第十一章 二
お父さん。
正しさって、なに?
私は、ベッドに横になって天井を見詰めていた。
部屋の明かりはつけていない。
光なんていらないと思った。どうせ、私は独りになってしまったから。お父さんもいなくなったし、充くんも私を見てくれない。暗がりに身を委ねているときの方が不思議と落ち着いたのは、独りである自分の惨めな姿を覆い隠せる気がしたからだ。
時計の音。チクチクチクチクと、闇を揺らす。何万回、何十万回……これを聴いたら私はこの苦しい感情から解放されるんだろう。
枕を、ぎゅっと抱きしめた。鼻を押し当てると微かな汗の匂いがした気がして、締め付けられそうだった。
お父さんの枕だった。もう亡くなって一年が経つ。匂いなんて本当はとっくに消えているはずなのに、残り香を感じずにはいられない。
「……」
天井は、シミさえ見えない。
ただ、暗がりが続いている。
私の「これから」みたいに。先が、見えない。
「……お父さん」
どうして、独りにしたの?
お母さんは、私を見てはいない。わかっている。いつも夫婦の寝室だった場所で、誰かと楽しそうに話していることを。それが、男の人だっていうのも知っているよ。机に置かれたサランラップのついた冷めたご飯。私はそれを一人で食べながら、お母さんの冷たい思いやりを飲み込むんだ。涙を流しても、ご飯の味を感じなくても、お母さんは私のそばには来てくれやしない。
見ているのは、きっと新しいお星さま。
スマートフォンの中にいる、彦星様なんだ。
「……」
私は、ワイヤレスイヤホンを取り出し、耳につけた。スマートフォンを取り出して、淡い光に目をくらませながら再生ボタンを押す。
小さな恋の歌。
充くんと私の汚された絆に縋る。
テンポよく進む曲。テンションを上げながら、私の世界を変えた優しい歌が、サビへと到達する。
――ほら、あなたにとって大事なひとほどすぐ側にいるの。
涙が、溢れた。枕が濡れた。
誰も、いない。
誰も、いなくなった。
私の世界をキラキラと変えてくれた王子様も、私に正しさを教えてくれた人も、温かいご飯を出してくれた優しい人も。
私を、独りにしたんだ。
「夢ならば醒めてよ、夢ならば醒めてよ」
ただ、暗がりがあるだけ。
響かない孤独の歌。
扉が、空いた。
「……亜加子? 寝ているの?」
私はゆっくりと身体を起こした。廊下から溢れだす光の先に、緊張した面持ちのお母さんが立っている。
「あら……起きていたのね。まだ七時よ。あまり寝てばかりなのは関心しないわ」
「なに、お母さん?」
私はお母さんの苦言を黙殺する。
私を放置しておいて、いまさら何を偉そうに。
「……実はね、お話があるの。大事なお話」
「だから、なに?」
「そんなにツンツンすることないじゃない……。あなたにとっても、決して悪い話じゃないはずよ」
私はきっと眉をひそめていたと思う。お母さんの頬は、微かに朱がさしているようだった。きっと、お酒だ。どこかで呑んできたんだ。
……誰と?
「あなたに、紹介したい人がいるの」
お母さんはそう言うと、身体を横へずらした。入れ替わるように光の中に現れたのは、眼鏡をかけた大柄の男性だった。にこやかな表情。
私は、枕を抱きしめた。
彦星様が降りてきたんだとわかったから。
「……はじめまして」
心臓の鼓動がうるさかった。嫌だ。お母さんが蛇に絡みつかれているところがなぜか浮かんだ。不誠実の証明を見ているんだ、きっと。なにかの恋愛漫画でみた台詞が頭に浮かぶ。お尻に当たる布の皺が気持ち悪くて、腰を浮かしてしまった。
「えっと、亜加子ちゃん……だよね? はじめまして。僕は」
自己紹介が、頭に入ってこなかった。彦星様の気色の悪い作り笑いだけが、目から離れない。
反応出来ない私を、困った様子でみていた彦星様は言葉を続ける。なにを言っているかわからない。わかりたくもない。
「亜加子。返事しなさい」
お母さんのきつい声に、身体が跳ねた。
「……まあまあ、そんなに言わないであげて。きっといきなりだったからびっくりしたんだよ」
「でも、この子ったら、あまりにも素っ気ないから」
「無理ないよ。少しずつ打ち解けてもらえれば大丈夫だから」
眉を吊り上げたお母さんを諭す彦星様は、一見するとすごくいい人に見えた。でも、私は嫌だと思った。枕を強く強く抱きしめた。お父さんが、けされる。お母さんは、お父さんを消そうとしている。
いやだ。いやだ。いやだ。
