第十章 五




 


 ボーリング場にいた。


 拳を充の顔面に叩きつけ、振り切った瞬間。膨大な光が網膜を焼き切るような熱さで広がり、倒れ伏した透が頭を上げたら、レーンが見えたのだ。


 カコン、カコン。ボーリング球がピンをたおす小気味よい音。


 ガッツポーズをしている大学生の男が見えた。人がいる。当たり前のように笑いあいながら、仲間とハイタッチをしている。


「異色くん、ストライク以外許さないからね!」


 思わず振り返った。驚愕のあまり呆然としてしまう。


 黄瀬川春香が、椅子に座っていた。厳しい表情で唾を飛ばしながら指をさしている。その細くしなやかな指先の延長上にいたのは、学ランに身を包んだ透だった。


「……うるせぇなぁ。わかってるよ」


「やる気ないわね。全力でやりなさいよ。負けてるのよ私たち!」


「……そもそも委員長がガーターばっかり出すからだろ」


「なんか言った?」


「言ってません!」


 春香のドスの効いた声におっかなびっくりしながら、透はボーリングの球を構えていた。ひそめた眉から春香に対する不満が覗いている。そんな透を後ろから囃し立てていたのは、同じく制服を着た充と亜加子だった。


「おーい、はやく投げろー。こっちは喉が渇いてしかたないんだ。さっさと投げてジュース買ってきてくれよ!」


「あ、亜加子は林檎ジュースがいいですね! もちろん炭酸入ってないやつで!」


「あんたたち! まだ勝負はわからないでしょ! 勝った気でいるんじゃないわよ!」


「……ピーピーうるせぇ」


 透は溜息をつきながら、ボーリング球を転がした。ボールをカーブさせようと手首を捻りながら、スナップをきかせる。ボールはガーターぎりぎりを滑り、曲がりながらピンを弾いた。


 奥の一本がふらつきながら、倒れずに立ち上がっている。


 充が、どっと笑った。


「まるで氷岩竜人にやられまくった後のブラックナイトみたいな残り方したな、あのピン」


「おい、神回と評判の初代ブラックナイト三十話の名シーンを煽りに使うのはやめろ。あれはシリーズ通して三本の指に入る伝説的な名シーンなんだぞ」


「だまれオタクども! きー、なんで一本だけあんなに芸術的な残り方するのよー!」


「あはあはあはははっ。すごい残り方しましたね」


 漫画のキャラクターみたいに地団駄を踏む春香と、腹を抱えて足をばたつかせながら爆笑する亜加子。


「……」


 なんだ、これは――。


 どうして亜加子たちが? そもそもなぜボーリング場にいる? 夢? ひょっとして死んだのか? あり得ないだろう。亜加子とは数秒前まで戦っていたはずなんだ。腕も脚も切られたし、全身の骨が剥き出しになるくらいボロボロにされた。こんな親しげにボーリングなんてしているわけがない。これは過去の映像? たしかに何度も充たちとはボーリングにいった。ジュースをかけてチーム戦をしたことも何度もある。


「……覚えているか?」


 声がした方をみると、充がいた。髪が白い。目は虚ろで頬は痩せこけている。思わず片身替わりにボーリングをしている充の方を見た。がっしりとして健康的な色気があり、髪色も茶色だ。対照的な充が、二人いる。


「俺たちはよく遊んだ。亜加子がボーリング好きだから、何回も連れて行ってやったよな。亜加子が強引に春香を引っ張ってきてさ。『勉強する時間が減るじゃないか』って不満たれているわりに、春香のやつが一番熱くなってんだよな毎回」


「……いや」


 上手く二の句が継げない。まずもって状況の変化に頭がついていっていなかった。


 充は透の目をみて、「ああ」と悟ったように小さく笑う。


「これは過去の光景だ。あいつらには、俺たちは見えないよ」


「……なんで?」


「わからん。俺たちは高度な存在に成っているみたいだから、こういう不思議なことが起こるんだろう。走馬灯ってあるだろう? あれは今までの記憶が全部溢れ出すらしいけど……まあ、それを切り取った状態だと思えばいいんじゃないか? 神様ってやつが与えてくれた時間なのかもな」


 充はそう言って、ベンチを指さした。春香の隣……空いているスペースを。


「とりあえず、座ろうぜ」


 充が幽鬼のような足取りで歩く。裸足だった。爪が割れて黒くなっている。ベンチに座ると、太ももに肘をついて猫背に丸まりながら、春香たちに目を向けていた。いつも棒を当てがっているようにピンと伸びていたはずの背中は、頼りなく弱々しい。


