力の使用が、拷問のごとく感じられるほどに辛い。


 「破壊」の力を使った反動の凄まじさを骨の髄まで味わいながら、桜南は顔を上げる。異様に重たい首を、必死で動かして。


 状況を把握しようと努めたのだ。だが、桜南はそこに広がる光景を見た瞬間、あまりの絶望に我を忘れてしまう。


「――」


 生き残れない。


 それが、最初に抱いた感想だった。


 半壊したオフィスビルの、積もりに積もった瓦礫の上。そこに、六体の巨人がいた。ゆうに三メートルは超えるであろう筋骨隆々とした体躯に、顔中に巻かれた包帯。羆であろうとも一刀両断できそうな巨大な鉈。そして、その立ち姿から放たれる悪魔的な威圧感――。


 否が応でも思い起こされるのは、先程まで死闘を繰り広げていた暴虐の魔人の姿。見た目は多少違いがあるが、かなりの部分で酷似している。


「……」


 桜南は一瞬で察した。異色香澄が言った「Type―RED」の指し示す意味を。亜加子たちとは、どういうことなのかを。


 あれらは、赤坂亜加子をベースにして生み出された人工的な「殺意」だ。一体一体はおそらく赤坂亜加子よりも劣るであろう。だが、それでもあの凶悪な戦闘力の大部分を引き継いでいることは、あれらから漂う不穏な気配からもはっきりとわかる。


 勝てるわけがない。


 勝てるわけが、なかった。


「……あぁ」


 言葉が出てこない。


 かつて、命の危機は何度も味わってきた。飯沢市がこうなる前から、戦場で、「彩」での任務の中で、渡ってきた死の綱渡りの回数は数え切れない。だが、これほどの絶望……絶対に助からないと確信できる事態は経験したことがなかった。


 異色香澄の薄ら笑いが頭に浮かぶ。かつて将棋で対戦したときに見せた、弱者をあしらう加虐的な眼差し。


 あの女は、本物の魔王だ。


「ア、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!」


 六体の巨人が、一斉に咆哮を上げた。


 半壊したオフィスビルが轟然と揺れる。飛び散る破片、舞い上がる砂煙。殺気が風となって顔を叩いた。濃密な死の気配に息が詰まる。流れ落ちた汗が目に入り滲みる。透くん。思わず心の中で呟く。化け物たちの目が赫々と、爛々と輝く。


 桜南は全身全霊の力を込めて叫び、変身した。


 身体を襲う激痛に耐えながら、桜南は血を集める。悪あがき。だが、悪あがきでもしないわけにはいかない。


 ――せめて、一体でも二体でも殺すんだ。


「ガアアアアァッ!」


 透のために。


 集めた血が、無数の槍へと変わる。頭が万力で潰されているほどに痛い。鼻から、目から、口から血が噴き出した。視界が赤い。能力発動限界と「破壊」の力による反動が同時に桜南の身体を砕く。目が裏返る。意識が飛びそうになる。戦闘機で無茶な機動を繰り返したときのような感じ。砕けるほどに歯を噛み締めて耐える。殺す。殺す殺す殺す殺す殺せ。


 死を賭した桜南の一撃が、化け物たちに襲いかかった。


 だが、すべて空を切り裂くのみ。


 桜南の右腕が宙を舞った。


「――」


 視界が急激に回転した。首を斬り落とされた。左腕が空中で円を描く。その手首と二の腕が左右に吹き飛んだ。ごん、と頭蓋骨から脳に響く衝撃を感じる。瓦礫の上に落ちたのだ。胴体が肩口から斜めにズレていく。腕や首や胴体のあらゆる場所から血が吹き出して赤い雨がふる。赤と黒に明滅する景色。


 化け物たちは、桜南の後ろだ。


 桜南をバラバラに引き裂いて、赤坂亜加子のように嘲笑うこともなく静かだ。


「……」


 雪が、降っていた。


 薄汚れた粉雪が、鼻先で弾ける。死を憂うのは雪だけか。敗北を実感するにはあまりにも呆気なく、あまりにも絶望的で、悔しくも悲しくも怒りも不安も湧かない。空白。まっさら。視界はずっと赤と黒に染まり続けているのに。


 痛みが、ない。まるで痛くない。


 化け物たちが、いつの間にか桜南の頭を囲んでいた。百年杉のように野太い脚が見える。こんな化け物と戦っていたんだ。口から、血の塊を吐いた。かすれた笑い声は、異色香澄のものか?


 いや、違う。自分のものだ。


 殺せ。


 そんな言葉を聞いた気がする。


 ああ、死ぬのか。


 あまりにも冷たい実感。透のために、彼を救うために命をかけてきたはずだった。これまで桜南が失ってきた大切なものを、欲しくても決して手に入らなかった温もりを、透が教えてくれたから。だから、せめて彼だけでも生きていて欲しかった。幸せになって欲しかった。


 たとえ、幸せになる権利を最初から失っていたとしても。


「……あ、ぅ」


 だが、もうどうしようもない。


 この状況をひっくり返す一手などもはや存在しない。詰みに入った。投了すべき状況。


 だが、盤面に横から一手が差し込まれた。


 桜南を囲んでいた化け物たちが、突然叫び声を上げたのだ。空白が埋まり、現実が微かに色付く。化け物たちは全身から血を吹き出しながら苦しんでいる。


 雨が降っていた。ただの雨じゃない。そこら中に散らばるコンクリート片が音を立てて爆ぜている。粉々に砕かれ続けている。


 あれは、銃撃――。


 化け物たちの左斜め上の中空、なにもないところに六門の銃口が生えていた。物理的に有り得ないことだが、そうとしか表現しようがない。空気を震わせる膨大な発砲音。空を焼くマズルフラッシュ。まるで現実味のない光景が、なんの前触れもなくいきなり現れていた。


