第十二章 一



 


 人殺しの見る世界は、荒んだ色をしているに違いない。


 そう思っていた。


 


 

 たった一人の親友を、殺した。


 残骸となった充は、無くなった頭から噴き出す血に汚れながらも、全身を無数の赤い針で貫かれながらも、なお彫刻のように白く美しい。サモトラケのニケを思わせる、欠落した悲哀を漂わせる静謐さがある。命の躍動をたった今失ったばかりなのに、充のぬけがらはまるで芸術のごとき佇まいをしている。


 淀んだ色をしていない。


 まるで精彩を欠いていない。


 その事実は、あまりにも残酷すぎた。


 ふわりと流れ込んできた雪が、透の顔に幾度となくあたっていた。頬に触れ、髪にさわり、雪は透の中へ消えていくように溶けた。


 異様なほどに重たい首を動かして、充を粉砕した拳に目を落とす。ああ、震えている。赤黒い命の残滓に濡れたまま――。


「……充」


 思わず名前を呼んでしまう。残骸から返事など来るわけがない。


 血生臭い風が、透たちの間を通っていった。


「……と、おるくん」


 桜南の声がする。ズルズルと音がするのは、這って近づいてきているからか。


 桜南の方を見ることができない。自分が酷く汚れたものになったように感じられて、桜南を見るのが怖かった。


「……俺は」


 殺した。


 充、お前を――よりにもよって、お前を。


 殺したんだ。


 透は頭を抱えてうずくまると、呻き声を上げ始めた。濁流のように襲いかかってきた思いと感情に押し潰されて、心が、ぐちゃぐちゃになっていく。


 充との思い出が、頭の中を駆け抜けた。ジャングルジムで歌う充の姿が、透に褒められてはにかむ綺麗な表情が、お菓子を横取りして悪戯っぽく笑う顔が、ときおり寂しそうにしている横顔が、空手の試合で戦ったときのことが、バンドを組んで舞台で汗を流す真剣な輝きが……。


 透にとって充は憧れであり、かけがえのない光そのものだった。


 声にならない慟哭を上げた。死にかけの獣の口から放たれる痛々しい叫びのような、聞くに堪えない絶望的なそれは、壊れたオフィスを激しく揺さぶる。


 なぜこんなことに。


 なぜ、こんなことに――?


 わかっているのに疑問がやまない。なぜ、なぜ、と充を殺した現実を打ち消そうとするかのように、心が勝手に叫びに等しい問いを発する。


 頭を地面に打ち付けた。拳を叩きつけた。何度も何度も。自分を罰するように。


 絶望に耐えきれない。


「……やめ、て」


 か細くて遠い桜南の言葉は、透の耳に届いても心に触れることはなかった。


 もう、駄目だ。正義の味方になんてなれない。幸せになることも叶わない。許してくれ、充。許してくれ、桜南。許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ――。


「……おねがい、やめ……て」


 桜南が口から血を吹き出しながら、必死に呼びかけたときだった。


 割れた窓の外にある景色が消え失せた。灰色の街の情景は陰り、現れたのは巨大な異形の姿。


 赤坂亜加子。


「――あ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ」


 破滅的な叫びを上げながら、亜加子が透へと手を伸ばしていた。呆然とする間もなく、透の身体は巨人の手に包み込まれる。プレス機に挟まれたような万力で、全身の骨が軋んでバキバキと音を立てた。


「かはっ……!」


 血を吐き出しながら透は暴れた。だが、びくともしない。亜加子の全身は、桜南の権能によって肉が溶解して崩れているはずだ。しかし、そんなことを意に介さないと言わんばかりに、亜加子の力はいぜん破壊的なほど強大だった。


「……そんな、馬鹿な。破壊の力を……くらったのに……」


 桜南が驚愕に声を震わせている。立ち上がろうと必死に力を込めているようだが、力が入らないのか、糸の切れた人形のごとく倒れた。


「ヨくもっ……よクも、センパイをヲヲヲヲヲヲヲヲああああああ――ッ!」


「――」


「――コろしてやる。裁きヲ、裁キをあたエてやる……!」


 透の視界は、急激に変化した。オフィスビルの崩れた内観は消し飛び、灰色のビル群と空が開けたかと思うと、一気に下へ下へと流れ行く。冷たいアスファルトの地面が一挙に押し寄せてくる。


 飛び降りたのだと気づいた瞬間には、透の身体は地面に叩きつけられた。着地する寸前に、投げつけられたのだ。アスファルトに、巨大な亀裂が走り抜け、透の身体は何度も何度もバウンドする。全身がバラバラになったような衝撃。吹き飛びながら車を弾き飛ばし、ガードレールを引きちぎり、建物の煉瓦の壁に叩きつけられた。


