第九章 三
【二〇二二年 九月二十五日】
ここに逃げてきて、十日。
まだ十日しか経っていないんだな、とカレンダーを見ながら思います。もう一年は過ぎたんじゃないかと思えるほどに、濃密で苦しい時間を過ごしています。息が苦しい。毎日、毎日。
なんで私が、私たちがこんな目に合わないといけないのでしょうか? あの化け物は何? 突然現れたあの化け物たちに、人がたくさん殺されたのです。こんなの普通なら誰も信じないでしょうが、私の見てきたものは紛れもない事実なのです。最悪の現実です。
私もいつかああなるのでしょうか。私を庇ったお父さんを見殺しにして逃げたから……その罰がいつか、下るかもしれない。怖い……。あんな風になりたくない。
私が日記を書こうと思ったのは、何かしら生きた証を残したかったからです。これが誰かのもとに届くことがあるのかわかりません。ですが、誰に届かなかったとしても、きっと無意味ではない。そう信じて書いていきます。
でも、今日はもう疲れました。書きたいことはいっぱいあるはずなのに、身体が重くて頭がぼうっとします。眠れるとは思えませんが、今日はここまでにして休みます。
【二〇二二年 九月二十六日】
このショッピングモールには、現在三十名以上の生存者がいます。大人から子供まで、様々な人たちが集まっていますが、当然ながらみんな暗い顔をしています。先行きの見え無さ、化け物に襲われた恐怖……言い表わせない感情と思いに苦しめられて、潰されそうになっているのでしょう。
私もそうです。目の前で親を殺され、ここに連れてこられたときは涙が止まりませんでしたし、今でも夜は泣いてしまいます。
私たちがこんなところに逃げてこられたのは、■■■■■のおかげです。でも、感謝の気持ちなんて一日と持ちませんでした。あの子は、人間じゃありません。本当の意味で、人間じゃないんです。あの子は化け物に変身して、私達を支配しています。理不尽な契約を取り付けて、指示に従わないなら殺すと遠回しに脅し、実際にここに来て二週間あまりで何人も殺したのです。恐怖。その感情で私達を縛りつけ、逃げられないようにしている。言うことを聞かせようとしている。人間のやることじゃない。
どうして? あんな子じゃなかったはずなのに……■■■■■■は、天真爛漫で明るい子でした。虫も殺さなそうなあの子が、こんな残虐なこと平気でできるなんて信じられない。信じたくない。
なんで、こんなにも嫌なことばかり起こるのでしょうか? 神様はけっして平等などではないと思い知らされるようです。
でも、一つ良かったことがあるとしたら、友達と再会できたことです。同級生の■■。私の■■■な人。■■と会えただけでも、少し救われた気分になるのです。良かった。生きていてくれて、本当にありがとう。■■■■たくなります。そんなことをする勇気なんてありませんが……。
「……」
桜南は、重い溜息をこぼした。
あまりにも酷い運命の悪戯だ。同級生の黄瀬川春香が、こんなところで生を繋いでいたなんて。
この日記には春香の悔恨と叫びが刻まれている。まだ二ページしか読んでいないが、彼女の苦しみと切実な想いは充分すぎるほどに伝わってきた。
そして、この場所で起こったことについても。
桜南の推論は間違っていなかった。思ったとおり、「上位者」がこの場所を縄張りにして生存者たちを匿っていた。しかも、その「上位者」は間違いなく春香と顔見知りだ。つまり、透や桜南が知っている人物である可能性が高いということでもある。名前がなぜか水性ペンで潰されていてはっきりしないが、それだけは間違いない。
誰だ……? ここに書かれている情報から思索してみると、該当する人物が数名浮かぶ。透の周辺にいる人物は徹底的に調べ上げているから、頭に浮かんだ候補者の誰かで間違いはないはずだ。
読み進めれば、はっきりするだろう。
「……透くんには、見せられないね」
桜南は、気の重さを紛らわせるように呟いた。
こんなもの透が見てしまったら、気落ちするどころではない。心をバラバラに引き裂かれて泣き叫ぶだろう。そして、また余計な責任を抱え、苦悩を深めることになる。真面目すぎるほど真面目な彼に、これ以上余計な情報を与えるのは得策ではない。
それに、ここにはもう一つ無視できない情報がある。春香以外の、知り合いの生存者がいたという事実。この人物のことを、春香はそれなりに気にかけていたようだ。博愛主義者的な性格の春香だから、とくに不自然とは言えないが、単なる知り合いに向ける感情としては特別にも感じられる。
まさか……。
「……それこそ、最悪だ」
頭に浮かんだ人物の顔を振り払うように、桜南はページをめくった。
一日一日と。地獄が深まっていく残忍さがそこには詳述されていた。積み重ねられていく死と、摩耗する精神の記録。運命に立ち向かい、生きようと抗う少女の強さは、暴風にさらされた枯れたススキのように儚く痛々しい。折れそうになっていた、何度も何度も。涙で濡れたのだろう。ページのところどころ、インクが滲んで文字がボヤケている。
あまりの切実さに、感情の薄い桜南でさえも胸を打たれるほどだった。黄瀬川春香がこれほどまでに芯の強い少女だと思わなかった。彼女は堅い性格の割に誰からも好かれていたが、その理由はきっとこういうところなのだろう。彼女の強さと明るさは、誰かの闇を照らす光そのものだ。
透と仲が良かったわけだ。春香と透は、よく似ている。
だからこそ、彼女が辿った残酷な未来を思うと、胸が苦しくなる。この血肉地獄のどこかに、彼女の残骸が横たわっているかもしれないのだ。
桜南は、目頭を押さえた。
さすがに酷すぎる。こんなの透には耐えられるわけがない。
読み進むに連れてわかったのは春香の直向きさだけではない。桜南の仮定が次々と鮮明な色を帯び始めたのだ。明らかになるのは、すべて悪辣な事実だ。まず、間違いなくここを地獄へと変貌させたのは、あいつで間違いない。天真爛漫の仮面を被っていた薄暗い少女――。水性ペンでところどころ修整を入れているのも、きっとあいつだろう。
そして、春香のノートに出てくるもう一人の生存者……。春香は明らかにこの人物に恋をしている。肝心なところは逐一消されているが、それでもその想いは消失することなく、不思議と読むものに伝わるようになっている。それに抗うように、ページを追うごとに不粋な修正も増えているが。かえってそれが、春香の想いの強さを補強しているから皮肉でしかない。
もう、はっきりとしていた。この舞台にいた登場人物たちは、ことごとく透の知り合いで、ことごとく惨殺されたのだと。
「……」
桜南は、思わずノートを握りつぶしそうになった。だが、寸前で思いとどまり、続きに目を走らせる。読まなければならないと思わせる力が、この日記にはあった。
白村真の名前が出た。消されていないのは、あいつにとってはどうでも良かったからか。彼は化け物たちにバラバラに引き裂かれたのだという。文字が歪んでいたのは恐怖からか怒りのせいか。許せない、と力強く書かれていた。次の日は、真の母親が自殺したことが書かれ、彼の妹の身を案じる内容に終始していた。その次の日も、誰かが死んだ。その次の日も、その次の日も。文章の鬱屈が深まっていく。自殺を仄めかす文言が出た。初めてだった。疲れた、とはっきり書いてある。
