死刑囚は喰らいたい


 ・二〇一四年 六月十三日




 最悪の裁判員裁判が、終わりを迎えようとしていた。


「被告人、最後に言っておきたいことはありますか?」


 ブルドッグのように頬肉の垂れ下がった裁判長が、しわがれた声でゆっくりと、厳かにそう告げた。最終陳述。裁判の締めくくりに、被告へ言葉を求める無意味な制度。ここでどんな美辞麗句を尽くしたとしても、量刑が軽くなるなんてことはほとんどない。


 とくに、死刑が確定的な被告には。


 藍沢健二は、瞬きを数度繰り返し、ゆっくりと振り返る。側に控える覇気のない壮年の弁護士と厳つい顔つきの刑務官たちが視界を流れ、やがて傍聴席が見えた。


 そこにあったのは、好奇と憎しみだった。被害者遺族たちや記者、そして取り調べを担当した刑事に、野次馬根性できた一般人たち。多種多様な感情や思いが渦巻いている。とりわけ強いのは憎悪だ。怒りのこもった無数の目が、藍沢を刺している。鼓動が速くなっていた。緊張しているわけではない。かつて読んだ犯罪心理学の本に書かれていた。シリアルキラーは、注目を好むと。まさにそれだ。


 十人殺した。その分の憎しみを浴びる興奮は言いようもない。


 息を呑む気配が微かに漂っていた。傍聴席を向いた藍沢が次に何をやるか、皆が見守っている。土下座でもするのか、なんて記者たち辺りは思っているのかもしれない。


 違うね。


 藍沢は、肩をすくめそうになる。


 謝ることに意味はない。頂いた命は元には戻らないし、言葉のみの贖罪は彼程も罪を軽減させることはない。だから、必要なのは謝罪ではない。


 感謝だ。


 藍沢は、両手を胸の前で合わせ、ゆっくりとお辞儀した。食卓の前で、何百何千と繰り返し繰り返してきた日本人の魂とも言うべき習慣。


「――ごちそうさまでした」


 凍りついた。


 音さえも消え失せてしまうほどに。


 習慣としての言葉が、下劣な爆弾としてこの法廷に投げ込まれた。時間の静止は必然だった。傍聴席にいたすべての人間の目が、裂けんばかりに見開かれている。突然、低い唸り声がした。蹴りつけられて弱った犬のように苦しげな声。


 それを皮切りに、空気が破裂した。


「しねえええええええええぁああああっ!」


「人でなしぃ!」


 怒号が、絶叫が、魂からの叫びが。静謐であるべき法廷の中で渦巻いた。立ち上がり、飛びかかろうとする中年男性。それを必死に止める淑女。弾けるような笑顔を浮かべた女性の遺影を抱え、泣き叫ぶ女性。


 いい爪痕を残せたなあと、藍沢は満足気に思った。薄汚れた自尊心が満たされていく感覚に、十八年物のウイスキーを啜ったときにも似た幸福感を覚える。殺人者は、注目されなければならない。それが死に至る罰に対する、唯一と言ってもいい報酬。


「静粛に、静粛に!」


 裁判長が、必死に叫ぶ。だが、止まらない。一度ついた火は簡単に鎮火することはない。薪をくべよう。もっともっと燃え盛るところを見たいから。


 藍沢は笑いながら自身の肛門を指差した。


「おたくらの家族は、ここから出ていきましたよ。私の栄養となってね」


 怒声がさらに強まった。

 

「藍沢あああぁっ! 殺してやるっ!」


「まなちゃんを返せえぇぇっ!」


「ははははははははっ、美味しかったよみんな!」


「不穏当な発言をやめなさい! 退廷を命じますよ!」


「勝手にすればよろしい! はははっ、はははははははははっ! もっともっと、食べたかったなあ。あんなのではまだまだ食い足りないよ!」


「退廷! 退廷を命じます!」


 その言葉とともに、藍沢の両脇は刑務官に固められ、引きずられていった。


 史上最悪とも言われた猟奇殺人事件は、被告人の反省の言葉もなく、悪辣な形で幕を閉じた。


 判決の言い渡しは、被告人不在で行われた。







 毎日の習慣である点呼が終わり、朝食をとった藍沢は、机にむかって絵を描いていた。ノートに鉛筆を走らせる音が、静かな監房の冷たいコンクリートの壁に吸収されていくようだった。描いているのは、花だ。以前、人肉の解剖録を描いていたら「著しく残酷な表現は、事件における反省を促す上でも、施設運営上の観点からも相応しくない」とのことで注意を受けた。それでも無視して描いていたら、五日ほど懲罰になった。懲罰は、一日中ほとんど自由を与えられず、正面を向いたまま座っておかなければならない。


 退屈は、毒だ。拘禁症を深刻にする毒である。だから、藍沢は我慢して花を描くことにしていた。


 藍沢がいるのは、光の薄い三畳ほどの独居房だ。受刑者や未決(未決拘禁者のこと)の間で、通称三棟といわれる死刑囚監房には、藍沢の他にも何人か不毛な死を待つ囚人たちがいる。


