第十一章 一




 公園で、天使を見つけた。


 小学四年生に上がったばかりのころだ。新学期の始業式のあとで、友達と遊んだ帰りだった。偶然見つけた猫を追いかけて、普段は行かない街外れの寂れた公園まで入ると、私はすぐに猫のことなんて忘れてしまった。


 あまりにも美しい男の子がいて、あまりにも綺麗な歌が流れていたから。


 春嵐にさらわれて舞い散る桜の花びらが、まるで天使の羽のように感じられた。その中心にあるジャングルジムの上で、男の子が歌っている。自分の胸に手を当てて、悲しげな表情を浮かべながら。夕陽を吸い込んで輝く玉のような肌。細くしなやかな指先。憂いを帯びた黒い瞳。


「……」


 天使がいる。


 まるで童話の世界に迷い込んだような感じがした。絵本でもこんなに綺麗なものを見たことがない。比べるものが思い浮かばなくて、足りない頭が自然と導き出した感想が「天使」だった。


 私はただ茫然とその光景を見詰め、圧倒されていた。


 彼の清らかな歌声が、自然と体に染み渡ってくる。「小さな恋の歌」という名前の歌であることは、あとで知った。素朴で温かい歌だと思えた。優しくて包み込まれるような――。


 泣いていた。


 勝手に、涙が溢れてきたんだ。


 心が打ち震える感じを、初めて味わった。


 男の子が歌い終わった。


 私は、動くことができなかった。眼の前の景色が滲んでいる。袖で涙を拭き取っても、止まらない。


「……あっ」


 男の子が、私の方を見て小さく声を漏らした。


 人がいると思っていなかったんだろう。気恥ずかしそうに目をそらして頬をかいている。


「あ、あの……」


 私は、言葉をつまらせてしまう。なんて言えばいいのかわからない。心臓がばくばくうるさくて、息苦しいくらいだった。


「えっと……君は?」


「わ、わたし、赤坂亜加子って言うの……。あなたは?」


 ようやく喋れた。変になってないかな? おかしな子だって思われたらどうしよう……。


 私の心配に反して、男の子は穏やかに笑った。


「茶川充。よろしくね……亜加子ちゃん」


「えっ。ひゃ、ひゃい!」


 いきなり名前呼び……?


 え、どうしよう? どうしよう。私も下の名前で呼んだほうがいいのかな? でも、いきなり初対面の人を名前呼びするのは失礼だから良くないってお父さんが言っていたし。でもでも、この子はそんな失礼な感じはしないし……。


「あ、あぅ……」


「……どうしたの亜加子ちゃん?」


「な、なんでいきなりそんな名前で呼んでくるんですか……っ。は、恥ずかしくないのっ?」


「え? ああ、ごめん……」


 焦るあまり責めるような口調になってしまい、男の子……充くんがしょんぼりとする。あ、しまった。そんなつもりはなかったのに。


「あ……ご、ごめんね! えっと……亜加子でいいから。うん」


「そ、そっか……」


「男の子から名前で呼ばれたのが初めてだったから……。そ、それに私、変な名前でしょ? 赤ちゃんって変なあだ名つけられるし」


「そんなことないよ」


 充くんが力強く断言する。


「そんなことないから。綺麗な名前だと思う」


「……ふぇ」


「僕は好きだよ。君の名前」


 心臓が落ちたかと思えた。顔が赤くなるのを自覚するほどに熱くなっている。


 充くんも、はっとした表情を浮かべ、頬を赤く染めた。


「ご、ごめん。つい……。名前からかうのとか好きじゃないからさ……」


「……う、うん」


 わかった。この子は、天然ジゴロというやつだ。お父さんが良く読んでいる恋愛漫画に出てくる主人公みたいなやつなんだ。


 私は小さく深呼吸する。恥ずかしすぎて顔から火が出そうだけど、ぐっとその気持ちを飲み込む。

 

「み、充くんは……」勇気を出して名前を呼んだ。「ここでなにを……していたの? 歌の練習?」


「んー……まあ、そんな感じかな。練習というより……、歌うと気持ちいいからかな」


 少しだけ間があったことに違和感を覚えたけど、私は「そっか」と頷いた。たしかに、外で思いっきり声を出すのは気持ちいいだろう。ここなら近所迷惑と大人から怒られることもなさそうだし。


