第十二章 二
人は誰しもが幸せになる権利を有していると言う。
ならば、人の幸せになる権利を奪ったものにも、幸せになる権利はあるのか?
そんな慈悲深い神なんていない方がいい。
人を殺した人間は、幸せになってはならないんだ。
仄明るい無数の羽根は、救いを求め散っていく魂のように悲しげで優しかった。
冷たい銀の騎士は、ただ佇む。
世界に数えきれない絶叫を刻んだ救われぬ魂の持ち主を、憐れむわけでも怒るわけでもなく、静謐な眼差しで見下ろしていた。
倒されていた巨人は、泣き叫ぶように咆哮を上げた。液状化した肉片を撒き散らしながら、首と上半身を激しく震わせて立ち上がり、憎悪に満ちた言葉にならない言葉で罵倒する。もはや、亜加子の影もない。
あれは、力に支配された人間の末路。
正しさを「力」だと履き違えた哀れな存在。
救われぬ怪物が、爆発的な勢いでアスファルトを砕いた。飛散した破片が壁を叩くよりも先に、驚異的な速度で銀の騎士との間合いを詰めた。振り下ろされる長大な鉈。壁に当たった破片の粉砕音。膨大な鉄の圧力が頭頂部に迫る。
刃毀れだらけの刃先が額に触れた瞬間――。
怪物の眉間に、拳が突き刺さっていた。
「――」
水風船が爆ぜたかのごとく、黒い体液と血と肉片が飛び散った。怪物はたたらを踏んで倒れる。全身の腐れかかった瞳が驚愕に見開かれ、泣いているかのように血走っていた。巨人は、呆然と顔を抑え、手にこべりついたヘドロのような肉を見て、慄きに声を震わせる。
「あ……アアアアアアアアァ……!」
顔の半分が砕けていた。砕かれたのだ。何が起こったのかわからないと言わんばかりに取り乱す。
怪物からすれば、確実に捉えた一撃だった。亜加子のときにやっていた、じゃれ合いのような攻撃ではない。本気で振るっていた。
だというのに、当たらなかった。それどころかまったく見えない速度で反撃された。まるで、その瞬間だけコマを飛ばしたかのように、いきなり殴られたのだ。
怪物の戸惑いと恐怖は必然と言えた。
「アグ……ギ……! アァ……」
銀の騎士は、拳をゆっくりと降ろし、怪物を再び見下ろした。殺し合いの最中に、間合いの中で、まるで花でも見るような穏やかさで。
力の権化を、虚仮にしていた。
「……ガ、グガアアァァッ!」
怪物は鉈を無造作に振り回した。その一撃一撃が音を超える速度で繰り出され、空気を破壊する衝撃で街が震える。ガードレールが紙のように引き裂かれ、地面が粉砕されて無数の亀裂が走り、外灯がバラバラに千切れ吹き飛ぶ。舞い散る破片が粉微塵になるまで切り刻まれる暴力の嵐――。
銀の騎士は、そのすべてを見切っていた。いくら殺意といえ、人外の動体視力を持つとはいえ、到底見切れるような攻撃ではない。避けきれなくなり、確実にバラバラにされるであろう攻撃が当たらない。銀の騎士に触れられない。
後ろにいた。
「――」
鉈の切っ先が、地面を叩き割った。振り返ろうとした瞬間、銀の騎士が目の前に現れた。速いなんてものではない。最強の身体能力をもつ怪物の目でも追えない。銀の騎士が拳を振りかぶる。反射的に防御しようとして――。
防御できずに、そのまま心臓を貫かれた。
ドス黒い血飛沫が、絶叫とともに残り半分の顔から噴き上がった。
「……ムダなんだヨ」
銀の騎士が、冷酷に告げる。
「俺にハ、すべてガ視えてイる。そして、変えらレるんダ。……万全ノお前ナら分からなかッタが、死にかケのお前にハどうしようもなイ」
だから、お前に勝ち目はない。
銀の騎士はそう言うと、心臓から手を引き抜いた。銀の腕が粘着質な赤黒い液状で濡れて、地面に零れ落ちる。
「……モウ、諦めろ」
「……ゲフッ……ガハッ」
「……亜加子」
「だ、マレ……黙れえええェ!」
怪物は、血飛沫を上げながら渾身の力を込めて鉈を打ち下ろした。神速の斬撃。
それは銀の騎士の身体を真っ二つに引き裂いた。地面に吸い込まれた斬撃が大地を震わす。砕け散った窓ガラスの破片が雨のごとく降り注ぐ中、怪物はたしかに知覚した。
先までコマ送りのようだった、銀の騎士の動きを。
