第六章 二




 


 闇に包まれた家電量販店が、充の飼育小屋だった。


 充は、中央にあるカウンターの椅子に腰掛けて、音楽を聴いていた。机の足に固く結びつけられたリードと、腕に巻き付けられた鎖。亜加子が不在の時は、飼い犬と同じように拘束された状態で置かれる。


 時を忘れ、人々に忘れさられた物言わぬ家電たち。陳列された彼らは、充の視界に薄暗く浮かび上がり、崩壊した人間社会の名残を示し続けている。


 すべてが、虚ろだった。


 意識も、目に映るものも、イヤホンから流れる歌も。


 世界は、充を裏切った。運命は、充を否定した。生まれてきた意味は、灰色の狂気に飲み込まれて消えていった。


 ここにあるのは、腐食したクロッカスだ。呪いに反転した青春である。数ヶ月前まで学校に通い、退屈な授業中に居眠りし、透や友人たちと馬鹿話しながら弁当を食べ、たまに女子から告白されたり告白を断ったり、透のふとした仕草にどきまぎさせられる当たり前の日常。空が青いことを疑わないのと同じように、その青春は卒業するまで続くのだと信じて疑うことがなかった。


 だが、その無垢な信頼は、一瞬でドス黒く変色した。


 流れる歌が、狂しく嗤い出す。歌詞はもはや整然さを失い破調と成り果て、壊れたラジオから流れるそれよりもずっと酷い。なんの歌だ。青春の歌を聞いていたはずなのに。人間の声ですらない。充を踏みつけにし、ものを壊し、机に落書きをしては嘲る、人の形をした物の怪。「いじめ」という守られた概念を振りかざし、他者を壊すことに罪悪を抱かない下衆共。


 展示のパソコンが、一斉に光り出した。そこに映るのは街を、人々を蹂躙した化け物たち。下衆共が、化け物たちに喰われて悲鳴を上げていた。心地よい。凶暴な愉悦。だが、それはすぐに純真たる市民たちの絶叫へと反転する。バラバラになる肉塊が、残酷な処刑映像のように画面に浮かぶ。乱雑と行われる破壊。指揮者が指揮棒を激しく動かした瞬間のごとく、壊れた音楽がボルテージを上げていく。意味をなさない歌詞と、悲鳴と哄笑の演奏。


 破壊は際限なく。充のシャーデンフロイデは、デストルドーに限りなく近い恐怖へと塗り替えられていく。やめろ。壊さないで。俺たちの日常を。色彩を。安らぎを。愛を。音楽を。


 虚無にするな。


「ああああっ!」


 充は、イヤホンを耳から引き抜くと、プレイヤーごと地面に叩きつけた。何度か跳ね上がり、暗闇へ消えていったプレイヤー。イヤホンから漏れる微かな「小さな恋のうた」が、埃塗れの沈黙を揺らしている。


「……は、ははっ」


 充は、目に涙を溜めながら引き攣った笑みをこぼした。


 文化祭で一番最初に歌った曲なのに。充の父親が、愛していた大事な歌だというのに。


 なぜ、そんなことも分からなくなったのか。


 充は、何かにすがるように歌を口ずさみ始めた。自分でもゾッとするほどに乾いた声しか出てこない。それでも歌う。歌うしかない。声援の響くステージも、心地よい淡いスポットライトも、手を振って応援してくれる後輩や同級生たちも、ここにはいない。あるのは恐怖だ。闇だ。それを払拭するために、やるしかない。