「それで、お願いなんだけど……」


「う、うん」


「……誰にも、言わないでね。ここで歌っていること」


「……わかった」


 私の言葉を聞いて、充くんが胸をなでおろした。学校の友達に知られるのが怖いのだろうか。たぶん、違う学校に通っていると思うから心配しなくてもいいのに。


「あの……充くん」


「ん?」


「いつもここで歌っているんだよね?」


「毎日じゃないけど、たまにね。でも……だいたい一週間に一二回は歌っているかな」


「そうなんだ……。私からもお願いがあるんだけど!」


 充くんが小首をかしげる。そんなトボけた表情もたまらなく綺麗だから、イケメンはずるい。


「たまに……聴きに来てもいい?」


「……僕の歌を?」


「そ、そうだよ! それ以外なにがあるの?」


「……」


 充くんは困ったように眉根を下げて、微笑むと空を見上げた。夕日が、沈もうとしていた。お月様が輝きはじめ、私たちに帰りなさいと告げてくるようにも見える。


 小さく息を吐き、充くんはこちらを向いた。


「ちゃんと秘密にしてくれるなら」


 そのときの笑顔は忘れられない。


 私が、恋に落ちた瞬間だったから。







 亜加子。


 勉強ができなくてもいい。


 スポーツが万能じゃなくてもいい。


 人気者にならなくてもいいし、友達をたくさん作る必要もない。


 でも、正しく生きなさい。


 人の道を外れるようなことをしてはいけないよ。


 なぜか、わかるか?


 前を向いて生きられなくなるからだ。




 お父さんのことが大好きだった。


 裁判官をしていたお父さんは、とても忙しいはずなのによく遊んでくれたし、たくさん優しくしてくれたから。無表情で口数が少ないせいで、よく他人からは怖い人だって誤解されていたようだけど、本当はとても温かい人だった。


 小学四年生の夏休み、お父さんと河川敷に遊びに行ったときのことだ。


 私たちは、川の浅瀬で魚やカニを捕まえたり段ボールそりで斜面を滑ったりして思いっきり遊んだ。インドアで勉強ばかりしてきたお父さんは体力がないせいで、すぐに私についていけなくなっていたけど。それでもすごく楽しかった。


 息も絶え絶えになって、川辺に腰掛けていたお父さんと並んで座った。


「……はい、お父さん」


 お父さんに、お母さんが作ってくれたサンドイッチを手渡した。


「む、ありがとう……」


 口元を微かに吊り上げ、父さんは角に小さくかじりついた。それが可笑しくて噴き出してしまった。


「笑うことはないだろう」


「いや、だって……。お父さん可愛いんだもん」


「か、可愛いだと? ……私がか?」


「うん。リスみたい」


「……リス」


 お父さんは愕然としている。無表情のままショックを受けているから尚更おかしかった。こういうお茶目なところが大好きだった。


「あはあはあはは。冗談だよ〜。お父さんはライオンみたいに大きくて怖いぞ〜」


「それはそれでショックだな」


 ガオーとポーズを取る私を見て、お父さんは小さく苦笑いを浮かべた。インドアのくせに体格がいいことを気にしているからだろう、心なしか小さく背中を丸めている。


 そんな背中に覆いかぶさり、私は思いっきり頬を擦り付けた。大きな背中。温かい。「おい、食べにくいだろう」と抗議の声があがったけど、言葉だけで本気で嫌がっていないことはわかっていたから、構わず続ける。


「……仕方ない。いつまでも甘えん坊だなあ、亜加子は」


「えへへ〜。お父さんのこと大好きなんだも〜ん」


「そ、そうか」


「でも、最近お父さんより好きな人ができたんだよねー」


 お父さんが固まった。幻聴なのか、ガラスにヒビが入ったときのような音がした気がする。


「ほ、ほう……。す、好きな人というのは、つまりあれかね……女の子の友達かね?」


「んーん。男の子だよー」


「なんだと!」


 お父さんが突然立ち上がったせいで、私は宙づりになってしまった。


「わ、わっ。いきなり立ち上がらないでよ! びっくりするじゃん!」


「わ、悪い。……しかし、男の子だと? いつのまにそんな悪い虫がついたのか……」


「充くんは虫なんかじゃないもん! すごくかっこいい男の子なんだから!」


「最悪な虫だ! おのれイケメン虫め!」


「虫じゃないって言ってるでしょー!」


 お父さんと充くんのことでキャイキャイ言い合っているうちに、サンドイッチも食べ終わっていた。「恋愛はまだはやい」だの「充くんとやらに会わせろ」だの文句を言い続けていたお父さんは、結局ほとんどサンドイッチを食べられず、私に持っていかれていた。