 刑務官が、横を通り過ぎた。相撲取りのような見た目の男だったが、足音がしない。死刑執行のお迎えがくるタイミングは、早朝……通常だと点呼が終わって朝食を取るまでのどこかだと言われているが、朝方は死刑囚を刺激しないように刑務官たちも気を使っている。死刑囚の中には、長期に渡る拘禁で頭がやられたものも少なくない。その上、お迎えのタイミングを詳しく知らず、朝のどこかで来ると思い込んでいるものもいる。数年前のある日の朝、不用意に新人の刑務官が死刑囚に話かけてしまい、ちょっとした騒動になったことがあった。その日以降、その死刑囚の部屋からお経が聞こえるようになった。


 鳥の声が聞こえた。雀だろう。囚われたばかりの頃は、その声を聞いて自由に羽ばたくことができる小鳥を羨ましく思うこともあったが、今ではそうした感慨も希薄になってきている。


 事件から十年近くが経過していた。


 あの鮮烈な日々から十年。長かったようで、短かったようでもある。むさ苦しい刑務官たちと、ときおり発作を起こしたように発狂する死刑囚たちの中で、自由を失った藍沢はずっと退屈を貪り食ってきた。やることなんて、絵を描くか官本を読むかだ。本は、この十年で読み尽くしてしまった。自分で買おうと思えば買える制度もあるが、すべての親戚と疎遠となった藍沢に、そんな金銭的な余裕などありはしない。


 だから、着ている服も貸し出された官服だ。緑色の受刑服……自分は、「受刑者」ではないのに。


 そんな風にどうしようもない不満を感じながらも、下書きしたベゴニアの花弁に色を足していたときだった。


 食器口が、カチャリと空いた。


「……藍沢、ちょっといいか」


 先程の太っちょな刑務官だった。周囲への配慮なのか、声は小さい。


「なんでしょうか? オヤジ」


 オヤジとは刑務官のことだ。受刑者たちは、刑務官のことをオヤジか先生と呼ぶ。


「先日の定期検診の件でな、医務から再度診断を受けてほしいと通達が来た。今から医務に行くぞ」


「……今からですか? 私、どこか悪いんですかね?」


「それは向こうの先生に聞いてくれ。俺ではなんとも言えない」


「しかし、この時間に来るなんて珍しい」


「ああ、正直俺も困惑している。シャツのボタンをすべて開けて検身準備しておいてくれ」


「はあ……」


 困惑しながらも、藍沢は言われたとおりボタンを開ける。しばらく待っていると、もう一人刑務官が来て、鍵を開ける音がした。


 扉が開く。太っちょが、藍沢を見下ろしながら言った。


「番号、名前」


「3034番、藍沢です」


「よし。出房」


 スリッパを靴置き場から取り出して外に出る。検身を受け、藍沢は二人の刑務官に連れられて仄暗い廊下を歩いた。他の官房を横目で見る。本を読んでいた拘禁者と目があった。何をして捕まったのだろう。


「藍沢、脇見はするな」


 小声で注意される。


 藍沢は、ため息をついて正面を見続けた。


 他に道はないのかと文句を言いたくなるほど、複雑な道を歩いて、藍沢たちは医務室がある棟へと辿り着いた。


 医務室の前で、再び検身を受ける。


 中に入ると、病院とほとんど変わらない設備がそこにはあった。なんの目的で使うのかすらわからない医療器具もたくさんある。こんなところからも、娑婆の香りはするものだ。薬品の香りもするが。


 椅子に座っていたのは、見たことのない先生だった。自分とそう年齢が変わらないくらいの、痩身の男である。彫りの深い顔立ちをしており、目つきが鷹のように鋭い。俳優にいそうだな、と藍沢は思った。


 制帽を被っていないから、おそらく刑務官ではない。外部の医者だろうか。たまに、民間の医師が法務省から頼まれてなのかボランティアなのかは知らないが、診察に来ることがある。


