第十一章 五


 



 チョキン、チョキン……。


 チョキン、チョキン……。


 チョキン……。


 お腹の中で響く、命を切り落とす音。


 溢れ出す涙とともに、私は初めて殺意を抱いた。


 ――絶対に、許さない。







「正義のヒーローが悪に対して拳を振りかざすのは、力なくして対話が望めないからです」


 香澄ちゃんは、螺旋階段を降りながら語る。


 やけに長い階段だった。階段の周囲は本棚で埋め尽くされていて、数え切れないほどの書籍が並べられている。まるで香澄ちゃんの人間離れした知性を象徴するかのように。一生かかっても読み切れないであろう本の群れに溺れる気持ちになりながら、私は彼女の後ろについていく。


「正義を貫き通すには力が要ります。力なきものの言葉には、誰も耳を傾けません。国家が警察や軍隊を有するのは、そうしないと治安を維持できず、国の安全を守れないからです。いつの時代も変わらない。力による抑止で、人間は統率されています」


 香澄ちゃんは、指先を一冊の本に添えて微笑む。この世で一番秀麗な横顔といっても言い過ぎではないと思う。


「人間は利己的で愚かな存在ですからね。言葉だけで言い聞かせることは不可能に近い。『万人の万人に対する闘争』というホッブズの言葉はあまりにも有名ですね。授業で聞いたことがあるでしょう?」


「……知らない。私、社会苦手だし」


「そうですか。『人間は自然状態……つまり法律も国家も政府もなにもない状態だと、自分の利益のためだけに闘争を始める』という人間不信的な考えのことです。だからこそ、国家による統率や法の支配を必要とするとホッブズは唱えたのです。いわゆる『社会契約』という概念の一つですね。高校入試にも出ますから覚えておくとよいですよ」


「……そうなんだ」


 香澄ちゃんの説明は、私の学力レベルに合わせてくれたもので、平易で分かりやすかった。


「そして、先程も言いましたが、国家の支配と法律は力があることが前提になっています。力なき法律、力なき規則には強制力が生まれないからです。六法全書はただの紙切れでしかなくなります」


 だからこそね。


 香澄ちゃんがこちらを振りかえった。


「正義は、力あるものに宿るのです」


「……」


「あなたは、そのことをよく分かっているでしょう?」


「……わからないよ」


 私が目を逸らしてしまったのは、分かっていたからだ。


 どれだけ正しく振る舞おうとも、どれだけ正義を信じようとも、すべて暴力で抑え込まれてきたから。反論したくともできない。弱者を守るための法律であり、弱者のために正義があるとお父さんは言っていたが、それは権力の傘が酸性の雨から私たちを守っているからこその正義に他ならない。


 力に担保されなければ存在できない。それが、正義――。


「嘘ですね」


 香澄ちゃんは、ころころと笑う。


「あなたが、分からないわけがない」


 図星をさされても不思議と腹が立たないのは、香澄ちゃんの眼差しがあまりにも優しかったからだ。血の色をしているのに、私の苦しみに寄り添うような温順さがある。


 香澄ちゃんは、私の様子を伺いながら少し間をおいて口を開いた。


「正義とは、強者の理性に託された脆弱な理念です。意志のあるライオンの牙みたいなもの。いくら規制し、いくら監視体制を繕おうとその本質から逃れることはできない。だからこそ、正しい人間のもとに託されなくてはならない。いいですか、亜加子ちゃん」


 ――あなたは、選ばれたんですよ。


「……選ばれた?」


「そうです」


「一体、なにに?」


 香澄ちゃんが、本棚から一冊の分厚い本を取り出した。六法全書だった。お父さんの部屋にも誇らしげに飾られていた司法の叡智を、香澄ちゃんは懐から取り出したナイフで突き刺した。一度だけではなく、何度も何度も。


 唐突な事態に唖然としつつも、私は見惚れていた。冷めた表情で六法全書をバラバラにする香澄ちゃんと、舞い散る紙切れに。


 ああ、殺すつもりなんだ。


 私が囚われてきた、紙切れに等しい正しさを。


 ナイフを止めた香澄ちゃんが、言った。


「正義の執行者です」


「執行者……?」


「強大な力を持つ、正義の執行者。――あなたはこの先で生まれ変わるのです」






 香澄ちゃんに溶けていく気がした。


 長いながい螺旋階段を降りていくたびに、私は白衣を着た香澄ちゃんの後ろ姿から目を離せなくなっていた。


 出会ってから二週間も経っていないのに。どうして私は、この人のことを好きになっているのだろう? 充先輩に抱く感覚とは似ているようで違う好意――。


 たしかに香澄ちゃんは私を助けてくれた。中絶のための病院も斡旋してくれて、家族にバレないように取り計らってくれたし、その上治療費まで立て替えてくれた。恩しかない。どうして、面識のなかった私のためにここまでしてくれるのか分からないけど、それでも彼女の厚意は本当に嬉しかった。


