第九章 二





「……中央広場の方だね」


 建物の全体図が描かれたパネルを見ながら、桜南が言った。アパレル店から拝借した黒いパーカーとデニムパンツを身につけた彼女は、平凡でシンプルな服装なのにも関わらず、人目を引きそうなほどに綺麗だった。着る人間によって、こうも変わるのか。そう感心したいところだが、微かに浮かんだ感慨を、透は頭の隅に追いやる。


 現実逃避はなんの役にも立たないことを、嫌というほどに思い知っている。


「そこから、臭うんだな?」


「ええ。少し離れているけど、はっきりとね」


 桜南は、切れ長の目をこちらに向けた。


「……やめるならいいんだよ。無理して見るようなものでもないんだ」


「……いや」


 透は重たげに俯く。


 桜南の言葉の意味は、はっきりとしている。そこにはきっと、凄惨な光景が広がっているのだ。香澄の元から逃げ出して見た、血の霧で烟る死屍累々の街と同じような景色が。


 脇から冷たい汗が流れる。唇が、勝手に震えて止まらない。あの記憶が過ぎるだけで、心がヤスリで削られていくかのようにザラザラと痛い。吐き気さえしてくる。車の上に横たわる、半分に割れた女の顔……断面のぬらぬらと輝くサーモンピンクの肉の中で蠢く白い米粒のようなもの。蛆虫。耳を犯す蝿の羽音。


「やめなよ」


 桜南がきっぱりと言った。


「そうやって怯えるくらいなら、やめた方が賢明だ。君は警察官じゃない。ああいったものを検分しなければならない義務も責任もないんだ。見もしなくていいものを見て、わざわざトラウマを増やす必要がどこにある?」


 あまりにも尤もな言い分に押し黙るほかなかった。桜南の推論が間違っていることは十中八九ないことは分かっているし、だからこそパンドラの箱をわざわざ開けにいこうとしている自身の愚かさも理解している。本当は、見たくはない。目を瞑れるなら瞑りたい。


 だが、もしかするとそこに何かしらの手懸りがあるかもしれないのだ。万が一に生き残ってくれているかもしれない誰かの痕跡が、残されている可能性もある。さっきの決意を、揺るがせるわけにはいかない。


 それに――。


「なんなら、私が見に行ってもいいよ。私は仕事柄、そういうものには慣れているからね。胃の内容物を撒き散らすようなこともないし、なんならその一時間後に生ハムを食べることだってできる。どうだろう、君はゆっくり休んで」


「行くよ。やめない」


 透は軽口混じりの桜南の言葉を遮って、頭を振った。


「確かめないといけない。生きている人がいるかもしれないんだから」


「……」


「それに、責任がないわけじゃない。この事態を引き起こしたのは異色家なんだ。だから、ここで起こったことは俺たちのせいでもある。家のものとして、そこから目を背けるわけにはいかない」


「君のせいじゃないよ。何度だって言うけどさ、君が必要以上に責任を感じることはない」


「感じるに決まっているだろ。香澄は、俺の妹なんだぞ!」


 透は声を荒げた。それを聞いた桜南の目は冷たく、苛立っているのか鋭かった。


「なんでそう背負いたがるかな? 異色香澄が君の妹かどうかなんてそんなの関係ない。あいつは救いようもないほどに悪魔で、君は何も知らない無垢な普通の少年だった」


「家族が犯した罪を、俺には関係ないですなんて済ませられるほど、俺は無責任じゃねえんだ生憎な!」


「……君は、自分をもっと知るべきだ。悲しいほどに普通な君が、そんな風になんでもかんでも責任を感じていたら潰れるぞ、そのうち」


「でもな!」


「でもなもクソもない。この世界はね、常人なら発狂してもおかしくないイカれたところなんだ。考えてみろよ。住人がすべて殺人鬼の、警察不在の街にいるようなものなんだ。ゴッサムシティも目じゃないほどに治安の崩壊したところなんだよ。偶然力を持ったから勘違いしているのかもしれないが、訓練も受けていない君が直視し続けられるほど甘くはない」


「なら、なんでさっきは反対しなかったんだよ! そんなこと今更言われてもなあ!」


「それは君がどう言ったって考えを改めないことを分かっているからだ! あなたは本当に……愚かしいくらい真っ直ぐだからな。どうせ、反対したってあなたは勝手に動くだろう。反対してもしなくても同じだから、こうして付きあってるんだよ。わかれよ、馬鹿!」


 桜南の拳が案内板に突き刺さった。その後ろにある壁にまで減り込み、轟音とともにヒビが走り抜ける。


 目を見開く透を睨みつけて、ドスの利いた声で桜南が言った。


「……手段を選ばないなら止める方法はあるんだ。あなたを首だけにしたっていい。でも、そうしない理由を考えてみろ。それがわからないほど、あなたは馬鹿なのか?」


 透は沈黙せざるをえなかった。わがままを言い続け、堪忍袋の緒が切れた大人に激しく叱責された子供のようなものだった。


 桜南が、そんな透に呆れながら従う理由。もちろん、それが分からないわけがない。お互いの気持ちを確かめあった今となっては。


 拳を壁から引き抜いた桜南は、大きく息をついて歩きだした。振り返りながら、透を睨みつける。


「……存分に見せてやる。それで現実をはっきりと理解すればいいんだ。どうせ、あなたは止まれないのだから」


 