「――アガッ」


 息が、できない。かわりに血が口から吐き出された。鈍器で殴られ続けているかのような鈍い激痛が、身体中の神経を狂わせる。やまない耳鳴り。首が変な方向を向いたまま動かない。


 赤い視界の端に、近づいてくる巨人の影。


 透は、失いかけた意識をどうにか動員させて、自身の肉体を変化させた。膨張する肉体はブラックナイトの姿へと変わり、超再生が発動する。一挙に鮮明になる視界。振り下ろされる寸前の長大な鉈。


 右に飛んだ。爆発的な轟音。粉砕された煉瓦の破片が散弾のように飛び散り、看板や街路樹を吹き飛ばした。削りとられた樹木が倒れ、車が下敷きになって潰れる。


 鳴り響く、車のアラーム音。


「……くっ」


 どうにか攻撃をかわした透だったが、膝をついてしまった。破片が当たったわけではない。先ほどから力を使いすぎて、身体はとっくに限界を超えている。疲労のせいか、震えが止まらない。


 砂煙の中から亜加子が現れた。スライム状に肉体が溶けていて、腐れた肉片がボロボロと地面に落ちている。あちこちから骨や内臓が剥き出しになっていて、まろび出た小腸を犬のリードのごとく引きずっていた。包帯のなくなった顔はひどく醜い。目や鼻や口の位置が歪に配置された福笑いのごとくズレている。肉も溶けているから、なおさら見られたものではなかった。


 死にかけの化け物。そうとしか見えないが、この世の不吉をすべて孕んでいるかのような、邪悪な迫力はまったく衰えていない。


「……あ、あっ。ああアァア。よくもよくモ充センパイを。私の大切ナ人ヲ……奪ったナ。かえせ、かえせ……。センパイを返せ……!」


 化け物は、口から黒い液体をまき散らしながら叫んだ。


「あノ人は、私の光なンだ……。あの人ガいないト、わわ私ハ……私たちノ夢は叶わナいの……」


「……夢?」


 つぶやくように聴き返してしまう。


「……私ハ、充センパイと幸せニナルんだ」


「……ハ?」


 ――幸せに、なるだと?


 透の意識が、黒く停止する。


 あれだけの人間を大量に虐殺しておいて? 春香を充に殺させておいて? 好意を寄せていたはずの充を化け物にかえておいて? 


 充のことを、死を望むほどに追い詰めておいて――?


 あれだけのことをしておいて、幸せになるだと?


「……どの口ガ言うンだ?」


 透は、拳を固く握りしめながら言った。


「テメェは、どの口デそんなコとが言えルんだっ! お前のセいだろうガ! お前ガ、充ヲ殺しタんだろうがっ!」


「だ、ダダだまれ……。こ、殺したのはお前だ。お、オお前さエいなけれバ……お前サえいなケれば……私たチは永遠に生きラれた。……充くんハ私ノものだったンだ。……どうシて、お前ばカり、私の大切なものに好かレるんだ……。許さなイ、許さない許さない……」


「……」


「さ、ささ裁いてやル。私ガ……オレが、亜加子の代わりにお前ヲ裁いテやる。オレの亜加子を……こんなにモしやがっテ」


「……そうかヨ」


 亜加子の声が変わった。壊れたラジオから流れる少女のような声は、男のものになっていた。だが、その正体に思いを巡らせる意味も必要もない。こいつは救いようがない。香澄と同じで、堕ちるところまで堕ちてしまっている。


 それが分かっていれば十分だった。


「……」


 だが――充は言った。


 亜加子を、倒してすくってほしいと。


 救いようがないほどに邪悪に染まっていても、それでもなお可愛がっていた後輩の救済を望んだ。外道になった亜加子を、これ以上道を踏み外したままにしないでおいて欲しいから――。


 透は、細く長い息を吐いた。


 救わねばならない。


 この救いようがない悪魔を、救わねばならない。


 充のために――。


「……」


 その瞬間だった。


 突然、透の肉体が膨張した。奈落に落ちていくかのように、真っ黒に染まる視界。闇を見つめていると、遠くから光が溢れて透の身体を貫いていくように駆け抜けていった。冷たくて、悲しい光。何かに縋りつき、祈る人々の姿が視える。いつの時代か、どこの人々かさえわからない。何に祈っているのだろうか。そう思った瞬間、光景が反転する。人々が血溜まりの中に倒れ、叫び泣いていた。苦悶の表情が累々と重なっている。だが、その腕はすべて天へと伸びていた。