「亜加子、聴いて」
いやだ。
「……私ね、彼と結婚しようと思うの。彼は警察官でね、あなたのこともよく考えてくれて――」
いやだ。
お母さんの言葉を頭を横に振って打ち消そうとする。足先まで、なぜか冷たい痺れが走っていた。お父さんが死んだときと同じ。受け入れられない事態が起こったとき、神経は笑うんだきっと。
「亜加子ちゃん」
彦星様が、足を一歩踏み入れてきた。
「いやっ、入らないで!」
ぎしっと木が軋んで、沈黙した。
「ちょっと、あんたね」
怒りに声を震わせたお母さんを、彦星様がもう一度なだめて、足を引いた。
「……ごめんね。いきなりよくわからない奴に近づかれるのは怖かったよな」
「……」
「聞いてのとおり、これから僕は君たちの家族になる。ゆっくりでいいから……またお話しようね」
私は答えない。
彦星様は微苦笑を浮かべると、眼差しを下に落とした。太もものあたり。嫌らしい目が、蛇のように細くなる。
扉が閉められてしばらくしても、粘着質な感覚が、私の太ももに残っている気がした。
抱きしめたお父さんの枕は、流れ落ちる涙で濡れて冷たくなっていた。
無色の日々がはじまった。
光のない、生活。作られた幸せのなかの不幸せ。
新しい義父が現れてからの日常は、私にとってはつまらない家族ごっこでしかなかった。お父さんのふりをした二流の役者が、お母さんとイチャイチャするだけの酷い恋愛ドラマをみせられている気分だった。私は、テレビを見ているんだ。いつも俯瞰して、そこに加わることはない。
お父さんを消したくないから。新しい義父が、好きになれなかったから。家族写真のお父さんの顔が、悪意のある加工で顔を変えられたような不快感。どれだけ親切にされても、親身にされても、その感覚だけは拭えない。
なかなか義父に懐こうとしない私に、お母さんも最初は業を煮やしていたが、次第に私のことを気にしなくなっていった。妊娠したからだ。新しい家族を宿したから、どうでも良くなっていったのかもしれない。彦星様と、楽しそうに話していたときと一緒。ご飯は辛うじて温かいけど、味は感じられなかった。
そんな日々が、どれだけ続いただろうか。
ある日から、急に視線を感じるようになってきた。
明らかに普通の視線ではない。たとえば、お風呂に入っているとき。たとえば、ソファに寝転がりながらスマートフォンをいじっているとき。粘っこい視線だ。そちらの方を向くと、決まって義父がいる。ときおり鼻の穴が膨らんでいることもあって、気のせいだと自分に言い聞かせることに苦労した。
でも、それだけならまだ良かったんだ。
それからちょっとして、洗濯に出したはずの下着がしばしば消えることがあった。お母さんに聞いても、知らないと言う。ティッシュペーパーじゃない。風で飛んでいくなんてありえない。寒気が背筋を走り抜けて止まらなかった。だって、そんなことする人なんて一人しかいないから。
なんのために? 小学六年生になっていた私にも、その理由はすぐに分かった。あまりにも気持ちが悪すぎて、私は眠れなくなっていた。あの義父が、パンツの匂いを嗅いでいるところがどうしても頭に浮かんで、ちょっとした物音にも怯えるようになっていた。
思いきって、お母さんに相談した。
でも、お母さんは気のせいだと決して取り合わなかった。お母さんはあの人に夢中で、十二年一緒に暮らした私よりも遥かにあの人を信頼していた。あの人が、そんなことするわけないでしょ! 馬鹿らしい! お父さんになんてことを言うの! そうやって頭ごなしに怒鳴られて終わった。
きっとお母さんは、すでに私のことを邪魔に感じていたのだろうと思う。お父さんが生きていたころは有名な大学の法学部を目指すようにしきりに言ってきていたくせに、最近では高校を卒業したら独り立ちするよう言われるようになっていたから。
私は、家庭内でもより孤独を深めていっていた。
そんな日々に耐えられなくて、何度か公園にでかけた。充くんと出会った公園。私のことを見ていなくても、充くんなら。充くんと話せれば、少しは楽になれるのではないか。そう思って、会いに行ってみたが、彼とは一度も会えなかった。
彼は中学生になっているはずだから、環境が変わって来れなくなったかもしれない。余裕があればそう思えたのかもしれないけど、あいにく私は深い闇の中にいた。あいつの顔が、頭を過った。アホそうな男の子の笑顔。異色透。私から天使を奪ったやつ。あいつが、充くんをさらっていった。そうとしか思えなかった。