 近づけば、近づくほど。


 近づけば近づくほど、現実がより鮮明さを帯びていくのがわかった。


 鼻の利かない透でも感じられるほど、濃くなっていく血の香り。腐った卵を何十個分も撹拌し放置したかのような据えた臭い。明らかな死臭。ときおり顔に飛んでくる蝿は数を増すばかりだ。


 脂汗が浮かぶ。蒸し暑くて息苦しいのに、異様な毒性を帯びた空気のせいで口呼吸さえ憚られるほどだった。臭い。きつい。熱い。苦しい。


「まるで、ジョンゲイシー宅の発掘作業みたいだな」


 桜南が、良く分からない例えを溢していたが、数秒後には何と言ったのか忘れた。


 足が重くなっているのを感じる。心のどこかにある警報装置が、そこへ近づくなとアラートを荒ぶらせている。


 透の足取りが遅くなっていることに気づいているだろうが、桜南は何も言わず、振り返りもせず前を歩いている。近づいてくる現実の残忍さが、桜南の正しさを否応もなしに教えてくるようだ。


 だが、透は歩みを止めない。


 馬鹿なのは昔からわかっている。自分の信念に従って、これまで損をしてきたことは一度や二度ではないのだから。でも、自分の中にある正しさに従うしかない。不器用は、不器用なりに。


 曲げるわけにはいかない。


「……」


 左の角を曲がり、中央広場が見える廊下にたどり着いた瞬間だった。桜南が立ち止まった。そうしてしばらく広場の方を見つめた後、ゆっくりと透に顔を向け、悲しげに目を伏せた。


「……好きにしなよ」


「……桜南」


「あなたが、望んだことだ」


 透は、その言葉に引き込まれるように角を曲がり、桜南の横へ立った。


 ――花畑が広がっていた。


 赤い、黒い、赤い赤い赤い赤い黒い黒い黒い黒い黒い花が咲き誇っていた。乾ききった湖の辺りで。


「……うっ!」


 透は跪いた。胃液が沸騰するかのように競り上がってくる。必死で飲み込んだ。口を抑え、身体を反り返し、顔を天井へ向けて。汗がどっと溢れてシャツを一瞬で濡らした。


 唇を噛み締め、堪えに堪え、透はもう一度その悲惨さに目を向ける。


 枯れかけた彼岸花は、大量に撒き散らされた腐りかけた肉の残骸だった。白く濁った目、半分に割れた頭、明後日の方向へ向いた紫色の手足。膨らんだ肉塊は、ガスの溜まった人間の腹部だ。それらに嬉々として群がり、密を吸いにきたのはすべて蝿だ。異様な数。壊れたラジオを大音量で流しているかのように、羽音がオーケストラを奏でている。乾いた大量の血は、汚泥に侵された池よりも深刻な色合いをして、見るものの気分を著しく害する。


 肉の合間には、新しい白い命が泳いでいた。たくさんたくさん。笑えるほどに蠢いている。


 花畑。花畑だ。そう思わなければ、情報を処理できないほどに、そこに広がる景色は残虐非道を極めつくしてやまない。


 ヒエロニムス・ボスでも、こんな絵は描かないだろう。


「……地獄にいるのか」


 思わず溢した感想は、これまで何度も何度も確認してきた実感と相違ない。桜南もなにも言わなかった。わかりきったことを、とすら。


 戦慄く身体を抱きしめて、透は声を吐き出した。


「……こんなの、人間のすることじゃねえ」


「ああ、これをやったのは人間じゃない」


「……なんで、どうして。せっかく生き残ったはずなのに、こんなことが……こんな目に……人が……」


「これが……」


 現実だよ。


 きっと、桜南はそう言いかけたのだろう。しかし言葉を飲み込んだのは、わかりきったショックを受ける透へ、わかりきった憐憫を抱いたためだ。病的なまでに正義に憧れる、普通の精神性しか持たない少年の馬鹿らしさと脆さに。


「……やっぱり、見るべきではなかったね」


 ガタガタと震える透の肩に手を置いて、桜南は告げる。


「ここの調査は私がやろう。今のあなたでは、ここに立ち入ることすら難しいだろうしね。居るとは思えないけど……生存者の痕跡が残っているかどうかも私で調べておく」


 透は何も言えなかった。


 まるで拘束具をつけられたかのように口が重く動かない。それなのに歯がカチカチと音だけを奏でる。言えない。自分も、調べると。


 どうしても、言葉にできない。


「……ここから離れてるんだ。いいかい? さっき休んでいたところに、水を置いている。それでも飲んで落ちつくといい」


「……」


「立てるか?」


 透は黙したまま頷いて、立ち上がる。身体がふらついた。地面の感触さえ朧げだ。


「……あなたを『上位者』にしたくなかった理由が、これでわかっただろう。こんなものを平気で作り出せるやつと、君は向かい合わなくちゃならないんだから」


「……」


「……もう、行くんだ。ゆっくり休んで」

 