 その先にあるのは、赤ん坊の姿。


 光が消えた。さっきまで見ていた光景がさらに切り替わる。


 荒廃した大地の中で、うずくまる何かがいた。それの正体はすぐにわかった。ブラックナイト。透がそう定義づけている、ただの怪物。


 ――オレを嗤いに来たのか? 坊や。


「……なんのことだ?」


 ――オレは、あの女に欺かれていた。オレはオレが何者かを理解しているつもりだった。オレこそが真の「王」に相応しい、世界を支配する「絶望」の力の持ち主だと信じていたんだ。


 化け物は、自嘲するようにクツクツと声を鳴らした。


 ――だが、違った。オレは、やつの腹の中にあるものの従者に過ぎなかった。やつは、こうなることを見越して、オレの記憶を改ざんしていやがったんだ。……なんのために「守護」の力を奪ったんだかな。


「あんたの言うことは、さっぱり分からない」


 透は冷たい声で言った。


「俺はあんたに興味もないしあんたが嫌いだ。だから、あんたがイジケている理由にも興味がない。だけどな……認めたくないけど、あんたは俺だ。俺はあんたに頼るしかないんだよ」


 ――それで? いまさら何を望む?


「わかってんだろ?」透は短く言って続けた。「力だ。力を貸してくれ。あいつを倒せるだけの力を」


 ――そんなもの、オレにはねえよ。


「あるよ。俺にはわかっている。あんたの本当の力を俺に貸してくれ」


 化け物は、六つの目でこちらを睨めつけてきた。


 ――バカが。オレ自身ですらオレの本当の力がなんなのか分かっていないんだぞ。……だがな、これだけはわかる。オレの力は、お前さんをかならず破滅に導く。あの女が、オレの記憶を改ざんしてまで隠そうとした力だ。どうなっても知らんぞ?


「……使わなきゃ、どの道亜加子に殺される。桜南も命をかけたんだ。なら、俺も命をかけてでもやつを倒さないといけない。たとえ、どんな力であってもな」


 いいから手を貸せ、ブラックナイト。


 透がそう言うと、化け物は幽鬼のごとくゆらりと立ち上がった。口元を妖しく歪めて、ゲラゲラと笑う。


 ――オレの知ったことじゃねえ。もう、どうなろうがどうでもいい。好きにしろ。


 お人好しのイカレ野郎が。


 ブラックナイトは、そう吐き捨てて荒廃した世界ごと姿を消した。






「……」


 暗転した世界は、一瞬で灰色の街へと姿を戻した。身体を崩した亜加子が、立ち止まって透を見つめている。いや、呆然としている。


 膨張した肉体は、一挙に収束して形を変えていた。

 

 それは、人ならざる人の形をしていた。


 白銀のプレートアーマーに包まれたそれは、ロマンス文学に出てくる騎士のような見た目をしていた。メタリックで芸術的な機能性を感じさせる無駄のないフォルムは、非人間的な冷徹さがある。これまでのブラックナイトにあった暴力的な躍動感はない。体表に浮き出ていた血管も、所々にのぞいていた隆々とした筋肉も見えなくなっており、生命の息吹を押し殺しているような印象さえもあった。


 銀の騎士は俯いていた。


 冷たい気配を漂わせながら。


「……あ、あああア! だから、ドウしたぁ!」


 我に返った巨人が、風のような勢いで鉈を振りかざしながら接近してきた。一瞬で間合いに踏み込まれ、袈裟懸けに鉈を振り下ろしてくる。


 鉈が、銀の騎士の肩口を捉えた瞬間――。


 巨人の身体が、街路樹を圧し折りながら吹き飛んだ。


「――」


 倒れ伏した巨人が、驚愕に固まっている。何が起こったのか理解できないと言わんばかりに、身体中の腐りかけた目が、銀の騎士を見つめていた。


 銀の騎士は、拳を振りかざした姿勢から体を戻して、静かに巨人を睨んでいた。半分失われた六つの目が、凪のように澄んだ青を称えている。


 銀の騎士の身体から、白い光が放たれた。それは粒子となって広がり、羽根の形へと収束して宙を漂う。無数の羽根が、残虐な世界を呪わしいほどに祝福する。


 その姿は聖性の具現化に等しい。


「……教えテやる」


 銀の騎士は、冷たく告げた。


「お前にハ、幸せを望む権利なんかないってことヲ」


 

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