エピローグ「虹」
【二〇二二年 十一月十三日】
今日は充くんとお話をしました。
一人で耐える彼のことを、どうしても放っておけなかったのです。充くんは、飲み込まれそうなほどに暗い家電量販店の椅子に、一人で座っていました。いえ、座らされていました。首輪から伸びた鎖が鈍く輝いていて、暗闇の中でも虚ろだとわかる瞳で、歌っていました。
私は泣きそうになりました。見ているだけで、聴いているだけで辛い。充くんの歌はもっともっと綺麗でイキイキとしているはずなのに、抑揚も何もそこにはありません。
そして突然、何かに怯えているように叫び出しました。怖い。苦しい。やめてくれ。許してくれ――。頭を抱え、髪を掻き乱しながら。充くんの目には何かが見えていたのでしょうか。私には見えない何かに苦しめられているように見えて、いてもたってもいられませんでした。
彼の心が、殺されようとしている。亜加子ちゃんから。人殺しの悪魔から。
私が助けないと。そう、思ったんです。だって、みんな亜加子ちゃんを恐れて、充くんに近づこうとさえしませんでしたから。私も、怖い。毎日、毎日。亜加子ちゃんの悪魔みたいな姿が、殺される人たちの断末魔が、夢に出てこない日なんてなかったのですから。
でも、そのとき私は自分の恐怖よりも何よりも、彼に寄り添わないといけないと強く思ったんです。後悔もあったのかも。恐怖の虜になりつつあった彼に、手を差し伸べることができないでいた後悔が。
私は、彼に話しかけました。学校にいるときなら、何も考えず気軽に話しかけられたのに。どうして、話かけるだけであんなに勇気が必要だったのだろう。
待っていたのは、あまりにも悲しくて優しい拒絶でした。壊れそうになっているのは自分なのにも関わらず、充くんは私のことを心配してくれていました。その儚いほどの優しさは彼らしくて、だからこそ私は苦しくて、思いの丈を吐き出しました。助けを求めて欲しかったから。
でも、充くんから返ってきたのはSOSではありません。自嘲と虚無でした。
透のようにはなれない。異色くんの名前を出して、自分では私を守れないと言っていたのです。そんなことはない。そう、叫び返してやろうとしました。でも、圧倒的な暴力に屈服させられ自我が崩壊しかけた彼に、私の言葉は届きませんでした。彼は、みんな以上に亜加子ちゃんに怯えていました。彼女がもたらす、気まぐれの暴力に。
逃げよう。思わずそう言ってしまいました。なんの考えも、手立てもありません。でも、彼をここから連れ出さないとマズいと、心底思ったんです。充くんは、冷静でした。よく考えて言ったわけではないことは、見抜かれていました。悔しかった。テストで一位が取れなかったときの何百倍も。私はひどく無力で、何もできません。だから私の気持ちだって、彼には受け入れてもらえませんでした。
好きだった。ううん、いまでも大好き。告白をすることさえ拒絶されても、どうしようもないくらい充くんのことが好きなんです。彼の優しい笑顔に、何度癒やされてきたことか。自分の正しさに迷いそうなときだって。彼がかけてくれる言葉が、私を助けてくれたんだ。
大好き。大好き大好き大好き。
ねえ、どうしてなの? どうしてあなたは一人で苦しもうとするの? 神様は残酷だ。誰なんだろう、神様は乗り越えられる試練しか与えないなんて、無責任なことを言った人は。こんなの、乗り越えられるわけないじゃん。酷いよ。酷すぎるよ。どうして、充くんから笑顔を奪うような運命を与えたの? この想いが彼に受け入れられなかったとしても、こんな形で否定されるのは嫌だった。初恋だったのに。初めての恋が、こんなのって……。涙が止まらない。文字が歪んじゃう。
お父さん。これって、罰なのかな? あのとき、一緒に逃げているときに、私をかばってくれたお父さんのことを見殺しにしたから、神様が怒っているのかな? 許してなんて言わないし、言えない。でも……でもね、どうか充くんだけは助けてあげて欲しい。
彼には生きていて欲しいから。
生きて、幸せになって欲しいんだ。
こんなにも辛いことがあったんだから、どうか笑って過ごせる当たり前の日常を、彼に返して欲しい。
充くん。愛しています。
お父さん、ごめんね。お父さんにも、報告したかったな。好きな人ができたこと。
もし、そっちに行くことがあるなら、そのときに言うね。でも、一日でも長く生きられるように頑張るから、どうかそれまでは私のことを見守っていてください。
いつか、私の大好きな人に虹がかかりますように。
