第三部「理由なんてないよ」

第九章 一






 どうかお願いします。


 この醜い世界が、粉々に崩れ去りますように。


 私と、私の愛する人のために。







 異色香澄は、ゆっくりと瞼を開いた。


 とある高層ビルの屋上にいた。水で薄めた血で染色したような街の情景が、ささくれだった意識をさらに尖らせていく。腸がきりきりと、きりきりと、時間が立つごとに引き締められている。ああ、腹が立つ。殺してやりたい。八つ裂きにしてやりたい。五臓六腑を撒き散らして化け物たちの餌にしてやりたい。銀城桜南め。女狐め。殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる――。


「……兄さんを返せ」


 怨念を込めて呟く。


 透は香澄だけの宝物であり、他の何者も触れることさえ許されない。


 許されないのだ。


 まして、あの意地汚く横恋慕する邪魔以外の何者でもない、立場をわきまえる脳味噌もない蛆虫の中の蛆虫が……持っていていいわけがない。


 どんな手を使ってでも奪い返さなければならない。「王」が産まれさえすれば勝ちが確定するとはいえ、それまでの間ですら耐えられない。これがまったく道理の弱い、感情の問題でしかないことは重々承知している。逃げの一択で、守りを固めるのが最善手であることも理解している。


 が、一度味を知ってしまうともはや戻れない。兄と過ごした二人きりの監禁生活。食事も、下の世話すらも、すべて付きっきりで行った幸せすぎる日々。あの甘い蜜のような時間は、香澄の理想に限りなく近づいた体験であった。麻薬よりも脳をとろけさせ、正気ではいられなくなる。


 ああ、あの、あの日々を。一刻も、一刻もはやく


 凶悪なまでの怒りと法悦の思い出が、香澄の中でずっと渦巻いていた。しかし、冷静さを欠いているようで、その中でも常人を超える思考回路を展開できるのが、異色香澄という悪魔の頭脳の持ち主でもあった。


「……」


 香澄には、こういうときの用意があった。


 万が一、透の中にいる「守護の殺意」が香澄の制御を振り払い、敵対した場合に備えて、駒を作っていた。

 

 透を確実に、行動不能にするための駒を。それをこの局面でぶつける。最強の駒とともに――。

 

 ふと、香澄は空を見上げた。天使の翼をもつ化け物がゆっくりと降りてきて、香澄の前で跪いた。


「……ようやく見つけたんですね」


 鈴のような香澄の声を、厳かに受け止めた醜い化け物は、掬い取った聖水を差し出すように手を伸ばしてきた。


 その掌にあったのは、耳だった。


 香澄の耳だ。銀城桜南との戦闘の際、潰された頭部に残っていたものである。それを、怪物に命じて取りに行かせていた。


 それには、透からプレゼントされた大切なピアスがついていた。


 香澄はピアスを外すと、耳をゴミでも放るように投げ捨てた。ピアスの針を、穴を開けていない耳たぶにそのまま貫き刺す。血が溢れたが、気にもならない。些細な痛みに、あるべきところにあるべきものが戻ったことを実感できて、ささやかな安堵を覚えたくらいだった。


 そう、あるべきところにあるべきものを戻すのだ。


 どんな手を使ってでも、必ず。


 安全ピン型のピアス……鎖のように連なったそれを撫でながら、香澄は薄く笑う。そして、小さく呟いた。


「知っていますか、兄さん。『殺意』はね、できないんですよ」

 



 



 買い物客のいないショッピングモールは、ある意味では異世界だ。


 違和感しかない。人がいるべき場所に人がいないという事実が、こんなにも不自然だなんて思いもしなかった。


 異色透は、二階の廊下を歩いていた。


 香澄による監禁生活から逃げ出し、香澄や化け物たちから襲われ、逃げに逃げた先。それが、このショッピングモールだった。分厚い雲に漉された弱々しい光しか入ってこないせいか、辺りは薄暗い。埃が舞っているのだろう。時折キラキラと輝いているが、不気味さを払うことになんの貢献もしていない。


 透は、フェンスの手すりを持ちながら、辺りを見渡す。


 一階のベンチが見えた。誰も座っていない。周りを彩っていたはずの観葉植物は、疲れ果てたように頭を垂れて枯れている。マネキンだけが佇むアパレル。貴金属が怪しく輝く宝石店。子供のいないおもちゃ屋。コーヒーの香りのしない喫茶店。喧騒の死んだフードコート。光のないゲームセンター。


 当たり前にあるはずの活気が、ここにはない。薄気味悪いなんてものじゃなかった。寒気さえ感じられるほどだ。時間が止まったこの空間には、人の営みの気配が死に絶え、埃だけが積み重ねられている。


