第九章 四



 


 景色が、歪んで見えた。


 毒性の強い死臭に頭をやられたのかもしれない。吐き気が止まらない。頭が痛い。透はときおり、壁に手をつきながら、ふらふらと揺れる身体を前に進める。


 一刻も早くあの場所から離れたかった。でも、心のどこかから「逃げてはいけない」という声が響いてくる。立ち向かえ。お前の妹が犯した罪から目をそらすな。死体の一体一体に頭を下げろ。今すぐ、引き返せ。


 だが、身体は逃避を選択していた。桜南が、見なくていいと、離れていていいと、そう言ってくれた。それが、崩れそうな心に正しい選択をさせるきっかけとなってくれていた。


「……はは」


 透の頬に、冷たい水滴が伝う。唇に流れたそれを反射的に舐め取ると、蒸留されたばかりの塩のような苦味を感じた。慚愧の苦さだった。


 桜南の言うとおりだ。


 透にはこの大罪を抱えられるだけの器がなかった。悲しいほどに、普通の背伸びをしているだけの男子高校生でしかないのだ。虐殺現場という圧倒的な残虐な現実を前にして、爪先立ちをしていられるわけがない。


 自分をヒーローだと思いたかった。助けられるなら助けたかった。


 だが、あの光景は、そんなちっぽけな矜持と全能感を粉々に破壊した。


 ――けはは、ザマアねえな坊や。


 脳を揺さぶる不協和音。ブラックナイトの影が、篝火のように佇んでいる。


 ――あの小娘が言ったとおりだ。お前さんは、ただのクソガキでしかねえ。これでわかっただろう、ん?


「……うるせぇ」


 ――いや、まだ分からねえか。分からねえよな。お前さん、馬鹿だもんな。なんたって、俺の力を自分の力だと勘違いするくらいだ。馬鹿にゃ、もっともっと地獄を見せてやらねえとなあ。


 ブラックナイトの影がさらに歪んだ。目と口が、三日月のように尖っていく。ヤスリで肌を撫でられたような不快感に、透は歯ぎしりをした。


「うるせぇ、クソ野郎。……臭え口を閉じやがれ」


 ――悪態に元気がないなあ。なあ、坊や。お前は俺だから教えてやろうか? なぜ、俺がお前さんたちをここに連れてきたと思う?


「……なんだと?」


 ――だから、俺がお前さんたちをここに連れてきた理由だよ。別に安全だから、ここに逃したわけじゃねえんだぜ。ここがな、お前さんにとって最悪な地獄そのものだからだよ。


「……クソ野郎が」


 ――けははははっ、クソ野郎で結構ケッコウ。俺は「殺意」なんだぜ? 殺し殺され絶望する状況は、美酒に酔うようなものだ。楽しまねえとなあ、あの女が用意した悪趣味なゲームをよ。


 透は、睨みつけることしかできなかった。影は影でしかない。透が見ている幻想で、実態などないのだ。沛雨に文句を言っても止まないのと同じように、何をしたって徒労に終わる。


 ブラックナイトは、そのことを分かっているのだろう。不甲斐ない透を虐めて満足するまで、けっして消えはしない。


 指をさしてきた。


 ――坊やの妹は、最悪なやつだぜ。あいつはお前さんを壊そうとしている。お前さんの大切なものを弄んで、ぐちゃぐちゃにするつもりだ。本当の地獄は、あんなチャチな死体展示場じゃねえぜ? これから始まるんだ。


「……どういうことだ? 香澄のやつは、何をする気なんだ?」


 ――すぐに分かる。なんなら、一分もせずにな。


 ブラックナイトがそう言った瞬間。どこからか、すすり泣く声が微かに聞こえてきた。


 透は驚いて、辺りを見回した。ブラックナイトの影はいつの間にか消えていた。だが、そんなこと意識にはのぼらない。ただただ、育児放棄された子猫のように儚いその声に耳をすませる。気のせいではない。たしかに、する。声が聴こえる。


「誰かいるのかっ!」


 目眩なんて感じている場合ではなかった。粉々に砕け散ったはずの一縷の望みが、再度現れたかもしれないのだ。


「おい! いるなら返事してくれっ! 誰かいるんだろっ?」


 返事はない。泣き声だけが続いている。


 透はふらつく身体を動かして、声のする方へ向かった。玩具売り場の方だ。暗闇に包まれた中へと入り、プラモデルの箱が積み上げられた区間を通る。声は次第に大きくなる。いる。間違いなく。生存者がいるんだ。