 立ち尽くす透に黄ばんだ歯を見せて、充はベンチの空いているところを叩いた。


「……はやく来いよ。話したいんだ」


「……」


 透は小さく頷いて、隣に座った。いつの間にか、身体は人間のときの姿に戻っている。


「その目、大丈夫か?」


「……大丈夫、ではないな。すごく痛い」


「……だろうな。相変わらず無茶するよ。無茶ってレベルを超えてるけど」


 カコン。


 茶髪の充が、「しゃあ! 勝利確定!」とガッツポーズを決めていた。倒れたすべてのピンが機械に飲み込まれて消えていく。


「あはは、馬鹿だな俺。こうして客観的にみると無邪気なもんだ」


「なあ、充……」


「ん?」


「俺は、お前を……」


 唇に、充の人差し指が当てられた。充は痩せた破顔をみせてくる。


「次、春香が投げるみたいだぜ。どうせガーターだろうけど、見守ってやろう」


「おい」


「あいつ運動神経いいくせに、ボーリングだけ苦手なの謎だよなあ。なんだよあのへっぴり腰……笑えるわ」


「充」


「ほら、やっぱりガーターだ。俺笑いすぎだろ……。案の定、アイアンクローされてるし」


「おいって!」


「春香を殺したのは俺だ」


 突然の告白に、透は固まった。春香と白い充を何度も見てしまう。


「……いま、なんて言った?」


 脇から冷たい汗が流れ出た。


「俺が、春香を殺したんだよ」充がもう一度告げて、重たい息を吐き出した。「亜加子から渡された拳銃でな……殺したんだ」


「なんで……? 亜加子に殺されたんじゃ……。あいつも、自分が殺したって言ってたぞ……」


「たしかに、あいつが主犯だよ。でも、直接手を下したのはこの俺だ」


 固く握られた充の手が震えていた。


「亜加子に命じられるままな。あいつは、撃たないと葉月ちゃんを殺すと脅しをかけてきた。五秒しかなかった。俺はわけがわからなくなって、自分を撃って死のうとした。でも……春香に止められたんだ。『いいよ』って」


 透は絶句する。


 充の話は、想像を絶する苛烈さと狂気を孕んでいた。春香を撃つよう脅され、混乱の極みの中で死のうとし、春香に救われ、春香を殺した。ボーリングで無邪気にはしゃぐ彼らが、そんな究極の状況の中で、究極の選択に身を委ねたのだ。


 充の悔恨は察するにあまりある。人を殺したことに対する後悔ももちろんだが、それ以上に春香だからだ。聡い充が、春香の気持ちを知らないわけがない。


 透は彼女から卒業式に充へ告白するつもりであることを聞かされていた。たぶん、春香も充の気持ちをわかっていた。わかっていたからこそ、透へその真っ直ぐな気持ちをぶつけたのだ。そんな彼女だからこそ……ひたむき過ぎるほどに充を愛した彼女だからこそ、充が殺したことは残酷な呪わしさがあった。


「……あいつを撃ったときの感触は、今でも忘れられない。引き金をひいたとき、肉をえぐるような感触が指先からしたんだ。光が広がって、破裂音がして、春香の頭が……」


 指先が、声が、充の魂が、激しく揺さぶられている。血走った目からボロボロと涙が溢れていた。


「俺は春香を殺した後、何回も死のうとした。でも、その頃には俺は人間じゃなくなっていた。死ねなかった。弾丸を頭に撃ち込んでも、包丁で心臓を刺しても、嘘みたいに治ってやがるんだ……。死んで詫びても許されないことをしたのに、死ぬことすらできなかった。俺は……俺は……っ!」


「もういい……」


 透は、充の手をとった。病人のように骨の浮き出た手に、血塗られた罪の重さが感じられる。彼の苦しみが、直接流れ込んでくるように思えて、息がつまった。頬に冷たいものが伝う。