「……気をつけ! 先生に対し、礼! 着席!」


 いつもの流れで席につくと、先生はゆったりと微笑んで「こんにちは」と挨拶してきた。


「……こんにちは」


 藍沢は眉を顰める。何故か分からないが、違和感があった。


 先生はしばらく何も言わず、じっとこちらの顔を見ていた。そして、なにやら机の上に置かれた袋に目を落とし、「ふむふむ」と一人で呟いている。


「……やはりな」


「……」


「あー悪いんですが、彼と二人きりにしてもらえないだろうか。少し話したいことがあるので」


 藍沢は、目を白黒させた。何を言っているのだろう、この医者は。


 後ろで控えていた二人の刑務官の驚きはそれ以上だっただろう。当然だが、難色を示した。


「それはできませんよ、先生。当然お分かりでしょうが、我々の職務上入所者を監督する義務があるので」


「それはわかっています。しかし、そこに関してはすでに所長から許可をもらっているのでご安心を。ご不安なら、確認をとってもらえばよろしいかと」


「しかしですね」


 さらに食い下がろうとした痩身の刑務官を、「主任」と呼んで太っちょが肘でつついた。腰に下げている無線を取り出し、どこかへ連絡をとっている。


 しばらくやり取りをして、太っちょはため息をつきながら無線を腰に戻した。


「……わかりました。我々は、退席いたします」


「先輩!」


「大丈夫だ。たしかに、彼の言うとおり所長からの許可も降りている。それに主任……彼は異色家の……」


 太っちょは痩身の刑務官を説得し、半ば強引に納得させると、部屋から出ていった。去り際に、「なにかあったときのため、扉の側にはいさせてもらいます」と言い残して。


 扉が閉まったのを確認して、先生は肩をすくめる。


「……いやはや、公務員は大変だなあ」


「……どういうことか分からないですけど、度胸あるんですね。私が死刑囚であることはご存知ないのですか?」


「もちろん、知っているさ。だから検診と称して来たんだ」


 藍沢の軽口にも動じず、先生はにやりと口を歪めた。


「私は異色明。異色コーポレーションの会長といえば分かりやすいかな……?」


「異色コーポレーションだって?」


 日本有数の大企業だ。その会長が、いったいどうして自分のような死刑囚に会いに来たというのか。法螺か? いや、さっきの刑務官たちの対応……あながち嘘とも言えない。少なからず、法務省相手に「例外」を取り付けることができる存在ではあるのだから。


「最近、新聞で見ましたよ。次はスポーツジムを買収したらしいですね」


「ああ、そうだね。出所したら近くにあるから訪れてみるといい。最新式の酸素カプセルもある」


「……面白い冗談ですね」


「そう言ってもらえて嬉しいよ」


 先生……異色明は笑いもせずに、袋から何かを取り出した。シャーレだ。学校では通称ペトリ皿とも呼ばれるガラスの平皿。


 その中心に、黒い塊があった。


 焦げた肉塊のようにも、虫のようにも、粘菌のようにも見える不気味なものだった。


「……なんですか、それ?」


 異色明は答えず、シャーレを藍沢へと近づけた。瞬間、藍沢は目を見開いた。先ほどまで何の反応も見せなかったその塊が、磁石を近づけられた砂鉄のごとく動いたのだから。まるで、生きているように。


 驚いて立ち上がらなかっただけマシだろう。


「……君には資格がある」


「資格?」


「人間を超越する資格がね」


「……なにを言っているんだ?」


「私は正気だよ。本当に君には資格があるんだ。『殺意』と呼ばれる存在となり、本物の殺人鬼になることができる」


「は?」


「殺せるんだよ、人を、たくさん。こんなところに囚われて死を待つだけの存在から脱却できるんだ」


「……」


 頭がおかしいのか、この男は。


「……と言っても、すぐに呑み込めるわけないか。いいだろう、君がどういう存在なのか教えてやろうではないか」


 異色明は、人差し指を藍沢の額に置いた。


 瞬間、脳内に膨大な光が広がった。走馬灯のようにこれまでの記憶が駆け抜けていく。生まれてからのこと、肩の故障で野球を辞めたこと、肉屋でアルバイトをし解体の喜びを知ったこと、ホテルの経営を始めたこと、交際していた女性とトラブルになり弾みで殺してしまったこと、証拠隠滅のために解体し人間の解体と食人に目覚め、やめられなくなってしまったこと。犯行時の泣き叫ぶ人間たちの顔や声が一番鮮明に――。


 そして、藍沢は出会った。


 十本の歪な樹が並ぶ空間で、自分の中にいるもう一人の自分と。


「……っ」


 藍沢は、我に返った。


 あの光景は、なんだ。わからない。なにも、なにが起こったのか。だが、これだけははっきりと分かる。


 自分は、この世界とは別の場所にいるもう一人の自分に魅入られているのだと。


「……わかったかな? 君が本当は何者なのか」


「……先生、私は」


「ああ、自由になれるんだ。これさえ、受け入れればね。君はすでに人を殺しているから条件はすべて揃っている」


 異色明は、シャーレの蓋を開けた。黒い何かが、導かれるように藍沢へと伸びてゆく。


 不思議と、嫌悪感はない。藍沢の頬をなでる黒いそれは、爬虫類の鱗のようにザラザラと乾いていた。


「君は、裁判でこう言った。あんなのでは食い足りないと。……食べればよい。これから、我々『殺意』の時代が来る。そのときまで我慢しさえすれば、いくらでも君が望むままに食べることができるようになるんだ。それこそ、ケーキバイキングみたいに」


 異色明は、これまで見たことがないほどに目を赤く輝かせ、こう言った。


「……君もこちらへおいで。理想郷はすぐそこに待っている」


 藍沢は、微笑んだ。


 どうせ死ぬのだ。


 ならば、この男の酔狂な言葉に従うのも悪くない。そして、もし本当に自分が視たものが真実だとしたら、果てることがないほどの肉を喰らうことができるようになるのだろう。


 もう、偽らなくてよくなるのなら。


 そこへ、行きたい。


 

 




 

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