 早まる鼓動。透は、レジの横でうずくまる子供を見つけた。


 全身が真っ白な少年だった。髪の毛まで雪のように白い。年の頃は、おそらく十歳やそこらだろう。なぜか服を着ておらず、全裸の状態で座って、泣いている。


「……なあ、君」


 透が声をかけると、小さな肩が震えた。驚かせてしまった。声の大きさに気をつけながら、なるべく優しいトーンを意識して、ふたたび声をかけた。


「大丈夫かい? 君、一人だけかな?」


 少年のすすり泣きが止まった。


「……もう、大丈夫だよ。お兄さんが君を助けてやるからな」


「……」


「……頼りになる仲間もいるんだ。君を安全なところへ連れていってあげるから、もう心配しないでいいんだよ」


 安全な場所なんて本当は思いつかなかったが、この子を安心させたくてつい口に出してしまった。きっと、桜南に指摘されるだろうし、怒られてしまうだろう。それでも構わない。


 誰かが、生きていてくれた。その事実だけが、重要なのだ。


「怖かっただろう? ……立てるかい?」


 透がそう言って手を差し伸べると、少年がゆっくりと顔を上げた。


 思わず目を見開く。その顔には、眼球がなかったからだ。大きく落ち窪んだ眼窩には、凶悪なほどの闇が覗いている。


 白い身体に、無数の目が咲いた。


「アリがとウ」


 その瞬間、差し出した右腕が喰い千切られた。


「――えっ」


 血が噴き出した。先程までそこにあった右手が消えていた。少年の背中から伸びた触手。そこにあった口が、手を食んでいる。食んでいる食んでいる食んでいる食んでいる食んでいる――。


 焼けるような激痛。


 透は絶叫した。腕を押さえ、両膝を地面について、喉が割れんばかりに泣き叫ぶ。痛い。熱い。骨がはみ出して。焼けた鉄板を肌に押し付けられているかのようだ。白い筋。神経。空気にさらされている。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いイタイイタイ。


「ごちそうサま、いたダキまス。どっちダっけ? どっチ?」


 少年は泣いていた。泣きながら透の手を食べていた。異常な状況。異様な光景。立ち上がった少年は、血と脂汗を撒き散らしながら叫ぶ透を見下ろして、腕を振り上げる。腕の肉が膨れ上がった。


「あハっ」


 巨大化した拳が、透の顔面に突き刺さった。


「――」


 視界が黒く染まった。メキッという音が頭の中で響き渡る。頸椎に走り抜ける痺れと、筋繊維が千切れていく感触。


 吹き飛ばされた。棚をいくつも薙ぎ倒し、プラモデルの箱やレゴブロックが周囲に飛び散る。救急車のサイレンや、無機質なダンスミュージックが流れた。弾みで電池の入った玩具のスイッチが入ったのか。背中の鈍痛。首からズンズンと奏でられる深刻な悲鳴。白黒と明滅する景色。口の中に広がる鉄の味。


 泣きながら笑う少年。


 透は、起き上がろうとして倒れた。床の方から迫ってくるようだった。脳震盪。目に映るものが、浮かび上がり分裂する。受け身すら満足に取れなかった。吐き出した、血の塊を。


「か、がはっ……げほっ……」


 少年が、迫った。丸太のような腕が眼前に迫る。歯を食いしばり、寸前のところで透は回転した。


 轟音。砕け散る玩具たち。プラスチックの破片が、額や腕に当たる。


 透は目を走らせた。蜃気楼のような少年。こちらを見て腕を振るう。かわす。転がりながら思う。こいつか。こいつが、この場所を地獄に変えた悪魔なのか――。


 加速する戦慄と怒り。右腕からの失血に反比例するように、感情が昂る。腕を喰われたのに。怖いのに。脳内麻薬が、爆ぜる。


 ブラックナイト。


 心の中で唱えると、中にいる影が妖しく笑った。


 瞬間、透の身体が肉風船のように膨張した。アイスのように溶けていく理性。感情。思考。代わりに湧き起こる膨大な闘争本能と全能感。破壊衝動。壊したい殺したい潰したいバラバラにしたい――。


