第十一章 四





 笑うんだ。


 笑うんだ。


 笑うんだ。


 笑うんだ。


 少しでも前を向いて生きていたいから。





 正しくあろうとした。


 お父さんが正しくあれと、そうすれば前を向いて生きていけると教えてくれたから。たとえ周りに味方がいなくても、狂った現実にいたぶられているとしても、私は見失った正しさを一つ一つ、バラバラになったパズルのピースを拾い集めて組み直すような賢明さで模索した。


 努めて明るく振る舞ったのは、それが正しいと思えたからだ。お父さんが褒めてくれた赤坂亜加子は、充くんの隣にいられる赤坂亜加子は、太陽のように明るい女の子じゃなくてはならない。


 だから、どれだけ家で酷い仕打ちにあっても、学校にいるときはニコニコと笑っていた。


 これまで顔さえ見ようともしなかったクラスメイトや先生たちにも積極的に話しかけた。いきなり態度が変わったからか、気味悪がられたり後ろ指をさされて笑われたりしたこともあったけど、それでも滅気なかった。人の嫌がることだって率先して動き、少しでも信用してもらえるように頑張った。


 そうするうちに少しずつ少しずつ、私に話しかけてくれる人たちが現れた。友達になってくれた子たちもいて、私はなんとかクラスの孤立から抜け出すことができた。嬉しかった。少しはまともな人間になれた気がして。


 これなら、充先輩とも向き合える。向き合っても恥ずかしくないんじゃないか。


 分かっていたことではあったけど、充先輩は学校中で知らない人がいないほどの人気者であった。アイドルのような容姿で、運動もできるし歌も上手い。おまけに性格もいい。人から好かれる要素しかなかった。


 そんな人に自分から話しかけるのは勇気が必要だった。充先輩の方から話しかけてくれて、元気を分けてもらえたはずだったのに。ほぼ付き合いがなかったクラスメイトには話しかけられたのに躊躇があった。充先輩は眩しすぎたんだ。私だけの天使が、みんなの光だったと知って尻込みしてしまった。


 だから勇気を持つまでには時間と状況の改善が必要だった。


 充先輩との再会から、一月以上かかった。


 一歩踏み出したのは、放課後の昇降口。


 靴を履いていた充先輩の背中を叩いた。


「……いてっ!」


「おっしゅ、充先輩!」


 思いっきり噛んでしまったが、私は笑顔で誤魔化した。


 充先輩が、薄目で睨んでくる。いきなり背中を叩いたのはやり過ぎたかな。フレンドリーさを出そうとしたんだけど、馴れ馴れしすぎたかもしれない。どうしよう。調子乗っているなんて思われたら……。


「……相変わらずスキンシップ激し目だなあ」


 充先輩はふうっと息を吐いて、微笑んだ。


「あ、ごめんね……いや、ごめんなさい。ちょっと強くやりすぎちゃいました」


「だいぶ痛かったけど、まあいいよ。それより元気していたか?」


「……あっ」


 なぜか、息が詰まった。


 相変わらず優しいなとか思って嬉しかったけど、それより緊張が勝ってしまった。どくんどくんと心臓が跳ねて、少し息苦しい。笑顔が硬くなったように感じられた。


「そ、その……」


「ゆっくりでいいよ」充先輩は、慈愛に満ちた破顔をみせた。「そんな焦らなくていいから」


「は、はひ」


 駄目だ。調子が狂うなんてレベルじゃない。なんでこの前みたいに、上手くできないの?


「……」


「……」


 なにを言おうとしたんだっけ?