「……春香は」


 慰めの言葉を吐こうとして飲み込む。そんなことをしても充は救われない。誰も、救われることはない。


 どこかのレーンで、ガーターを悔しがる声がしていた。


「……」


 無邪気に手を上げてボーリング球を取りにいく亜加子を、透は睨めつけた。激しい怒りに耳鳴りさえ聴こえてくる。 


「……あの野郎」


「……」


「許さねぇ……よくも、そんなクソみてえなことを……。ぶち殺してやる」


「……そう、思うよな」


 充が、ぽつりと溢した。


「当たり前だろ! あいつは、お前らを弄んだんだぞ!」


「……」


「お前は、あいつを救って欲しいって言っていたな! わからねえよ、あんな鬼畜……助けてやる義理がどこにあるって言うんだ! あんな邪悪なやつだって知っていたら俺は」


「関わらなかったか?」


 透の憤激は、静かに遮られた。


「そうだよな。あいつは残酷な殺人鬼だ。自分の絶対的な力に酔いしれて、イカれてる。でも、最初からそうだったわけじゃない」


「……何が言いたい? まさか、あいつにそうなるだけの過去があるから、許してやれって言うわけじゃないだろうな? そんなの言い訳になるかよ!」


「俺は、見たことがあるんだ」


 静かに、充が続ける。


「あいつの鞄から、妊娠検査薬が出てくるのを」


 予想の斜め上をいく言葉に、再び透は言葉を失った。ガタン、と音がした。亜加子が投げたボーリングの球が帰ってきたのだ。上機嫌に、茶色の充とハイタッチしている。


「お前は知っていたか? あいつの前の親父さんのことを」


「ああ、裁判官をしていたんだろ? たしか事故で――」


「違う」


 充は首を横に振った。


「自殺したんだ。良心の呵責に耐えられなくなって」


「……え?」


「あいつの親父さんは、ある殺人事件の裁判で無期懲役を言い渡した。直接的な証拠もなく、状況証拠だけで合理性にかける部分があったのにも関わらずな。もちろん、被告人は無罪を主張した。……だが、知っているだろう。起訴された場合は九十九パーセント以上の確率で有罪になるのが日本の司法制度だ。そして、裁判官は無罪判決を出すには慎重になりやすい傾向がある。控訴審で判決を覆された場合、自分の経歴に傷がつく可能性が高いからな。亜加子の親父さんも、その例に漏れなかった」


 充は言葉を区切り、息をついた。


「……結局は有罪になり、被告人は控訴も虚しく無期懲役が確定した。だがな……八方塞がりになり、絶望したその被告人は、拘置所の中で棚を削り出して作ったナイフで、手首を切って自殺した。……その数年後、被告人の遺族が出した再審請求が通り、被告人の無罪が確定したんだ」


「……」


「親父さんは、それを知って酒に溺れるようになったらしい。真面目な人だったらしいな。裁判官には向いてなかったんだろう。えん罪を出したことを深く悔いた。そうして、その再審から半年後に命を絶った。車道に飛び出して」


 それが、地獄の始まりだった。


 充の目は、林檎ジュースを美味しそうに飲む亜加子に向けられていた。


「……あいつの母親は、親父さんが亡くなってすぐに再婚した。不自然なくらいはやくな。わかるか、その意味が」


「……どういうことだ?」


「デキてたんだよ、親父さんが死ぬ前から。たぶん、それも自殺の原因の一つだ」


 透は思わず呻いてしまった。そこまで言われたら、皆まで言わずとも連想できてしまう。再婚した義理の父親……それが、マトモな人間ならいい。だが、そうじゃなかった場合。


 妊娠検査薬、というワードがすべての答えだ。


「あいつに、恋人が出来たことはない」


 充は強めに断定した。そこにははっきりとした拒絶の意志と悲しみが混ざりあっている。


「……そうか」


「たぶん、いまあいつの服の下は傷だらけだ。あいつ……重度の金槌だといって水泳の授業は必ず休んでいた。そういうことだったんだ」


「……」


「俺は、気づいていた。あいつが中学のときから、あいつの抱える深い闇に。そして……」


 ――そこに、つけこまれた。


 香澄の暗い微笑みが、頭に浮かんだ。だから、か。だからあいつは、亜加子のことを気にかけていたのだ。


 自分の駒に変えるために。


「……俺は、臆病者だった。お前とは違って、あいつの闇に手を伸ばすことを怖れたんだ。妊娠検査薬を見たとき、俺は声をかけてやることさえできなかった。いじめられてきたせいかな……怖いんだよ。人の闇を覗き込むことが。自分は無力だと知り尽くしているせいで」


「……」


「もし、あのとき亜加子に声をかけてやれば。亜加子の闇に寄り添ってやれていたら。こうはならなかったんじゃないかって思う。けっきょく俺は何も出来ずじまいで、あいつの奴隷にさせられてしまった。ケジメも、お前らに任せてしまった。本当、クソ野郎だよ……」