 飲まれるな。


 眠りに落ちそうなときに頬を叩くように、透は自分に言い聞かせる。水飴のような粘性の湖に沈む寸前で、飲まれそうな意識を取り戻そうと言い聞かせる。委ねるな、任せるな、奪われるな、こいつは俺がコントロールするんだ。足を引きずられるような感覚に逆らう。


 強烈に引き込まれるような感じは、なくなった。突然、掴まれていた足を手放されたかのように。


 ――いいぜ、やりなよ。


 腕を振り上げる少年が、眼前に迫った。


 ――お前さんが殺すんだ、そいつを。


「がアアあアアアァッ!」


 振り落とされた鉄塊のような腕を、透は叫び声を上げながら受け止めた。爆発的な衝撃とともに、沈み込む身体。地面のタイルが割れ飛び、亀裂が走り抜ける。


 左の上段受け。ブラックナイトと化した透は、少年の腕を振り払い、体勢を崩すと、横薙ぎに頭を蹴りつけた。何かが折れる感触とともに、少年の身体がサッカーボールのごとく跳ね跳んでいく。地面をバウンドし、ガラスの柵を突き破り、一階まで転がり落ちた。


 追撃をやめない。透は一階まで飛び降りながら、地面に倒れた少年へと踵を突き落とす。砲弾のような勢いで放たれた蹴りは、当たる寸前でかわされる。耳を劈く轟音。吹き飛んだ観葉植物と休憩用のソファ。首が不自然に曲がった少年。だが彼は動きをやめるどころか、飛び上がったソファに手を付けて、器用に回転する。そのまま、透へ向かって、ソファを蹴り飛ばしてきた。


 黄色い革製のクッションが、視界を覆う。腕で払い飛ばした瞬間、入れ替わるように無数の触手が迫ってきた。鞭のようにしなり、空気を割く。かわしきれず、肩口を切られた。先端に刃物がある。傷は浅い。 


 が、触手の追撃はやまない。幾度も幾度も交錯し、壁や天井や床に傷を走らせた。鉄をこすり合わせるような不協和音。その先端は目で追えない。しかし、操るものの筋肉の動きなどからどう動くかは予想できる。なんとかかわしながら、透は前に出る。右から触手。身体をひねり、紙一重で避ける。全部で六本。いける。


 これが、「殺意」の力なのか。身体が嘘のように軽い。なんでもできそうな気がする。空手や柔道で培った力が、これまでの何十倍の勢いで出せる。


 透は、すべての攻撃を掻い潜り、少年に肉薄した。全身の筋肉を弛緩させ、脱力し、一息で力を開放する。蹴りつけた地面が爆ぜた。ロケットのように加速した透は、変身時に再生した右手でストレートを放った。虚をつかれた少年だが、皮一枚のところで折れた首を捻って、そのストレートをやり過ごした。


「――ッ」


 その刹那、少年の身体がくの字に曲がった。透の前蹴りが、彼の鳩尾を貫いていた。鉄槌のような鋭い爪先が背中から突き出ている。背中から迸った大量の血が、地面を汚した。


 少年は激痛に叫びながら身をよじり、透の足を掴むと全身の目をかっと見開かせた。小さな胸が風船のごとく膨らんだ。


 なにかくる。


 背筋を走り抜けた悪寒に突き動かされるように、透は突き刺さった足ごと少年を地面に叩きつけて、殴りかかった。


 が、少年の方がわずかに速かった。


「――ッ!!」


 膨大な音が爆ぜた。少年の小さな口から、航空機のエンジン音よりも遥かに巨大で、暴力的な波動が発せられたのだ。建物全体が揺らいだかのような凄まじい衝撃。粉々に砕けた窓ガラスが、雨のごとく降り注ぐ。透は、倒れていた。赤く染まった視界。ぐわんぐわん、と頭の中で響く音以外なにも聞こえない。耳から、血が吹き出していた。


 ――音による攻撃。


「……ぁグっ」


 なんとか立ち上がろうとした透に、お返しとばかりの蹴りが突き刺さった。二階のフェンスに叩きつけられ、血を吐きながら地面に落ちる。背中に鋭利な痛みが走った。落ちた瞬間に、触手の刃を突き刺された。