「……」


 幼い頃、ここに何度も行ってみたいと思った。リムジンの窓から指を咥えて、ただただ見ているだけの憧れの場所だった。中学生や高校生になり、ある程度の自由が許されるようになってから、香澄や充たちと買い物をしにきたのは記憶に新しい。ゲームセンターのクレーンゲームはどれもアームが緩く。フードコートで初めて食べたハンバーガーは美味しかった。香澄に服を選んでもらった。充に、迷子のアナウンスで呼び出されて腹を抱えて笑われた。


 見れば見るほど、そうした小さな思い出が溢れてくる。最初に目を覚ましたときは、場所が不明瞭で記憶が繋がらなかった。だが、糸を手繰り寄せていくように、ここを訪れたときの思いや感情が蘇ってきたのだ。


 悲しかった。


 こんなにも寂れてしまうなんて。単純に経営不振かなにかで潰れて廃墟になってしまっただけであれば、中を歩いてもまだ寂寥を感じるだけで済むのだろう。滅ぼされたのだ。たった一人の、悪魔のエゴによって。そこに自分が少なからず関係しているのだと思うと、想いはより暗さと重さを帯びる。


 透はゆっくりと息を吐いて、踵を返した。


 戻ろう。これ以上、この仄暗い闇の中を歩いていても辛くなるだけだ。休憩をしている桜南に着るものを持っていてやって、今後の行動について話し合わなければならない。服を買わずに勝手に持っていくことは忍びないが……。


 ふと、喫茶店を横切ろうとしたときだった。


 思わず立ち止まってしまった。


 何気なくもう一度店内を見ていると、気になるものを見つけたのだ。先程は気づかなかった、不自然なものを。


 透は慌てて中に入り、すぐそばのテーブルに置かれたものを確認する。心臓の鼓動が跳ね上がった。それは明らかに、食された後の缶詰やジュースのペットボトルだった。しかも、比較的に新しいし、一つや二つではない。何個も何個も置いてある。他のテーブルにも置かれていたから、複数人で食べた形跡であることは間違いない。


 喫茶店が、缶詰なんて出すわけがない。つまり、この地獄が始まる前にここに座っていた誰かが食べたものだとは考え難い。


 答えは、一つだった。


「桜南っ」


 透は、愛する人の名前を叫びながら駆け出した。景色が高速で流れていく。鼓動は酸素の需要の高まりとは関係なく速さを増していた。


 目頭が勝手に熱くなる。


 自分の考えが間違いでないのなら、ここには生存者がいたことになる。もしかすると、この中のどこかにいるのかもしれない。


 探さなければ。


 誰も、生き残っていないと思っていた。諦めていたものが、思わぬ形で一縷の希望を紡いだ。


「桜南!」


 透は、階段横のベンチに近づいた。そこに座っていたのは銀城桜南だった。透の慌てた様子を見て、眉根を寄せている。


「……どうしたのさ?」


「ここに、生存者が……生きている人がいるかもしれないんだ!」

 

「生存者がいる?」


「見たんだ! 誰かがここで生活している形跡があった!」


 つばを飛ばしながら声を出し、透は走ってきた方向を指差した。


「落ちついて。どういうことか詳しく教えてほしい」


 クールダウンなどできるわけもなく、逸る気持ちを抑えられない透は、半ばまくし立てるように状況を説明する。


 桜南の銀色の瞳は、静かだった。水銀のように冷たく無機質で、喜びに震える透とは対象的にあくまで冷淡だ。


 透の説明が終わると、桜南がゆっくりと目を閉じた。「……どうりで、荒らされていないわけだ」と呟いて、瞬き三回ほど押し黙り、口を開いた。


「……それで、透くんはどうするつもりなの?」


「どうするって……。探すにきまっているじゃないか、生きている人を! 協力してくれ桜南!」


 桜南が小さく息をついて、顔を俯かせた。


「なんで黙ってるんだよ?」


「……やめた方がいい」


「は?」


「やめた方がいいって言ったんだ。君の言うとおり生存者がいたことは間違いないだろうが、きっと誰も生き残ってはいない」


 思わぬ桜南のネガティブな意見に、透は瞬きを繰り返した。理解が追いついたのは数秒たってからだ。桜南の額あたりを鋭く睨む。


「わかんねえだろ、そんなこと」

 