 死ぬことを止められた恨みなんて、すぐに消え失せるほどに。香澄ちゃんは、信じられないくらい親身に私のことを気づかってくれた。私の苦痛も悔しさも悲しみも怒りも、すべて受け止めて……私に寄り添ってくれたんだ。


 たぶん、香澄ちゃんが初めてだからなんだと思う。


 私の理解者になってくれたのが。


「……ふふ、付きましたよ」


 香澄ちゃんの言うとおり、階段は終わりを迎えた。いったいどれくらい降りてきたのだろうか。十分……いや二十分? かなり深くまで潜ったことは間違いない。


 カンテラの光に照らされた怪しい空間。本棚と古びた机と椅子以外なにもないかと思ったが、奥の方に扉があった。


「……ここって、香澄ちゃんの家の地下だよね? いったい何があるの?」


 そう、ここは異色家のお屋敷の地下だ。笑っちゃうくらいの広大な敷地にあるお屋敷。その一室にある暖炉の裏にあった隠し階段から入ってきた。


 まるで探偵小説のようなギミックを乗り越えて、辿り着いたのは怪しげな場所。私はいったい何を見せられるというのだろうか?


「答えはこの先にあります」


 香澄ちゃんは扉の取っ手に手を添えて、ゆっくりと開けた。軋んだ音を立てて開いた扉からまばゆい光が漏れ出してくる。


「さあ、入りましょうか」


 その先に広がっていたのは、礼拝堂だった。


「……え?」


 瞬きを繰り返す。


 地下にあるとは思えないくらい広い礼拝堂。体育館くらいの奥行きと高さがあるその空間は、無数の装飾された柱が伸びていて、照明の光がさんさんと降り注いでいる。整然と並べられた長椅子にはたくさんの黒いローブを被った人々が座っていて、奥にある祭壇を見つめていた。


 赤い絨毯の先にある祭壇には、十字架も神様の像もない。ただ、白いローブを被った男性が一人いるだけだ。


 その男がこちらに目を向けた瞬間、椅子に座っていた黒装飾の集団が一斉に振り返った。


「おお、聖母様……」


「なんと麗しい姿か」


「本日も我らに救いをお与えください……」


 手を合わせてブツブツとつぶやき出した黒い集団。信者だろうか? 気味が悪くて肌が粟立つのを感じる。


 なんなの、ここは――?


 聖母様って一体なんのこと?


「……行きましょうか、亜加子ちゃん」


 まったく動じた様子もなく、香澄ちゃんは口元を緩めながら私の手を引いて歩き出した。拝んでくる信者たちの間を通り過ぎていく。


「ちょ、ちょっと待って! なんなのここは?」


「ここは『無色の会』の礼拝堂です。私たち異色家が運営するキリスト教系の宗教法人ですね」


「な、名前は聞いたことがあるけど……。なんでそんなところに?」


 あまりにも訳の分からない状況で、頭がついていかない。『無色の会』の名前は、テレビCMでも見たことあるから知っているけど、なんでそんなところに連れてこられたのかも分からないし、地下に礼拝堂がある意味もわからない。


「……も、もしかして勧誘する気? 最初からそのつもりで、私に話かけてきたの?」


 刃物で貫かれたような痛みが心に走り抜ける。裏切られたような気持ちと、警戒心がふつふつと頭をもたげてきた。


 香澄ちゃんは立ち止まり、訝しげにしている私に変わらない微笑みを向けてきた。


「違いますよ。そんなことはどうでもいいんです。あなたを信者にしようなんて気は毛頭ありません」


「なら、こんなところに連れてきたのはなんでなの? おかしいじゃん! 私の頭が悪いからって、簡単に引き込めるとでも思ったの? こんな人の弱みに付け込むようなやり方をするなんて、酷いよ! 信じていたのに!」