 それに対する不満も聞き流し、私は立ち上がるとお父さんの手を引いた。


「さ、休憩したしそろそろ遊ぼうよ! お父さん明日からまた忙しくなるんだから、今のうちに遊んでおかないと!」


「まだ充くんとやらの話は残っている。それを聞き終わるまで遊ばん!」


「お家に帰ってから話すから! 拗ねないでよ!」


 お父さんは普段頼りがいがあるのに、ときおり小さな子供のようになるから可笑しかった。私はそんなお父さんを引っ張って川に連れていく。太陽の光を浴びてキラキラと輝く水面は、私の童心を刺激して心を躍動させる。


 楽しかった。


 水のように涼やかで優しかった。


 お父さんと最後に過ごした夏休みは、私の人生で一番輝かしい日々だったと思う。


 誰も狂ってはいなかったから。




 お父さんがおかしくなったのは、冬を迎えたあるときからだった。


 お酒に溺れるようになったのだ。何があったのか、ただの子供だった私にはわからない。仕事の失敗のせいだというのは何となく聞いていたけど、それがどうしてこんなにもお父さんを変えてしまうのかまるで理解できなかった。


 お父さんは酔っ払いながら、ときに「私は悪くない……仕方なかったんだ……」と見えない誰かに言い訳をし、「すまない……すまない……」と繰り返し繰り返し謝り続けていた。


 私は、ひどく落ち込んでいるお父さんを放っておけなくて、ゲームや遊びに誘ったり勉強を教えて欲しいと頼んだりしてなんとか気を引こうと躍起になった。だけど、お父さんは無反応で、私を鬱陶しいハエを追い払うようにあしらってばかりだった。怒鳴られたこともある。私は、何回も泣いてしまった。


 お母さんとの喧嘩も増えた。


 いつもお母さんは私よりも泣いていた気がする。無気力になり、お酒に溺れて幽霊のようになったお父さんの姿に耐えられなかったのだろう。お酒をやめて! 亜加子にかまってあげて! 無視しないでよ! そんな涙混じりの怒声をよく聴いた。


「だまれ、阿婆擦れ」


 お父さんは、お母さんをそう怒鳴りつけた。


 阿婆擦れという言葉の意味を知ったとき、私はお父さんに怒りを覚えた。どうしてあんなにも頑張っているお母さんに、そんな酷いことを言えるのだろう? 


 お父さんが、違う人に変わってしまったかのようだった。


 正しく生きなさい。そうやって教えてくれたはずのお父さんが、正しく生きられなくなっている。


 こんなのは、間違っている。


 お父さんは、正しくない。


 半年近くそうした状態が続いて、とうとう我慢できなくなった私は動いてしまった。


「お父さん!」


 ヨレヨレのスーツを身に着けて、仕事に向かおうとしているお父さんを呼び止めた。


 振り返ったお父さんは無精髭を生やしたままで、死んだ魚のようにどんよりと濁りきった目をしていた。


 そんなお父さんの姿は見たくなかった。きゅっと胸が締め付けられて苦しい。


「……なんだ?」


 億劫そうにお父さんが口を開いた。


「お父さんは、間違っているよ……。お母さんにあんな酷いことばかり言って!」


「……」


「正しく生きなさいって言ったのはお父さんでしょ! どうしてお父さんはそんな風に変わってしまったの!?」


 お父さんは俯いて、唇を噛み締めていた。


 勝手に目から涙が溢れてくる。お父さんにこんなことを言わなければならないことが、悲しくて辛い。


「ねえ、答えて! なんでなの!? 元のお父さんに戻ってよ……!」


「……」


 お父さんの肩が震えていた。小さな笑い声が聴こえてくる。お父さんが、笑っている。


「……そうだな」


「……」


「……お前の言うとおりだよ。私は、正しくない」


 顔を上げたお父さんは、泣きながら不気味な微笑みを浮かべていた。


「間違えてしまった。正しくあろうとしていたはずなのに、私は致命的な間違いをおかしたんだ。わかっていたはずなのに、彼はやっていないと……。私が臆病風に吹かれたせいで、何も悪くない彼を死に追いやったんだ。私が、殺したようなものだ」