いや、世界そのものが変わる瞬間を――。
巻き戻っている。いや、違う。変わっている。
確実に起こったはずの未来が、変わっている。
切り倒したはずの銀の騎士は、怪物の真横にいた。
「き、ききキサマ……まさ……カ」
これは、権能。
力の結晶たる怪物は、その力を垣間見たのだ。普通なら認識できるはずもない未来が変わる瞬間。
「……イマなラわかる。お前ハ、神ノ領域に踏み込んダ上位者ダったんだナ。だから、オレの力が視えたんダ」
「……」
これは、未来変化。訪れる一秒先の未来を予知し、変えることができる力。
「救済」の殺意の権能だ。
「……お前ノ負けダ」
「ふ、ふざけルな……。私ハ、負けナい。亜加子ノために、正しさヲ証明するんダ。亜加子のたメに、亜加子ノために……」
化け物は、鉈を振り上げる。
「負けてたまルかあああアアアアアアアァァッ!」
鉈の切っ先が、銀の騎士の肩口に重く沈んだ瞬間、確定したはずの未来が動き出す。振りかぶるときの動きに戻り、銀の騎士が固く握りしめた拳が、怪物の腹部に吸い込まれていく。知覚しているのに、どうすることもできない。
幾度目かの血飛沫が、街を濡らした。
「……亜加子」
銀の騎士が、ぽつりと声をこぼした。
「もう、眠るんダ」
「い、ヤダ……。オトウさん……たすけ、て……」
亜加子の声が戻っていた。泣いているような声で、銀の騎士ではない誰かに懇願する。
「……しに、たくナい。死にたく、ナいの」
「……」
銀の騎士は拳を強く握りしめる。
その台詞を言ったものたちに、お前はなにをした? 嗤いながら鉈を振るったんだろう?
そんなことを言うのは、やめてくれ。
「……香澄ちゃン。おとウさ……ん」
「……」
「つめ……たい、よ。なにも……見えない……。なにも……」
怪物の身体が溶けていく。湯気とともに立ち込める、下水と硫黄を混ぜたような異臭。ドス黒く液状化した肉塊から、ゾンビのごとく身体を腐らせた裸体の少女が現れた。
変わり果てた亜加子。傲慢なほどに天真爛漫だった笑顔は影も形もない。半分に砕けた頭から、炎天下に放置されたクリームのようなドロドロの脳みそが覗いている。赤黒いブルーベリージャムのような血が、溶けた組織と混ざり合い、断面のあちらこちらに浮かんで泡を立てボタボタと零れ落ちた。
彼女は、ドス黒い涙を流していた。半分残った瞳は虚ろで、きっと何も映してはいない。
銀の騎士は、拳の力をほどいた。
もう、終わったのだ。
「……」
――もう。
「……み、つるくん」
壊れた亜加子は、名前を呼んだ。舞い散る羽がキラキラと輝きを放つ。まるで、彼女が見ている愛しい人との綺羅びやかな夢を暗喩するように。
亜加子の腕が千切れ落ちた。耳が熟した木の実のようにこぼれた。崩壊したそれらは、骨ごとすぐに溶けていく。黒い肉の海に混ざり、なくなっていく。亜加子という少女が終わりを迎える。
彼女は天を見つめ、小さく嘆いた。
「……幸せになりたかった」
――ただ、それだけだったのに。
最後のその言葉には、崩壊していく亜加子の万感が込められているようだった。
彼女の原型が完全になくなり黒い液体へと変わり果てたとき、銀の騎士が痛みを堪えるような苦しげな声で、ぽつりと言った。
「駄目ダ」
銀の騎士は、俯きながらもう一度口を開いた。
「駄目なんダ。お前は、人ヲ殺した。幸せにナる権利なンかなイんだ」
羽根が散る。空気中で霧散した羽根は微細な粒子となり、キラキラと世界を輝かせた。いつの間にか、銀の騎士の姿が透へと戻っていた。失われた目から血涙を流し、冷たい隻眼で亜加子だったものを見つめる。溢れ出すものを堪えるように、歯をぎりぎりと噛み締めて。
「……ないんだよ、俺たちには。そんな権利なんか、もう」
ここには、正しさなんかなかった。
人殺しが、人殺しの魂を殺すことで救済した。ただの残酷な現実が溶けて横たわっているだけで、透と亜加子が追い求めた形の違う正しさは、もはや死に絶えている。あるいは最初から、そんなものは幻想だったんじゃないか。そんな風に思えもするほどに、この戦いには虚無しかなかった。