 奇襲に怯んだ化け物たちが、すぐさま距離を取る。瓦礫の上に着地した瞬間――。


 その足元から無数の腕が伸びた。


 瓦礫の下から紫色の体色をした怪人の群れが現れ、化け物たちに一斉に踊りかかったのだ。次から次へと目まぐるしく変わる状況に、頭が追いつかない。


 さっきまで赤と黒に染まった視界は、気づいたら鮮明になっていて。


 桜南の目の前には、一人の紫色の怪人が佇んでいた。


「アははははハははッ! 死ネ、ゴミどモがあ!」


 紫色の怪人がそう叫んで手を振りかざした瞬間、化け物たちが纏わりつく怪人たちを引き剥がしにかかった。蹴り飛ばされ、鉈に引き裂かれる怪人たち。


 桜南の前にいた怪人が腕を振り下ろす。


 その刹那だった。一匹の化け物が、全身を有り得ない方向に曲げながら頭を破裂させた。


「ちぃ、一匹しカ仕留めラれなかっタか……!」


 紫色の怪人が悔しそうに舌打ちをする。


 化け物たちは、怪人から大きく距離を取っていた。警戒しているのだろう、体勢をやや前屈みにしていつでも行動に移せるように身構えている。


 ――なにが起こっている?


「銀よ……大丈夫カ?」


 桜南は目を見開いた。


 銀という呼び名。それは「彩」における桜南のコードネームであり、本来の名前。その名で自分を呼ぶ人間は限られている。


 声をかけてきたのは、紫色の怪人ではない。ガスマスクのような仮面を被った別の人外。血管の浮き出た筋肉質な人間の身体に、四本の腕が生えていて、どこか怒りを体現した神仏のような見た目をしている。だが、全身に咲いた無数の目と、背中から突き出た大小様々な銃器が神であることを自らに否定している。


 こんな人外は知り合いにはいない。だが、不思議なことに、この人外からはどこか懐かしい雰囲気を感じられた。


「……あな……た、は?」


「今はキサマの質問に答えてイる暇ハない。紫音の『王』の力を使った以上、この場かラ離脱すルことが最優先ダ。ここデ貴様に死なレるわけにハいかんカラな」


「……はな、れる?」


「あア。――オい、紫音鳴花!」

 

 人外の言葉に、紫色の怪人……鳴花は怒鳴り返した。


「偉ソうにすんナ! テメぇに言わレずともわかってんダよ!」


 五体の化け物たちが再び咆哮を上げる。


 鳴花の身体が爆発的に膨れ上がった。果実が出来上がる様子を撮った高速カメラの映像のごとく、その肉塊から無数の怪人が生まれ落ちる。怪人たちは鉈を構える化け物たちを睨み、襲いかかった。


「十秒ともたねェぞ! さっさとしろヤ!」


「わかってイる」


 人外は桜南の頭を抱え上げ、鳴花の分身体を血祭りに上げる化け物たちへ向かって手をかざした。


 突然、隣の空間にひびが走り抜けた。それは音を立てながら徐々に大きくなり、割れ目から巨大な大砲を出現させる。


「……撃テ」


 人外が、命令を下した瞬間。


 轟然と音が爆ぜた。あまりの衝撃に瓦礫が舞い上がり、膨大な爆炎に周囲が包まれる。巨大な爆発に世界は激しく揺さぶられ、残響が耳鳴りでかき消されてしまう。


 人外が、何かを呟いたが聞こえなかった。おそらくは「行くぞ」と言ったのだろう。鳴花が頷き、人外とともにオフィスビルから飛び上がって、別のビルの屋上へと着地するとそのまま風のような勢いで駆け抜けた。


「……ヤツラ、しんだカ?」


 逃げながら、鳴花が人外に尋ねると、人外は首を横に振った。


「あの赤坂亜加子ヲ素体にしタ『人工殺意』ダ。あノ程度デ死ぬとは思えナい」


「そうかヨ。……チート野郎ドもめ」


「……ま、って」


 桜南が、掠れた声で言う。一瞬クリアになっていた視界はまた明滅を始めている。自分でもわかっていた。そろそろ意識を保っていられなくなると。


「……と、おるくんを……かれを、たす……け、て」


「……」


 鳴花が舌打ちを鳴らしたあとに、人外が言った。


「駄目ダ。もう、間にあわナい」


「……そ、んな」


「それに、異色透の居所にハ『不条理』がいル」


「……不条理?」


 なんでやつが? 透が殺したはずだ。


 その疑問には答えず、人外は続ける。


「やつト戦うのハあまりにモ分が悪い。そレに、やつと戦っている間に、ダメージヲ与えた『人工殺意』どモも回復しテ追ってくるだロう。そうなると我々ハ間違いなく皆殺しにされル」


「……」


「わかるナ、銀。いまは、異色透ヲ助けることハできなイ」


「……っ」


 押し黙るしかなかった。人外たちの力がどれほどのものかはまだ計り知れない部分はあったが、それくらいのことは桜南にもわかる。「不条理」と「人口殺意」の背後には異色香澄もいるのだ。無策で助けに行っても返り討ちにされるだろう。


 だが、それでも……。


「お……ねがい……どうか……」


 それでも桜南は、透を救いたいという気持ちを諦めきれなかった。

 

 驚いたように一瞬固まった人外が、何かを告げようとしたときだった。


 桜南の意識が、急速にブラックアウトしていった。真っ黒に蝕まれていく世界。その暗闇のどこかで苦しむ透の姿を思い浮かべ、桜南はそこに手を伸ばしたいと思った。


 透は、桜南にとって光だから。


「とおる……くん……」


 意識が、闇に閉ざされた。


 




 

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