「……退屈だなあ」
紫の死骸の山に腰かけながら、赤坂亜加子は呟いた。累々と築かれたその山は、一体一体がすべて異形の怪物だった。肉をあらゆる角度で引き裂かれ、彼岸花のように赤い臓物を撒き散らし、巨大な口をあんぐりと開けている。奪い去った命の量に、亜加子は満足することはない。
「……まぁた、逃げられちゃったなあ」
白けた感情で、息を吐く。このままでは香澄に怒られるかもしれない。亜加子は、憂鬱を感じながら視線を下へ向ける。
その先には、「恐怖」がいた。体育座りをしながら、狩り取った異形の肉を食らっている。白い顔が、赤ワインを浴びせかけられたかのように汚れていた。
亜加子たちは、とある公園の中心にいた。鉄棒や滑り台などの遊具は至るところが凹み、歪み、切り裂かれ、戦闘の名残をあちらこちらに残している。灰色の雪に埋もれた地面は赤い。大量の血が、流れていた。
その血のおかげだろうか。小さな虹がかかっているのを見つけ、亜加子は思わず噴き出しそうになった。
いいことがないわけでもない。
「春香先輩、見たかっただろうなあ」
突然、頭にノイズが走った。
例のごとく、香澄からの通信。香澄を付け狙う「復讐」の殺意をまだ掃除できていないから、お叱りの連絡かと身構えながら出る。
「……はーい」
『亜加子ちゃん』
「あー、ごめんね。まだ、あいつ片付けられてないや。意外と逃げ足が速くてさ」
『……それについては、もういいです。こちらでなんとかする算段をつけますので。それよりも、急遽、あなたにやってもらいたいことができました』
「……なにを?」
『兄さんを、泥棒猫に奪われました』
「え?」
『取り返しに行って。今、すぐに』
有無を言わさない、厳しい口調だった。
亜加子は面食らっていた。透を奪われたという事態にも当然驚いたが、それよりも香澄がこれほどまでに怒りを見せたのが初めてだったから、そちらの方が衝撃だった。
あの冷静沈着な香澄が、明らかに取り乱している。
「……なにがあったの?」
亜加子は経緯を尋ね、香澄からの説明を聞いた。
監禁生活から逃げ出した透を、「暗殺の殺意」となった銀城桜南に奪われたとのことだった。そして、香澄が敗れたこと、追手に差し向けたペットたちと「不条理」が、「殺意」に目覚めた透によって返り討ちにされたことなどを訊いた。
信じられない気持ちだった。「不可視の槍と盾」という絶対の力を持っていた、あの香澄が敗れた。
「……本当なの?」
『ええ。悪いけど亜加子ちゃん、こうしている間にも、兄さんはあの蛆虫から汚され続けているの。はやく取り返して消毒しないと……』
爪を噛む音が聞こえてくる。きっと、指先から血が溢れるほどに噛んでいるはずだ。
『銀城桜南を殺して。可能な限り残酷に痛めつけて、形が分からなくなるくらいのミンチ肉に変えて欲しい。そうじゃないと、兄さんが……兄さんが……』
「う、うん。わかった。それじゃあ、銀城先輩を殺しにいくね。透先輩も必ず取り戻すから……」
『……よろしく。兄さんも、殺しさえしなければ痛め付けてくれて構わないから。……私を見捨てて、他の女に尻尾を振った罰よ』
「……敬語消えてて怖い」
思わずこぼした言葉は、香澄に黙殺された。
『蛆虫と兄さんの場所はわかっている。……あなたの古巣にいるから。わかりますね?』
「……ああ」
亜加子は、口角を吊り上げた。
古巣と言われたら、あそこしかない。充と愛を育んだあの場所だ。
「すぐに向かうよ。あなたから大切なものを奪った銀城先輩に『法』の裁きを与えるから」
香澄との通信は、そこで切れた。
亜加子は、堪えきれなくなってクツクツと笑った。香澄には悪いが、面白いことになってきた。銀城桜南に恨みはないから然程興味もないが、あの透を痛めつけることができるのは愉快だ。昔から気に食わなかった、あの透に。
充と香澄の心を射止めた、唯一の存在に。
「……ふふっ」
亜加子は、ゆらりと立ち上がる。
「充先輩、行きますよ」
肉を食っていた「恐怖」が顔を上げた。疑問符が浮かんでいそうなほどに首を傾げる彼は、たまらなく可愛らしかった。
「会いに行くんですよ。あなたの親友にね」
亜加子は、天を仰ぐ。最近になって、灰色だった空の色が赤く変わりつつあった。なんでそう見えるのかは分からないが、愉快で愉快でたまらない。
黄色い瞳が、妖しく輝いた。
雨のない空に、虹はない。
「待っていてくださいね、透せんぱ〜い」
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