「……まあ、いきなりこんな胡散臭いところに連れて来られたら誰だってそう思うでしょうね。ごめんなさい、亜加子ちゃん」


 香澄ちゃんは頭を下げて、私から手を離した。


 私は無意識に数歩下がる。


 お香だろうか。芳しい匂いが辺りに漂っていることにようやく気づいた。「聖母様」と言う小さく押し殺した声が、香澄ちゃんに向けられていることにも。身体をさらに引いてしまう。


「……でも分かってください。あなたが選ばれた力はね、特別なんです。彼が会いに来ることを望んでいるので、ここに連れて来るしかなかったんですよ。……それに、ここだと処理も楽ですしね」


「……なんのこと? わけわからないよ」


「わかりますよ、すぐにね」


 香澄ちゃんはそう言うと、懐から何かを取り出した。


 あれは、ペトリ皿だっけ……? 生物の授業とかでよく使われるやつ。


 その中に、黒く細長い物体が入っているのに気づいた瞬間――。


 音が、消えた。


「――」


 突然の静寂。真っ黒に染まる視界。礼拝堂も信者たちも香澄ちゃんさえも消える。宇宙空間に投げ出されたような浮遊感。訪れた闇に呆然とする間もなく、膨大な光が広がった。走馬灯のように駆け抜けていくのはこれまでの記憶。お父さんとお母さんと手を繋いで歩いた遊園地。充くんとの出会い。お父さんと遊んだ河川敷。酒に溺れるお父さんとお母さんの泣き叫ぶ声。暗い黒い写真。お父さんが死んだ。葬式。お母さんの冷たい思いやり。部屋の前まで来た悪魔。あいつに襲われた。揺れる影はどうでもいい人たち。私を無視した人間たち。そして、充くん――。


 私の首を締めて、射精する化け物。


 微かな喜びと膨大な恐怖と苦痛の先に現れたのは、異様な空間だった。無数の天秤が飾られた石畳の部屋。首のない亡者たちが累々と重なる山が中心にあって、それを囲うように等間隔に並べられたさらし台には苦痛に歪みきった生首が、蝋燭を咥えさせられながら置かれている。


 その山の頂上に、巨人がいた。


 三メートルは超えそうな、筋骨隆々とした人型の怪物。


 ――ああ、知っている。


 確信があった。なにが起こったのかまったく分からないのに、戸惑いが湧かない。恐れもない。ただ凪のように静かな感情と、ふつふつと遅れて湧いてくる懐かしさ。もう会えないと思っていた大好きな人が、目の前に現れたんだ。


「お父さん」


 違う、私なんだ。こいつは、私だ。


 でも、そこに宿る魂は、たしかにお父さんの形。


 私の、正しさおとうさん


 ――待っていたよ、亜加子。


 お父さんの声で、私が私を慈しむ。


 ――私が、お前を苦しみから解き放ってやろう。力という正義の執行をもって。


 正しさおとうさんが、掌をかざした。


 そこに発せられた光は、天秤の形をしていた。


 ――殺すんだ。正しさのために。


 世界が一気に暗転する。


 礼拝堂が戻ってきた。私は膝をついて、息を切らしながら地面を見つめていた。とめどなく溢れ出す汗が、赤い絨毯を濡らしていく。


「……お帰りなさい。彼には会えましたか?」


 香澄ちゃんの労うような、柔らかい声。


「……あれを、見せようとしていたの?」


「ええ」


「……変なことを言うかもしれないけど、あれは私だよね?」


「そうですよ。あなたそのものであり、あなたの得ようとしている正義です。力という正しさです」


「あれが……?」


 手の震えが止まらない。こぼれ落ちていたものが汗だけではないことは、滲む視界が教えてくれた。私は泣いている。泣いているんだ。だって、こんなの……こんな経験、したことがない。充くんの歌を初めて聴いたときよりも深い深い感動に、打ち震えている。深層心理の底の底まで掘り起こし、私という存在のすべてを裸にしたような開放感。


「……すごいな」


 拍手をしながらこちらにやってきたのは、祭壇に立っていた白装束の男だった。


「お疲れ様です、父様」


「……彼女が、『エクスキューショナー』の器か。私の導きがないのに『へその緒』を見ただけで悟りに至るとはな」


「やはり、亜加子ちゃんは特別ですね。最強の『殺意』に見出されただけはあります。……ふふ、さすがは私の親友です」


「後は『へその緒』を受け入れ、通過儀礼を終えるだけだな」


「そうですね。そちらの準備は滞りなくできていますか?」


「ああ、問題ない。いつでも大丈夫だ」


 白装束の男は、どうやら香澄ちゃんのお父さんのようだ。二人の会話の内容はさっぱり理解できない。私に対して何かをしようとしていることだけはわかるが、そんなことどうでも良かった。