粒子が消えた。霧が晴れるように灰色だった世界は、なぜか赤く見えるようになった。倒れた街路樹は、人間の腕が無数に絡み合う趣味の悪いオブジェクトのように変質し、建物の壁には無数の目と口が剥き出しになっている。遠くから木霊するうめき声。今まで視えなかった、一皮剥けた世界の裏側。そこに辿り着いたことに、何の感慨も湧かない。
透は、つぶやいた。
「……借りた漫画、返せなかったな」
なんでそんなことが気になったのか、自分でもわからない。亜加子はよく漫画を貸してくれた。それを読んで感想を話し合うのが、透にとってはささやかな楽しみであった。可愛い後輩だった。本心から好かれていなかったことには気付いていたが、それでも透は直向きな亜加子のことを気に入っていた。
――もし、あのとき亜加子に声をかけてやれば。亜加子の闇に寄り添ってやれていたら。こうはならなかったんじゃないかって思う。
充は、そう後悔を口にしていた。亜加子のことを、暴力と救われない孤独が生み出した怪物だとも言っていた。誰も、彼女を救えなかった。だから、香澄という悪魔に見出され呪われてしまった。
思わずにはいられない。
その責任は、自分にはないのか?
「……」
手が震える。亜加子を殴り、貫いた手。それが分裂して見えたと気づいたときには、透は膝から崩れ落ちていた。深海に沈んでいくような、すべての方向から圧力を感じられる重たさで息が苦しい。
二人も、殺した。
親友だけではなく、可愛い後輩まで――。
「うっ、うううぅぅ……」
溢れだしたのは、苦痛に満ちたうめきだった。涙が止めどなく溢れてくる。次々と重ねられる絶望の深さに愕然とするしかなかった。
こうするしかなかった。こうするしかなかった、こうするしかなかった、こうするしかなかった、こうするしかなかった、こうするしかなかった、こうするしかなかった、こうするしかなかった、こうするしかなかった――。
こうするしか、なかったんだ。
言い聞かせても言い聞かせても、底なしの穴に落ちていくような絶望の感覚は止まらない。
「すまない……すまない……!」
亜加子。
――俺はお前を、救ってやれたのか?
本当は、わかっていたの。
私の求めていた本物の正しさが、力じゃないってこと。
私は、春香先輩が怖かった。
あの人はどこまでも強く、優しかったから。
あのとき、私の力に怯える葉月ちゃんを抱きしめて、震えながら真っ直ぐ自分の意見をぶつけてきた春香先輩。怖かっただろうに、それでも勇気を振り絞って葉月ちゃんを守ろうとした強い瞳。その中に宿っていたのは、たしかな一筋の信念で、私はその強さに気圧された。
自分が縋ったものを否定されるような凄みが、春香先輩にはあったから。
だから、殺した。充先輩に近づいたことが、充先輩を愛していることを隠していたことが許せなかっただけじゃない。私は、彼女の中にある強さを否定したかったんだ。
だけど春香先輩は、充先輩に銃口を向けられてなお、その輝きを失うことはなかった。「撃っていいよ」と優しく充先輩に告げた彼女をみて、私は心底怖いと思った。
わかっていたんだ。
あれこそが、私が本当に欲しかった正しさだった。お父さんが本当に教えたかった正しさなんだって。
どんなに追い込まれてもどんなに辛くても、人への思いやりを忘れず、自分の信念を貫く。力なんてなくとも、それができること――。
ああ、私は春香先輩みたいになりたかった。
そうすれば、暴力を振るわずとも充くんをいつか振り向かせられたのかもしれない。
力なんて寂しいものに頼らなくてよかったのかもしれない。
こんな、醜い化け物にならなくてよかったのかもしれない。
お父さん。
そして、充くん。
ごめんなさい。
私は、間違えてしまいました。
ただ、幸せになりたかった。正しく生きて、愛する人と結ばれて、シワシワのお婆ちゃんになるまで直向きに生きたかった。
充くんと手を取り合って。
春香先輩のように、強く生きたかった。
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