そして、最後の記述にたどり着いた。
思わず目を見張った。
「……なんだこれは」
【二〇二二年 十一月十三日】
今日は■■と■■をしました。
一人で耐える彼のことを、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。■■は、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね家電量販店の椅子に、死ね死ね死ね死ね死ね死ね。いえ、死ね死ね死ね死ね死ね。首輪から伸びた鎖が鈍く輝いていて、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
私は泣き死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。見ているだけ死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。■■の歌は、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
そして、突然、何かに怯えているように叫び出しました。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
■の心が、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
◼◼◼◼◼◼と。そう、思ったんです。だって、みんな死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
でも、そのとき私は死ね死ね死ね死ね死ね死ねません寄り添わないと死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。後悔も死ね死ね死ね死ね死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
私は、死ね死ね死ね死ね。学校に死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
待っていたのは、あまりにも悲しくて死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね私は苦しくて、思いの丈を死ね死ね死ね死ね死ね。
でも、◼◼から返ってきたのは死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。そう、叫び返してや死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。言葉は届きません死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
◼◼◼◼。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。なんの考えも、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
◼◼◼◼◼。ううん、いまでも殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
殺す。死ね死ね死ね死ね死ね。
ねえ、◼◼◼◼なの? どうしてあな殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すするの? 死ね死ね死ね死ね。誰なんだろう、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。こんなの、乗り越えら殺す殺す殺す殺す殺すと。◼◼よ。◼◼◼◼よ。どうして、◼◼殺す殺す殺す殺す殺す殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
お父さん。これって、殺す殺す殺す殺す殺す? 殺す殺す殺す、一緒に逃げているときに、私を殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す、神様が殺す殺す殺す殺す殺す? 許してなん殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
こんなにも辛いことがあっ殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
◼◼◼。◼◼◼◼◼◼。
ああああああああああああああああめんね。お父さんにも、ああああああああああああ。ああああああああああああああああああ。
もし、そっちに行ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
いつかああああああああ、虹がかかりまああああああああああ。
虹なんてない虹なんてない虹なんてない虹なんてない虹なんてない虹なんてない虹なんてない虹なんてない虹なんてない虹なんてないないないないないない死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね――。
呪詛に、塗りつぶされていた。
その汚い文字に込められた怨念の強さは、見たものを呪い殺さんとせんばかりの悍ましいものがあった。少女の輝かしい強さは、精神病質者の破壊的欲求にすべて穢されていた。背筋に、ゾワゾワとした寒気が走り抜ける。思わず振りかえってしまうほどだ。当然、誰もいない。呪いのメッセージを受け取ってしまった少女のように無垢な反応をしてしまった自分を恥じることもできないほどに、それは強烈であった。
「なにがしたい」
つい、声に出る。
わかっている。わかっているんだ。恋煩いを一度は体験したなら、その感情は誰にでも付き纏うものだ。しかし、これほど肥大化し、醜く変質したものを、修羅場をくぐり抜けてきたはずの桜南であっても見たことはなかった。
桜南はシェイクスピアの「オセロー」にあったイアーゴーのセリフを思い出した。
――将軍、恐ろしいのは嫉妬です。それは目なじりを緑の炎に燃えあがらせた怪獣だ、人の心を餌食とし、それを苦しめ弄ぶのです。
そう、まさに化け物だ。これをやった人物は……。
「なにがしたいんだ、赤坂亜加子」
あれのことは、最初からわかっていた。教室の隅で透を監視しているときから。たまに教室に訪れては、透たちと喧しく騒ぐあれが、まともな人間ではないことなんて。仮面をかぶるもの同士、わかっていたはずだ。
「彩」でも、監視対象に入れることが検討されていたほどだったのだ。異色香澄と接触がある数少ない人間の一人でもあったから。
「……」
桜南は、頬に伝う冷たいものを感じながら、重たい指をページの隅に添える。引き込まれるように、何かに動かされるように、残り少ないノートのページをめくった。
後ろを見ろ。
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