 私が視たものは、私が出会ったものは、革命そのものだった。


「……さて」香澄ちゃんが、私に手を差し伸べてきた。「最後の仕上げをしますよ、亜加子ちゃん。あなたは、これから正義を執行するのです」


 顔を上げた先。祭壇の奥から黒装束の男たちから引っ張られてきた二人の人間。腕を拘束され、頭に袋を被せられて自由を奪われている。暴れ狂い、低くうめき声を発する彼らが誰かはすぐに分かった。分かってしまった。


 チョキン、チョキン……。


 鋏の音が、お腹の内側から響いた気がした。


「……」


 私は、香澄ちゃんの手を取ってゆっくりと立ち上がる。


 ペトリ皿の蓋が開かれた。


 獲物に襲いかかる蛇のように、私の首と頭に巻き付いた黒い紐状の物体を、私は冷めた気持ちで受け入れる。目を閉じると、そいつは私の耳から頭の中に入ってきた。鼓膜が破れ、肉を抉られ、血が溢れているはずなのに、まったく痛みがない。黒い物体が私と同化していく。頭の中でハンバーグをこねくり回しているような、ぐちゃぐちゃとした感覚が、なぜか気持ちいい。


 香澄ちゃんが、無言で何かを差し出してくる。


 分厚いナタだった。


 私はそれを受け取って、祭壇へと進む。


「……わかったよ」


 お父さん。


 本当の正しさが、何かを。


「……袋を取ってください」


 黒装束たちが、二人の袋を外した。


 チョキン、チョキン……。


 自分の目が血走るのを、はっきりと感じた。そいつらは、私を苦しめた二人だ。息を切らして、目を白黒させながら周囲を見渡して、ギャーギャーなにかを叫んでいる。チョキン、チョキンと。チョキン、チョキンと。そいつらの声がハサミに聞こえて仕方がない。私のお腹の中を掻き回した、あのハサミの音に。


 チョキン、チョキン、チョキン……。


「……亜加子?」


 お母さんが、私の名前を呼んだ。


「……」


「……あんた、なんでこんなところに? これはなんなの? この人たちは誰? あんたと何か関係があるの?」


「……」


「どうして何も答えないのっ!? なんとか言いなさい」


「……あんたのせいで」


 私の声は、ドス黒い怒りで震えた。


「……あんたが、こんなやつを連れてきたから。私は……私は……」


 ナタの取っ手が軋んだ。ヒビが入る。


 私は、顔をもう一つの間抜け面に向けた。クズ野郎。私を弄び、私を痛めつけ、私の尊厳を傷つけ続けた醜い化け物。


 そいつは、怯えていた。ガタイのいい身体を、まるで捕食される直前のウサギのように震わせている。気色が悪い。「あ、亜加子ちゃん……」と甘えた子供のような声を出して、整えていない眉毛を八の字に曲げて、引きつった笑顔を浮かべている。


「こ、この人たちは亜加子ちゃんの知り合いかい? な、なら……私たちを解放するように説得してくれないか……? こんなの正気じゃない。今なら穏便に済ませられるから……」


 正気じゃない?


 どの口が、それを言うのだろう?


 礼拝堂の光が、点滅した。地下のはずなのに、どこからか風が入ってきて、柱に括り付けられていた旗が揺れる。


 影。私の影が、蠢いた。巨人の姿を形造りながら。


 ――ああ、そこにいるんだね。


 すぐそばに、私の正しさが。


 私は、ナタを振りかぶった。


「お、おいっ! 何をする気だ! やめろ! やめるんだ! 金ならいくらでもやる!」


「……うるさい」


 ハサミの音が、響くんだよ。


 私は、醜い化け物の肩口にナタを叩きつけた。


「ぎ――ぎゃあああああああああああっ!」


 血がドバドバと溢れ出た。刃が肉にめり込む感覚と、鎖骨の砕ける音が私の手から全身を広がって、得もいわぬ甘い痺れを走らせる。口元が勝手に吊り上がって止まらないよ、お父さん。


 独楽みたいに暴れ狂う怪物。恐怖に支配されたお母さんの絶叫。ああ、なんて……なんて甘美なんだろう。罪を裁いている。私は、いま正しいことをしている。正しい。正しい。正しい正しい正しい正しい正しい正しい正しい正しい正しい正しい正しい正しい正しい正しい正しい正しい正しい正しい――。