「どうして、お前は平気なんだ……?」


 弱々しい疑問に、桜南は氷のような笑顔を浮かべる。感情の読み取れない、深い闇の中へと向けられている表情だった。


「そういう世界で生きてきたからだよ。それ以上は言いたくない」








 桜南は、気付いていた。


 赤黒い花畑の中を歩きながら、光のない瞳を淡々と走らせ、この場で行われた惨劇を分析していく。酷い匂いは、感情と心を消すことで冷徹に対処した。不快感も、生理反応さえも、これまで『彩』で受けてきた訓練のおかげで限りなくゼロに抑えることができる。人間味の喪失。殺人機械になること。それが、訓練の真髄だから。


 この光景は、幼い頃……人を殺し始めたころに見た悪夢と相似する。心を殺し切ることに成功してからは見なくなった夢だ。銃で撃った政治家が、口封じのために酸で溶かしたその家族が、ナイフで貫いた経営者や反政治団体の人間たちが、紛争地域で爆殺したレジスタンスや民間人……ありとあらゆる人間たちが……死体となった彼らが、桜南に襲いかかってくる。


 ここに廃棄された残骸たちは、桜南を襲うことはない。自分が殺したわけでもないし、腐りかけて朽ちるだけの状態だからだ。


 死体はどれも死後一ヶ月を過ぎているようにも思えたが、死体によって腐敗の仕方が様々で正確な死亡期間が割り出せない。腐敗の仕方に個体差があるとかそんな次元ではない。完全に白骨化したものもあれば、数日前に亡くなったかのように思える比較的新しいものもある。うすうす気づいていたが、この次元は時間の概念が歪んでいるところがあるのだろう。それもおそらく、生物以外のものに作用している。


 桜南は、残骸たちから壁や天井へと視線を走らせる。異様な亀裂の走った壁、破壊された支柱、割れたタイルの地面……。


 明らかに、故意につけられた傷だ。


「……間違いない」


 ここで、『殺意』同士の戦闘が行われたのだ。どういう経緯があってそんなことになったのかは分からないが、おそらくは協力し合っていた上位者同士が仲間割れをしたか、何らかの手違いで侵入してきた下等種を殺したときにできた痕跡ではないだろうか。だが、それにしては下等種の死体がない。処分したか? ならばなぜ人間の残骸はそのままなのか――。


 答えは杳として見えない。


 ただ、一つだけはっきりしていることがある。わかりきっていたことだが、ここに透の望んだ生存者の痕跡は欠片もない。残酷なまでに死が横たわっているだけだ。その事実だけは、安堵できる。


 殺さなくてよいからだ。


 仮に生存者がいたとして、桜南は透と違って助ける気はなかった。いくら最愛の人の望みとはいえ、これだけは譲れない。そんなものを助けたところで、匿えそうな安全な場所もないし、足手まといにしかならない。遠足の引率ではないのだ。弱者を連れて歩ける余裕など、どこにもない。そんな状態で、あの異色香澄と戦えるはずがないだろう。見つけたら、透が何と言おうと殺すしかなくなる。それが一番効率がいいから。


 だから、みんな死んでいて欲しい。透のためにも――。


「……それにしても」


 桜南は思索を切り替える。


 考えたのは透の中にいる「殺意」についてだ。おそらくは「守護」を冠する「殺意」であることは間違いない。だが、そんなことよりも、透に対して決して協力的でないことが気にかかる。それに、何を考えているのかがまったくわからない。道楽なのか、それとも何か目的のあってのことか。こんなところに、わざわざ避難させた理由はなんだ? なぜ、殺意の縄張りとわかってきて連れてきたのか。


 そこに、何かしらの作意がある気がしてならない。


「……?」


 ふと、桜南は妙なものを見つけて立ち止まった。明らかに、この花畑には似つかわしくない人工物が捨てられていたからだ。


 それは、ノートだった。


「……なんだ、これは?」


 桜南は、それを拾いあげる。血で汚れている形跡があるが、どこか不自然だ。この惨劇のあとに捨てられたように見える。


 周囲の様子を伺う。もちろん誰もいない。念の為に先程から「殺意」の気配も探っていたが、特有の悍ましい肌感覚もない。


 桜南は再びノートに目を落とし、表紙に書かれているものをみて、目を見開いた。


 そこには、黄瀬川春香という名が、丸っこい字で書かれていた。


「……黄瀬川さん?」

 


 


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る