「……え?」


 お父さんが言っていることがよくわからない。怖かった。お父さんが、怖い。


「もう、元には戻れないんだ」


「……なんで? そんなことないよっ! 一緒に頑張れば」


「戻れないんだよっ! 私も、母さんも……! 決して許されない過ちを犯したんだからな!」


 お父さんの叫びに押し黙るしかなかった。


 お父さんに何があったのかは知らないけど、深く後悔して傷つくようなことがあったのはわかった。絶望してしまっていることも……。


 でも、幼かった私は、もうすでに取り返しがつかないほどに家庭が壊れてしまっていたことを理解していなかった。


 すべて、終わっていることを知らなかった。


「……じゃあな」


 泣き腫らした顔のまま、お父さんは笑顔を作って、頭を撫でてきた。掌の冷たさに、私の背筋は凍りついて震えてしまう。


 玄関の扉が開いた。


「お父さん!」


 私は、声を張り上げるだけでお父さんの背中を追いかけることができなかった。






 雨上がりの道を歩いていた。


 傘をさしていなかった私は、びしょびしょに濡れていた。シャツが肌に張り付いていたし、下着も濡れていたから気持ち悪い。だけど、家に帰ろうとは思えなかった。


 すれ違ったおじさんが、私を舐め回すようにみてきた。いやらしい顔つき。でも、そんなことどうでもよかった。いまはただ、歩きたい。


 お父さんが、死んだ。


 一週間前、私と別れたその日の夕方に車に跳ねられて。


 唐突過ぎて、わけがわからなかった。頭はひたすらに真っ白で、感情や思考の入り込む余地さえない。葬儀場での記憶さえほとんど覚束ない。泣き叫ぶお母さんに抱きしめられて、「大丈夫、大丈夫だから!」と声をかけられたことしか覚えていない。


 ぽっかりと穴が開いたように。


 もうお父さんとは会えないという事実を受け入れられなかった。


 だから、歩いていた。


 家に帰ると、お父さんのふりをした小さな箱に会ってしまうから。意気消沈として苦しげなお母さんと一緒にいるのが辛いから。


 なにも、考えたくなかった。重たい闇が心の中で陰っていて、止まると吐きそうになる。


 六月に入ったばかりだった。お父さんは梅雨入りとともに消えてしまった。そんな中で傘も持たず、しかも濡れたまま歩いている私は異様だろう。お巡りさんに見つかったら声をかけられるかも……。でも、いいや……。見つかったって。


 どうなったっていい。


 そんな気分。


「……」


 私は、いつの間にかあの公園に辿り着いていた。


 充くんと出会った場所だ。


 水たまりのできた、グズグズの砂地を踏みしめて、私は公園に侵入する。身体が勝手にそちらへと向かっていった。


「……充くん」


 充くんに会いたかった。


 雨が上がったばかりで居るとは思えないのに、どうしても会いたかった。連絡先を訊けずにいたし、家の場所も知らないから、会いたいならここに行くしかない。


 充くん。充くん――。


 嫌なことがあったときは、あなたの歌が私を癒やしてくれた。


 あなたの歌が聴きたい。


「……充くん」


 ジャングルジムの上に、充くんがいた。濡れているだろうに、なぜか座っている。


 私は彼のもとに近づこうとして、歩みを止めた。


 もう一人いる。


「やっぱりすげーよなあ、充」


 男の子だった。知っている。同じ学校の六年生で、いつも目立っている明るい男の子。異色透くんだ。


 どうして彼が、充くんといるのだろう? 学校も違うはずなのに。


 なんとなく側にあった木の陰に隠れてしまった。何もやましいことなどないはずで、普通に話しかければいいはずなのに。どうして隠れたのか自分でもわからない。


 まるで、見てはいけない神秘的な存在を目撃してしまったかのように。そうしないといけない気がした。


「褒めすぎだっつーの……」


 照れくさそうに笑いながら、充くんは透くんの肩を叩いていた。赤らんだ頬。楽しげに輝く濡れた瞳。


 どうしてだろう? 強烈な違和感があった。


「褒めすぎてねぇよ。本心からすげーと思うから言ってんだろ?」


「……へ、へぇ。またそういうことをさらっと……」


「なんか言った?」


「……気のせいだよ、バーカ」


 なに、あれ。


 充くんのあの表情……。見たこともないくらいに緩みきっていて、いつも私に向けてくるものとは明らかに違う。それにあんな砕けた態度を、私に対して見せたことはない。


 まるで……あれじゃ、まるで。


 ――恋する乙女のようではないか。


「……っ」


 ずるずると、私は腰を落とした。濡れた砂の冷たさがズボンから染み渡ってきたが、そんなことどうでもよかった。


 ボロボロと、目から熱いものが溢れてくる。


「……うぅっ」


 なんで――。


 充くんまで、私を一人にするの?


「……みつる、くんっ」


 濡れた身体を抱きしめて、私は大好きな人の名前を呼び続けた。

 


 


 


 

 

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