「……充」


「亜加子は、怪物だ。暴力と救われない孤独が生み出した化け物なんだよ。……力に固執しているのも、きっと自分の無力を深く嘆いたが故だ。俺には、わかる」


 充は立ち上がった。ベンチに座って上機嫌にジュースを飲んでいる亜加子に近づいて、膝をついた。亜加子と顔をあわせ、悲哀の笑みを浮かべながら、頭に手をおく。亜加子が、不思議そうな表情でキョロキョロと頭を動かした。頭を触り、首を傾げる。


「……透」


 充は振り返り、優しい瞳で透を見詰めた。


「今までありがとう。俺はお前のことを誰よりも大切な親友だと思っているよ」


  ――だから、殺してくれてありがとう。


 そう言った充の顔は、香澄の微笑みに変わっていた。











 残り五秒。


 光が泡沫と消える。灰色のオフィスが広がっていた。


 透の拳は、血肉に塗れていた。血と脳漿が天井を汚している。血の槍に縫い付けられていた充の身体は、下顎から先が消えていた。ダビデの彫像のように端正な顔立ちは原型を留めていない。


 充の舌が、でろりと垂れ下がる。


 倒れ伏した透の目から、感情が消えていた。


 残り四秒。


「……セン、パイ?」


 茫然自失となった亜加子が、平坦な声を溢した。充が、死に絶えたことを認識できていない。頭が、真っ白になっているのか。


 桜南が、疾駆した。


 冷然とした鋭い瞳で、亜加子の治りかけの傷口を見据えている。亜加子は気づかない。鋭い刃が、自身に向けられていることを。


 貫いた。


 残り、三秒。


 亜加子の顔の包帯が赤黒く染まる。血を吐いたのだ。ここに至り、ようやく亜加子の全身の瞳が動いたが、桜南は亜加子の反撃よりも先に突き刺した刀身を変形させた。無数の針が、体内で爆発した。


 鮮血が、噴き出した。


「あ、アアアアアアアァァァアアァアアアアアアアアアアッ!」


 大呼を上げながら、亜加子は巨大な鉈を振りかざした。


 だが、もう遅い。


 残り、二秒。


 桜南が、能力を発動させた。


 桜南の全身から黒い瘴気が立ち昇る。それは亡者の形となって亜加子と桜南を包み込んだ。亜加子の無数の瞳が、見開かれ、激しく揺れ動く。拷問される罪人のように、明らかに怯えていた。その、まったくの未知なる力に。


 圧倒的な、邪悪に。


「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」


 泣き叫ぶ亜加子の肉体が、叩きつけられた水風船のごとくグニャグニャと動いた。亡者の群れが、亜加子の肉体に入り込み、中から血肉を引き千切りながら出てくる。背中を突き破り、目を破裂させ、腹筋から内蔵を引き摺り出し、亡者たちは嘲笑う。


 その力は、絶望だった。


 「絶望」の殺意の権能。


 ――破壊。


「バカな……!」


 透の身体から、叫びがあがった。透の声ではなかった。


 信じられないものでも見たかのように、その声は焦燥に焼かれている。


「ナぜだ! ナゼ貴様が……貴様がその力を使える!」


 ――それはオレの力だ!


 驚愕の声は、桜南には届かない。


 黒い瘴気は、亜加子と桜南を蹂躙するように暴れ続け暴れ続け、やがて霧が晴れていくように消失した。破壊の力に焼き尽くされた二人の身体から煙が上がり、肉の焼ける刺激臭が網膜を刺すほどに立ちこめる。


「……ァぐ……ァァア」


 亜加子の身体は、ドロドロに溶けかけていた。包帯がすべて焼き切れ、醜く爛れた怪物の顔が露わになっている。スライムと化した肉片が、ボロボロと垂れ落ち、地面が汚れた。


 蹌踉めきながら、亜加子は後退する。窓のところまでフラフラと下がると、彼女は胃酸の混ざった大量の血を吐き出した。


「……セン……パ……イ」


 亜加子の巨体がぐらりと揺らぎ、背中から倒れていく。窓の外へ投げ出された彼女は、驚くほど静かに落下して消えていった。


 それを合図にしたかのように、煙を出しながら佇んでいた桜南も、大量の吐血をしながら倒れた。獣の姿から人間の姿へと戻った桜南は、息を荒げながら窓の方を見遣る。


「……やっ、た。透くん……やったよ」


 透の方から反応はない。


 彼は、事切れた親友を感情を失った瞳でただ静かに見つめている。ぬるい風がむせ返るような血の匂いを運んで、人間の姿へと戻った透の髪を揺らした。


「……充」


 ――俺は、もう幸せにはなれない。




 















 

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