 充先輩の後ろを、女子生徒が通り過ぎた。充先輩に軽く挨拶して、最後に私を訝しげに見て去っていった。


 私は、頬を叩いた。


「にゃー!」


「ど、どうしたいきなり……?」


 突然の行動と奇声に、充先輩が若干引き気味になっていたけど、私は首を振って充先輩を真っ直ぐに見た。


「先輩っ……! 一緒に帰りませんかっ」


「え……?」


「一緒に帰りませんかって言ったんです! ラブコメ作品の難聴系主人公みたいな反応、ダメ絶対!」


「薬物のポスターみたいに言うなよ……」


「ツッコミはいいですから! さあ、どうなんですか!?」


 半ばヤケになって捲し立ててしまった。勢いにおされた充先輩は一歩下がりながら、目線を外して頬をかいた。


「……別に、一緒に帰るのは問題ないんだけど」


「問題ないんだけど?」


「いや、先に約束しててさ。そいつが居ても問題ないならいいよ」


「……誰です?」


「俺の親友」


 短く告げた充先輩の頬は、少しだけ赤かった。


 私の心が一気にざわつく。嫌でも浮かんできたのは、救いを求めて訪れた雨に濡れた公園とジャングルジム。そこに座る二人の少年。


 天使と、間抜け面の悪魔。


 そして、その最悪な連想は程なくして答え合わせとなった。


「おっす、充」


 現れたのは、ややがっしりとした身体つきの男の子。茶色い髪の毛をパーマ風にセットし、制服をオシャレに着崩したそいつは、充先輩にはだいぶ劣るもののそれなりに格好よく見える。


「遅かったな透。先生に早弁の件でまた小言を頂戴したか?」


「まあ、そんなとこだ。異色家としての自覚を持てって怒られたわ。お前は俺のとーちゃんじゃねえだろうがって言い返しそうだった」


「はははっ、馬鹿だなあ」


 充先輩が、さっきとは全く違う表情をみせていた。笑顔だけど、明らかに違う。私に見せていたものよりもっともっと柔らかくて気安い。


 虫が身体を這い回るような不快感。


「……えっと。ところで、そっちの子は誰なんだ?」


 恐るおそるといった感じで、そいつは私の顔を見ていた。


「あー、えっとな。……小学生のときから知り合いで、赤坂亜加子っていうんだ。俺らの一つ下だよ」


「そっか。赤坂さん、よろしく。俺は……」


異色透いしきとおる先輩ですよね。知ってますよ」


 声が冷たくなりすぎないようにするので、精一杯だった。スカートを掴んで、湧き上がる黒い感情をどうにか圧し殺す。


 でも、きっと敵意は隠しきれていない。異色透の口元は引きつっていたし、困ったように充先輩を見ていたから。


 ――見るんじゃねえよ。


 充先輩は、私だけの天使だ。


「……知っているんだ、俺のこと」


「まあ、有名人ですから」


 いけ好かない臑噛りのボンボンめ。


「もしかして、俺って邪魔だったりする……?」


 異色透は、充先輩に尋ねる。そうだと言ってやりたかったが、充先輩が首を横に振ってフォローを入れた。


「いや、そんなことないよ。亜加子は人見知りするからな。それでちょっと態度が余所余所しくなってるだけだよ」


「そうなんだな。ごめんな、赤坂さん……。いきなり知らないやつに話しかけられたら、ちょっとビビるよな」


 調子を合わせて「たはは」と笑う異色透は、きっと私の敵意には気づいていると思う。建前を使って、感情を隠すのが下手くそなタイプなんだろう。「なんか嫌われるようなことしたっけ?」とでも、考えているに違いない。