 ズブズブと。ズブズブと。次から次へと触手の刃が、透を貫いた。


「――」


 少年が何やら笑っていた。聴こえない。鼓膜をやられている。自身の絶叫すらが遠い。


 勝ちを確信したのか。少年はゆっくりとこちらに近づいてくる。腕の形を包丁のように鋭くし、倒れ伏す瀕死の透にとどめを刺そうとしているようだった。


 間合いが詰まった。少年は触手をどかし、刃を振りかぶった。


 ――透の、六つの目が見開いた。


 跳ね起き、紙一重のところで刃をかわすと、カウンターの要領で拳を突き出した。少年の左胸を貫通した拳は、肉片と血を撒き散らす。


 超再生。ブラックナイトの権能。


 それを知らなかった少年は、目を見開いて絶叫する。痛みに藻掻きながら、再度息を吸い込もうとしたが、肺に穴が空いているせいか上手く息を吸い込めないようだ。口から大量の血が溢れた。返り血を浴びながら、透は腕を引き抜いて、今度は貫手で喉を潰した。


 これで、音の攻撃は出せないだろう。


「――あ、ガハッ」


 膝をついた少年は、糸が切れたように倒れた。二度ほど血を吐いて、動かなくなる。


 透は息を切らしながら、拳を振り上げる。頭を潰さねばならない。すぐに再生はしないだろうが、こいつらは頭を潰さない限り死なないのだ。桜南の言葉を思い出しながら、透は拳を握りしめた。


 だが、心に生まれたのは殺意ではなく、逡巡だった。


 こいつらは、悪魔に魂を売り渡しているとはいえ、元人間だ。その命を奪うということは、人を殺すことに等しいのではないか。――いや、こいつは、生存者たちを弄んで皆殺しにした悪魔そのものだ。人としての矜持を捨て去り、人を虐殺した鬼畜に情けをかける必要はないのではないか。人間ではないんだ。もはや、人間では。


 だったら、躊躇う必要がどこにある。ここまで痛めつけることができたのだ。なら、止めくらいさせないはずがない。


「……」


 拳が、動かない。


 中で、ブラックナイトが嘲笑っている。こいつはこうなることを分かっていたのだろう。大仰に肩を竦めながらこう言った。


 ――代わろうか? 坊やができないなら、俺がやってあげてもいいんだぜ?


 透は、凶暴な牙を噛み締める。

 

「……オレがやル」


 ――ほう。では、やるといいさ。後悔しても知らんがね。なんたってソイツは……。


 お前の、親友なんだからな。


「ハ?」


 ブラックナイトの言葉が、飲み込めなかった。わけのわからない狂言に頭がついていかなかったのか。親友? 何を言っているのか? 世迷い言を言うにも限度がある。


 だが、その言葉は残忍な答え合わせだった。


 倒れた少年の身体が突然膨張した。なんらかの攻撃の前兆かと身構えたが、すぐに違うとわかった。明らかに殺気がない。それどころか凶暴な気配が、だんだんと萎んでいくのを感じる。


 肉の風船が収束し、形を現した瞬間、透は驚愕のあまり蹌踉めいた。


 現れたのは、よく見知った顔だった。いや、見知っているなんてレベルではない。彼にとっては、自分の半身の如く大切で、青春の日々のほとんどを共に過ごしてきた存在なのだから。その持ち前の優しさと温かさで、透が悩んでいるときも助けてくれた……一番の友達。


 親友の、茶川充だ。


「……そんナ、嘘ダ」


 立っていられなかった。足の震えに耐えきれず、透は尻もちをついて呆然と充を見つめる。血の海に沈み、苦しげに身悶えしながら、自分の身体を抱きしめる充に、駆け寄ることさえできない。


 頭が、真っ白になっていた。


 自分の姿が、元に戻ったことにすら気づけないほど。


「なんで、充が……? なんで……」


 夢だ。充が、こんな化け物になるはずがない。ましてや、人を襲うわけがない。何かの間違いだ。そうだ。きっとそうに決まっている。生きていたのか? 生きていたならなぜ、こんな目にあっている? 親友なのに。血だらけだ。なんでこんなことになった? だれが、充を傷つけた。