誰もいない公園で、なんど錆びついたジャングルジムを見つめただろうか。
そんな何もない暗い日々に、疲れきっていた。
だから、あの日……油断して眠ってしまったんだ。疲労に耐えかねて、部屋の鍵をかけるのを忘れて。
豚のような鼻息を感じて、目を覚ましたとき、私は悲鳴をあげた。
義父が、私の上に覆いかぶさっていた。
「……ひっ! なに! なんなの!」
口を塞がれた。
「だめだよぉ、亜加子ちゃん。お母さんは疲れて眠っているからねぇ。起こしちゃわるいよ」
息を弾ませながら、獣が湿った声を出した。パジャマのボタンがすべて外れて、キャミソールがあらわになっている。豆だらけのごつごつとした指が、ゆっくりとゆっくりと包装紙を丁寧に剥がしていくように、それを刷りあげていく。
私は暴れた。でも、獣に抑え込まれてまったく抜け出せない。「大人しくしろよぉ」という声が、息とともに耳にかかる。ネチャネチャした音と生暖かい感触が、ナメクジみたいに蠢く。舐められている、耳を。
気持ち悪い。キモいキモいキモいキモいキモいキモい――。
「うーっ! うぅっー!」
「わっ、噛みやがったな! お前ふざけんなよっ!」
耳の中が破裂したかと思えた。視界が真っ黒にそまり、頬がジクジクと痛む。たたかれた。グローブのようなあの手で。
獣が目を怒らせながら、鼻息を荒くした。
「これだけ優しくしてるのに、一生懸命世話をしているのに……! なんなんだ、お前は! なんで俺に冷たい態度ばかりとるんだ! あぁ!」
「ひ、ひぅ……。やめて……」
「うるさい! これは躾だ! 言うことを聞かないお前が悪いんだからなぁ!」
枕で、顔を塞がれた。お父さんが使っていた枕で。一気に息苦しくなって、目の前が真っ暗になって、私はパニックになった。やめて! やめて!と叫んだ。叫びつづけた。でも、やめてなんてくれない。
ナメクジは身体を這い回った。胸を執拗に舐めつづけ、脇腹をたどり、また戻ってくる。
ズボンを降ろされた。
私は暴れた。お腹を殴られた。骨がきしむくらいの鈍い痛みが、私を黙らせる。パンツにてがかかった。硬い指が、下の毛を触り、ぞわりと震える。
獣が、鼻息を爆発させた。
歓喜の声をあげる。
「おぉー! 下の毛も赤いんだなあ」
気持ち悪い。
無理。無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理――。
「それじゃあ、お父さんの権利を享受しますかぁ」
そこから先の記憶はない。
回送電車が通過していく。
踏切で電車の通過を待っていた私は、ぼうっとその景色をながめた。ランドセルが重い。ほとんど何も入っていないはずなのに、異常なくらい肩にかかる圧力が強く感じられた。
頬が痛い。お腹が痛い。じくじくと滲む痛みが、身体をちょっとだけ動かすたびに響いた。下は、もっと痛い。なんでこんなに、と思うくらいに。
「……」
もやがかかっていた。意識も、目の前の景色もどこか暗くて重たい。
まるで、自分が自分の身体じゃないみたいだった。家を出たときの記憶すら曖昧で、ここまでどうやって来たのかもよく覚えていなかった。
カンカン、という踏切の音が遠くなる。棒がゆっくり上がっていって、他の人たちが動き始めた。なのに、私は動けない。身体がいうことを利かない。
向かいから、お父さんに手を引かれた小さな子どもが歩いてきた。
「あ――」
それをみた瞬間。
私の中で、何かが決壊した。
「あああああああああああああああああああ、ああああああああああ……っ!」
立っていられなくなってその場に蹲り、私は呻くように泣き叫んだ。涙が止まらない。息がひたすらに苦しくて苦しくて、苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて苦しくてたまらない。耐えられなかった。
通行人たちが、立ち止まる気配がある。さっきの子どもが「おねえちゃんが泣いてる」とお父さんに淡々と報告していた。大丈夫ですか、という声が遠い。ざわざわとした喧騒。
お父さん、お父さん。
正しさってなんですか?
お父さんが、私を一人にしたから。
私――。
もう、嫌だよ。
私を独りにしないで。
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