 私は、ゆっくりと息を吐いた。


 笑うんだ。


 笑うんだ笑うんだ笑うんだ笑うんだ笑うんだ。


 言い聞かせる。自分の正しさと、充先輩の隣にいるために。


「ごめんなさい」


 私は頭を下げて、ぬるく微笑んだ。


「充先輩の言う通り、初対面の人と接するのがどうしても苦手で……。そのうち慣れて、充先輩みたいに背中をぶっ叩いて挨拶するようになると思いますから」


「慣れたときの基準おかしくない?」


 空気を変えるために、充先輩がすかさず言葉を挟んだ。


「えー、そんなことないですよ。かわいい後輩から叩かれて、充先輩が内心は喜んでいること知ってますから」


「俺はそんな変態じゃねえよ!」


「そ、そうなの充……?」


「お前も乗っかるんじゃねえ!」


 不出来な漫才風のやり取りをして、私達は笑い合う。


 その声は空虚に響いた。






 あれから、さらに一年が経った。


 私の家庭環境はほとんど変わっていなかったけど、学校生活だけは大きく変化したと言っていい。


 充先輩に話しかけることができるようになり、しばらく彼に絡んでいると、周囲からの反応が明らかに変わった。良い意味でも悪い意味でも。


 良い意味では、私に話しかけてくる人が増えたりクラスメイトたちの接し方がこれまで以上に軟化したりしたことだ。あわよくば私を介して充先輩と仲良くなりたいという下心でしかないのはわかっているけど、状況がより改善したのは間違いない。


 悪い意味では、敵が少し増えたことだ。「調子に乗っている」と陰口を叩かれたり、「出る杭は打たれるよ」という訳の分からない忠告の手紙が入っていたり。モテる人と仲良くしているわけだから、当然それに嫉妬する女もいるだろう。


 だが、私は無視した。なにか直接危害を加えられたわけではないからだ。私に危害を加えて充先輩に告げ口でもされたら困るから、行動には起こさないし起こせない。所詮、中学生の浅知恵だ。異常者と日常的に接しているから、こんなの怖くもなんともない。


 そんな些末なことより、問題は異色透だ。


 金魚のフンみたいに充先輩にくっついているあいつと、表面上でも仲良くしなくてはならない。あいつと関係が悪くなったら、充先輩と接する機会が減ってしまうし、最悪避けられるようになる可能性がある。


 本当に、苦慮した。あいつの前で笑顔を作るのは。


 たまに、馴れ馴れしくボディタッチしてくることがあって気持ち悪かった。鳥肌が止まらないし、殴り飛ばしたくなる衝動を抑えるのもきつい。あいつが嫌いなのももちろんだけど、それ依然に充先輩以外の男が無理だ。


「やめてください」と言えば良いのだろうが、拒絶の言葉を吐くと拳が飛んでくる生活を繰り返しているから、トラウマがどうしても邪魔をする。


 あいつは、そういう意味でもボンボンなのだろう。生まれたときからずっと祝福されているやつには、私の気持ちなど推し量れないに違いない。


 だが、あいつはそういう遠慮のなさ以外は比較的にまともだった。正義感が強く真っ直ぐなところは、お父さんに重なる部分もあったから共感できなくはなかった。むしろ、共感できてしまっていたから、同族嫌悪的な感情でより嫌っていたのかもしれないし、だからこそより苦労したのだろうけど……。


 もし、充先輩が想いを寄せていなかったら、あいつと仲良くできていたのだろうか?


 無意味な考え。現実は嫌いなんだから、それでいい。


 大嫌いな異色透と、大好きな充先輩と日々を過ごしながら、しかし私は小さな幸せに縋っていた。充先輩が、私を見てくれる。たまに、異色透への想いを見せつけられてドス黒い感情を覚えることもあったけど……それでも幸せだったんだ。


 充先輩のふとした仕草や表情が好きだった。私の冗談に笑ってくれているときは可愛いらしくて好き。運動でかいた汗を拭うときの蠱惑的な顔も、歌うときに胸の前へ両手を添える美しい動きも、空手の試合前の真剣な眼差しも――すべて。すべてが、大好き。


 彼を見ているだけで満たされた。恐怖に怯えつづける日々にも、色彩を感じられた。だから、耐えられた。生きていけた。頑張れた。頑張れた。頑張れた。


 あの日までは――。


「……っう」


 ある日、私は強烈な吐き気を感じ、トイレに閉じこもった。


 胃の中に入ったものをすべて吐き出して、私はその日保健室に一日中横になった。


 最初はただの体調不良だと思って気にしてはいなかった。だけど、その日以降から次々と違和感を覚える事態が起こり続けた。


 とにかく、身体が一日中だるく授業中も夜もずっと眠かった。食欲が減ったくせに、酸っぱいものがやけに食べたくなって、レモンをかじっても美味しく感じられた。めまいやふらつきに悩まされることも増えた。