 答えは、わかっていた。


 ――俺だ。


「う、うあああぁ……」


 絶望の呻きが、透の口から溢れる。冷汗が止まらない。


 充は、格好良くて歌もうまくて誰にでも優しくて、勉強も運動もできたから皆に好かれていた。女子にもすごくモテていた。透にとっては、憧れの存在だった。親友でいられることにひたすら誇らしさを感じていたし、周囲にウザがられるくらい充と親友であることを自慢していた。そんな、掛け替えのない光のような存在なのだ。それを。それをそれをそれをそれをそれをそれをそれをそれを、あろうことか傷つけてしまった。暴力をふるい、穴だらけにして、血まみれにした。襲ってきたのはあいつだ。知らなかった、充だとは。知っていたらこんなことしなかった。許してくれ。違うんだ。親友なんだ、好きで傷つけるわけがない――。


「……けて」


 頭を抱えていた透は、はっと顔を上げる。


 そうだ、こんなことをしている場合ではない。充は重症だ。助けないと。だめだ、死んだらいけない。


 頭を砕かなければいずれ再生することにさえ、思い至る余裕がない。必死だった。言いようもないほどの動揺で、透は完全に平静を失っていた。止血しないと。だが、押さえるものがなにもない。どうすればいいんだ。どうすれば充を助けられる。


「……たす、けて」


 充が助けを求めている。虚ろな目を、天井に向けて。透は泡を吹くような勢いで立ち上がり側によった。止血のことさえ、頭から消える。


「充っ! みつるっ!」


 ほとんど泣き叫びながら、透は親友を呼んだ。彼は透など見ていない。気づいてもいない。


 ただ、ただ天井を見つめ、潰れた声で鳴いた。


「……たす、けて。お……ねえ……ちゃん……」


 透は、後ろを振り返っていた。


 無意識だった。充のことで頭が一杯になっていたはずなのに、自分でもわからないうちに勝手に身体が動いていた。


 そこにいるものを見て。


 透は、固まった。


 そこにいるものは、すべてを忘れさせた。


 桜南も、ブラックナイトも、ここがどこかも、自分が誰かも、充のことさえも、何もかも。すべてに空白が生じさせなければ、そこにいる存在を許容しうることができないほどに。


 それは、圧倒的な恐怖を感じさせた。


 巨人だった。おそらくは三メートルを超えているだろう。全身が鋼のような筋肉に包まれていて、顔中を包帯で覆い尽くし、その正体は杳と知れない。全身に見開かれた目が、落ち着きがないようにギョロギョロと動いていて、巣の中で蠢くハチの幼虫を連想させた。大木のような太い腕。その手には、羆さえ簡単に両断できそうなほどの、血の錆で汚れきった巨大な鉈が握られている。


 化け物。


 これまで何度も異形を目にして、浮かんだ感慨。だが、これまでとは全くその感慨に込められた、負の感情の質が違う。


 それが、こちらに顔を向けた。


 その瞬間、透の全身を襲ったのは無限の刃で貫かれ続けるような圧倒的な殺気だった。目の前が真っ赤に染まり、息ができなくなる。苦しい。纏わりつくような、鋭い怨念。後退りすらできない。身体が震えて動くことができない。指の一本でも動かしたら、殺されるのではないかと思えてならないほどに、それが放つドス黒い気配は尋常なものではない。


「……うぁ」


 なんだ、あれは。「不条理」や香澄さえ比肩にならないほどに、ずっと邪悪だ。思い起こしたのは、香澄の腹から突き出たあの小さな手――あれだ。もしかすると、あれに……あれに匹敵するかもしれない。


 化け物が、首を傾げた。


 そう認識したときには、目の前から消えていた。突然、透の視界が灰色で埋め尽くされた。化け物が、目の前に現れたのだ。


「――」


 何も口に出せない。悲鳴も、息も。


 見えなかった。化け物の移動するところが一切。気づいたら、目の前で見下されていたのだ。あの巨体で。どうやって動いたのかさえわからない。音も何もしなかった。


 唖然とする透に、化け物は言った。


「コれ、あげル」


 透は、化け物が差し出してきたものを見て、血を吐くほどの勢いで悲鳴をあげた。


 虚ろな目をした、桜南の首だった。




 


 

 

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