「わかるよ。冷静に考えてみてくれ。なぜ生存者がこんなところである程度暮らせたのか」


 桜南は、ガラス張りの壁面を一瞥する。外は、灰色の牡丹雪が降りしきっていた。


「入口付近どころか、外と隔たる壁面のほとんどがガラス張りだよね、ここは」


「それが何だよ?」


「侵入は簡単にできるってことさ。外にいる化け物たちが、ここを放って置く理由はなんだい?」


 透は押し黙った。


 たしかに、桜南の言うとおりだ。あの化け物たちなら、こんなところ案山子しか置いていない畑並みに容易く入ることができるだろう。奴らの習性は桜南に聞いた。人を殺すことに無常の喜びを見出すのがあの化け物たちだ。そんなやつらが、生存者たちを放って置くわけがない。中には、犬や羆のように鼻が利くやつだっているという話だから、気づかれずに済む可能性はかなり低い。


「……ここは核シェルターじゃないんだ。こんなところに隠れたって、すぐに見つかって嬲り殺しにされるのがオチだろう。……でも、君の話では少なくとも数日以上生存者たちが生活した形跡がある。それを踏まえて考えると、結論は一つしかない」


 桜南は不愉快そうに眉根を寄せて、人差し指を立てた。

 

「たぶんね、奴らは入らなかったんじゃないんだ。。おそらく、異色香澄や『不条理』のような、奴ら以上の化け物がここを縄張りにしていた可能性が高い」


「……つまり、上位者が生存者たちを囲っていたといいたいのか?」


「ああ。それ以外に考え難い」


「……なんのために?」


「それは分からないよ。『不条理』と対峙したのだから嫌というほど分かっているだろう? 奴らにはまともな考えを持った奴はいないんだ。ただの酔狂なのか、それとも何か目的があったからなのか……いずれにせよ我々には到底理解できないような動機で、人間を庇護していたんだろうね」


「……」

 

「こんなことはあまり言いたくはないが、そんなイカれた奴が生存者たちをマトモに扱っているとは思えない。……きっとね、もう手遅れだよ」


「わからないじゃないか」


 自分でも弱々しい声になっていることは自覚しつつ、正論に対して理不尽な怒りを覚えながら透は続ける。


「それで、どうして誰も生き残っていないなんて言えるんだ。仮にお前の言うとおり、そいつから手酷い扱いを受けていたとしても、生きているやつがいるかもしれないだろ? だったら、なおさらはやく探して助けてやらないと……」


「残念だけど、根拠はあるんだ。私達が、こうして呑気に休息を取れているのがその証拠だ。化け物たちにテリトリーを示して入らせないようにするような奴が、我々の侵入を放って置くわけがないだろう?」


 透は唇を噛んで俯いた。


 ここまで来れば、頭に自信がない透でも理解できる。自分たちが襲われていないということは、ここを支配していたはずの「殺意」が何らかの理由や打算で動かないか、もしくはすでに居なくなっているのか、そのどちらかだ。


「……理解したようだね。おそらく、そいつはこの場所を放棄したんだと思う。私は鼻が利くからよく分かるんだが……かなり濃い血の匂いが漂っているんだ。たぶんね、すべてを精算してこの場所を去っている。悪いことは言わない、見ないほうがいいよ」


「……」


「透くん」


「……それでも、可能性はゼロじゃないだろ」


 透は、拳を握りながら絞り出すように声を出した。諦められるわけがない。大災害の後、瓦礫の中にいるかもしれない生存者を必死で探す災害救助隊のような気持ちが、胸の内から離れない。


 憐れむような桜南の視線を受けても、透は怯まなかった。挑むような、祈るような気持ちで桜南の瞳を真っ直ぐに見つめた。


「俺は探すよ。隠れていて難を逃れた人もいるかもしれないし、お前の言っていることが外れている場合だってなくはない。助けられる命があるかもしれないのに、捨て置くことなんて俺にはできない」


「……そう」


 桜南は、大きく溜息をついた。


「……そうだよね。それが君だ。分かっているよ、分かっている。こんな状況でも曲げられないんだね」


「お願いだ、案内してくれ。桜南なら俺よりも人を見つけやすいだろう?」


「……わかったよ」


 桜南は、渋々と立ち上った。彫刻のように整合性を極めた白い身体が、ベンチからすうっと伸びる。香澄につけられた傷のほとんどはもうすっかり回復しきっていて、元の秀麗さがより洗練されているようだった。切羽詰まっていなければ、放心するほどに見惚れていただろう。いまは焦燥感にとらわれて、いまいち感情が動かない。


 視線に気づいた桜南が、胸元を隠しながら悲しげに微笑んだ。


「先にさ、服を着てもいいかな? 透くん忘れているでしょ」


「……あ」


「しっかりしてくれよ、もう」


 桜南のデコピンは、痛かった。


 


 

 



 

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