 私は、正しい。


「……ひ、ひぐっ……痛い、痛い。やめてくれっ! やめてください! いままでしたことが許せないんだろ!? 怒っているんだろっ!? 謝るから、謝るからっ! 謝りますからぁ!」


「腕の拘束、解いてください。で、地面に腕を押さえて。斬りますから」


 化け物が叫んだ。許してください許してください。ハサミの音だ、全部。耳障りで仕方ない。


 黒装束たちが腕を押さえてくれた。


 それに、ナタを叩きつけた。


「――っ」


 声にならない叫び。釣り上げられたばかりのサメみたいに暴れ狂う化け物。一度では腕が落ちなかった。あいつの股辺りから湯気があがっている。粗相をしたようだ。汚いな。


 真っ赤な液体を噴き出しながら、傷口から骨を晒すそれに、二撃目を叩きつける。太い枝が折れるような感触とともに、腕が転がった。さらに暴れる馬鹿。


 私は、千切れた腕を踏みしめる。


 この手で。この手で、なんど私を殴ってきた? なんど私を押さえつけて犯してきた? 


「亜加子ぉっ! やめてぇ、やめなさい! 私はあんたをそんな子に育てた覚えなんてないわっ!」


「育てられた覚えなんてないよ?」


 お母さんが押し黙った。


「……それどころかさ、助けてもくれなかったじゃん。真冬に外に出されたときも、家に入れてくれなかったよね? ご飯だっていつもいつも余りものばかり」


「……そ、それは」


「黙っててよ、お母さんは」


 私はナタの切っ先をお母さんに突きつけて笑った。


「ああ、そうだ……。お母さん知らないもんね。教えてあげるよ、こいつが私に何をしたのか」


「……」


「私、妊娠させられたの」


「……え?」


「聞こえなかった? うるさいもんね、こいつの叫び声……。妊娠させられたの! こいつから! 無理やり犯されて!」


「……そんな……嘘よ」


「嘘じゃありませんよ」


 後ろから香澄ちゃんが言った。


「私たちの病院で、亜加子ちゃんの中絶をしましたから」


「そういうこと! こいつのせいでね! 私は苦しんだの! ずっとずっとね……ハサミの音が頭から消えないんだ……。知ってるお母さん? 部分麻酔ってね、切られた感触が分かるんだよ」


「……あ、あんた! 亜加子になんてことを!」


「ち、違う! 私はそんなことしてないっ!」


「あんたのせいなのね! 亜加子がこんなことをするのは……! 謝りなさい、謝りなさいよ! この鬼畜!」


「どうでもいいから」


 醜い争いなんて見たくない。


「……謝られたくらいで済むならさ、最初からこんなことしないでしょ? これはね、裁きなの。そいつは罪を犯したんだから、相応の罰を受けないといけない。だから殺すの」


「……ひっ」


「私の正しさが、そう言っているから」


 振り下ろした。


 振り下ろした振り下ろした振り下ろした振り下ろした――。


 面白いくらい赤いしぶきが上がって、あちこちが廃油みたいな血で汚れた。頭を叩くと、気持ちのいい音がして、ざくろみたいにテロテロと輝く肉が見えた。悲鳴をあげ、呻いていた化け物は、しばらくすると言葉を発さなくなった。塩をふりかけたカエルの足みたいにしばらく震えていたが、もはや顔は原型を留めていなかった。目玉が飛び出している。こんななんだ、目玉って。


 私は息を切らしながら、天井を見上げる。


 匂い立つのは鉄の香り。シャワーを浴びたい。返り血がベタベタして気持ち悪いから。お母さんのすすり泣く声。何も感じない。可哀想なんて、まかり間違っても思えない。


 だって、こいつも裁かないといけないし。


 全部、こいつのせいだもん。


「――あはっ」


 影が揺れる。ハサミの音がする。側にいる。正しさおとうさんが、私に寄り添ってくれる。


 罪は滅びた。私は勝ったんだ。


 私を苦しめた気色の悪い化け物は、もういない。


「あはあはあはあはあははははははははははははははははははは、あははははははははははははははははははははははははっ!」


 香澄ちゃんが、視界の端で笑っていた。私も可笑しくて可笑しくて笑いが止まらなかった。


 香澄ちゃんの言ったとおりだ。


 力こそが、正義だ。


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