 なんだか、おかしい。


 私は学校のトイレにこもり、スマートフォンで自分に起こっている症状について検索し、出てきたワードを見た瞬間……スマートフォンを落とした。


 画面が割れていた。蜘蛛の巣のようになった画面に、映る文字は――。


 ――妊娠 前兆。


「……やだ」


 声が、無意識にこぼれた。


「……いや、だ。そんなの、嘘」


 後退り、腰を落とした。


 頭がかゆい。かゆいかゆいかゆいかゆい。


 掻きむしる。痛いほどに。


「……無理」


 あまりの嫌悪感に、全身が血に濡れた手で触られているような感触さえ感じてしまう。あいつが生理中に私を犯したときと同じ感じ。赤黒いヌメリのある手形が無数に、シャツと肌に張り付いているんだ。


 気持ち悪い。


 気持ちが、悪すぎる。


「うえぇぇっ!」


 吐いてしまった。自分の中に宿った受け入れられない何かを、追い出そうとするかのように。吐きすぎて、喉が裂けて、血が唾とともに溢れて止まらない。


「……助けて」


 もう、無理だった。


 心にあった小さな支えさえ崩壊したかのように感じられてしまう。決定的に、何かが壊れる音を聞いた。記憶の中に大切にしまっていたはずの充先輩の笑顔が、黒いマジックペンでぐちゃぐちゃにされていく。


 叫び声さえ上げられない。


 糸の切れた人形のように、私はトイレに横たわった。


 世界は、灰色だった。


 自分がもう一度信じようとした正しさは、死んだ。







 死のう。


 私は、学校の屋上にいた。


 右手には包丁を握り、左手には妊娠検査薬。陽性の結果が無機質に表示された、残酷な福音。否定してほしいと最後に縋りついたものにさえ、否定されたんだ。


 虚ろな目は、自分のお腹に向いていた。


 笑えない。


 笑えない。


 笑えない。


 私はもう、笑えないから。


 死んじゃおう。


 こんなものを宿して、汚れた種を受け入れてしまったんだ。穢らわしすぎて、充先輩の前に立つことはもうできない。


 私は、包丁の切っ先を向ける。


 中学二年生の真冬。最悪なクリスマスプレゼント。正しく生きようとしていたからかな。サンタさんがくれたんだね。食えもしない煮物を押し付けてくる、近所のおばさんみたいな迷惑な善意を振りかざして。


 いらないから、捨てるね。


 私の命ごと――。


 包丁を振りかざし、私は突き刺そうとして。


 切っ先が皮膚に吸い込まれる瞬間に、手が止まった。


 躊躇したわけではない。


 誰かに、止められた。


「……なんで止めるの?」


 抗議の声をあげる。誰かわからないけど、迷惑でしかない。


「勿体ないからですよ。あなたはまだ死ぬべきじゃない」


 鈴の音のように凛とした声。


 充先輩の声とも違う。この世のものとは思えないほど、透きとおっていて冷たい。


 引き込まれるように虚ろな目を向けると、私は意識を奪われた。


 そこにいたのは、女神としか言いようがない存在だったから。


 栗色のショートヘア。血に濡れたように赤い赤い瞳。そして、極限までカットされたダイヤモンドのように精緻に整った顔立ちと、光り輝く白い肌。充先輩の、花のような素朴な美しさとはまったく違う。神が作り上げた芸術作品としか思えない、神々しい存在感。


 雲間からこぼれた、天使の階段が後光のように見えた。


 その子は、微笑んだ。


「私は、異色香澄。あの人の妹です」


「……あなたが」


 知っている。あのいけ好かない男には、天才の妹がいるということを。そして、この中学校に所属しながらほとんど顔を見せないことも。


 噂には聞いていた。恐ろしくなるほどの、美人であることは――。


 こんなにも、美しいなんて。


「あなたに、教えてあげます」


 異色香澄は、私の目を真っ直ぐに見つめ、本物の福音を与えた。


「本当の正しさとは、力であることをね」





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