 「小さな恋の歌」を、忘れたくないから。


 父親を、透への後ろめたく甘い気持ちを、感謝を、忘れるのだけは嫌だから。


 あらゆる想いを乗せたはずの歌は、しかし何も生み出すことはなく、そして暗い感情も消してくれない。


 歌が、少しも闇を消さなかった。


 消えない。


 消えない消えない消えない消えない消えない消えない消えない消えない消えない消えない消えない消えない消えない消えない消えない消えない消えない消えない消えない――。


 消えてくれない。


 現れた。


 血に濡れた小腸を引きずる、白村真が。


「相変わらずいい歌っすね、先輩」


 真の笑顔は、半分無かった。割られたスイカのように、赤い断面がヌラヌラと輝いている。


 気のせいだ。幻覚だ。


 歌う。消えろ。


「あは、は。安心してくださいよ、俺はずっと側にいるっすよ? 先輩のこと尊敬してんすから」


 うるさい。歌の邪魔をするな。


「無理ないっすよ。あんな化け物に、先輩が逆らえるわけないんですから。俺がああなったのは、あなたのせいじゃない」


 やめろ、そんなことを言うな。


 俺が悪いんだ。あのとき、亜加子を宥めることができていれば、お前は助かったんだ。


 充は頭を横に振りながら、なお歌う。


 真は、寂しそうに笑った。


「自分を責めないでくださいよ。悪いのは俺なんです。俺が死にたがったから、楽に死のうとしたから、バチがあたったんです」


 お前はもう、十分すぎるくらい理不尽な罰を受けていた。死という開放を願うことが悪いことであるはずがない。断じて、バチなんかではないんだ。


 お前が受けたのは、理不尽な殺人だ。


「先輩、いま、楽しいですか?」


 何を言うのか。


「いま、楽しく歌えていますか?」


 楽しいわけがない。


 頬が冷たい。顎先が冷たい。目頭が熱い。


 どうしてお前は、そんなにも優しい顔ができるんだ。俺は、お前を見殺しにしたというのに。


「見殺しになんてしていないっすよ」


 歌が、終わった。


 真は、名残惜しそうに淋しげな笑みを浮かべていた。


「アンコールって言ったら駄目っすかね……?」


「聴きたいのか……? こんな歌を」


「ええ、聴きたいっす」


 真の身体が、押し潰される豆腐のように壊れていく。赤黒い破片はやがて粘土のように集まり別の形に成り代わった。真の母親だった。紫色にむくれた顔。飛び出した血の走る目。


 パソコンの画面が、パッと切り替わった。


 そこに映るのは、葉月だった。


「……聴きたいわ」


 言葉を失うしかない。


「……聴かせてよ。真が、聴きたがっているから」


 画面に映る葉月たちが拍手をした。小さな手から発せられたものと思えないくらい、耳朶を割るように強い。


 耳をふさぐ。下を向いてしまう。


 だが、自分の罪からは逃げられない。


「歌え」


 地面から、母親が顔を出した。


「歌え、歌え歌え歌え歌え歌え歌え歌え歌え歌え歌え歌え歌え歌え」


「充お兄ちゃん、歌ってよ。あなたが殺したお母さんが言ってるんだから」


「先輩、お願いっす」


 アンコール、アンコール、アンコール。


 そんな言葉が、乾いた闇に響き渡る。ぐらぐらと視界が揺らいだ。目眩を起こしているかのように。地面に浮かぶパソコンの光が、明滅を繰り返していた。まるでリズムをとっているかのように。イヤホンから流れる「小さな恋の歌」が、割れんばかりの嬌笑へと変わっていく。


 アンコールには、悲鳴をもって応えた。


 もう、嫌だ。怖い。苦しい。辛い。悲しい。


 嫌だ嫌だ嫌だ。どうして、こんな目に合わないといけないんだ。


「……充くん」


 肩が震えた。充は、ゆっくりと顔を上げる。


 そこにいたのは、真でも葉月でも真たちの母親でもなかった。彼らは、霧のように消えていた。パソコンの画面も光っていない。


 黄瀬川春香がいた。幻ではなく血の通った確かな存在として、そこにいる。


 彼女は充に近づくと、手を伸ばしてきた。白い指が髪先に触れそうになったとき、充は冷たく言い放った。


「……触るな」


 春香の指が、震えた。


「俺に、近づくんじゃない。亜加子から目をつけられるぞ」


「わかってるよ……。でも」


「真みたいになりたいのか?」


 充は、感情を押し殺して淡々と告げた。


「外に放り出されたあいつがどうなったか、お前だって分かるはずだ。奴らの餌になりたくないなら、俺とは関わってはいけないんだよ。亜加子は、俺に執着しているからな……。どんな難癖をつけられるか分からない」


「……」


「だから、下に戻れよ。俺なんかより葉月ちゃんと一緒にいて欲しい。あの子にはいま、人の温もりが必要だ」


「それは、君もそうでしょ?」


 春香の言葉に、充は一瞬言葉を失ってしまった。何度か唇を開いたり閉じたりして、苦しげに声を出した。


「俺は、大丈夫だから。俺のことは気にするな」


「気にするよ!」


 春香が叫んだ。


「気にするに決まってるじゃん! 大切な友達がこんな目に遭っているんだよ? 放っておけるわけがない!」


「……春香」


「あなたはいつもそうだよね。自分を省みないで、人のことばかり気にして。自分が辛い目にあっているときも、ずっと……ずっとそうやって……」

 


「……違うよ」


 充は、首を横に振る。鎖が鉄に擦れて音を立てた。


「俺は、透じゃない」


「異色くん?」


「ああ、俺はあいつの真似事をしようとしていたに過ぎないんだ。でも、無理だった。あいつみたいなヒーローには到底なれない」


 自嘲的に口元を緩める充を、春香は悲しい瞳で見つめてくれる。優しくて芯の強い、友達思いの少女は、こんな地獄でも変わらない。


 萎れつつあっても、花は腐食せず咲いている。


 そんな彼女だからこそ。


 真のようにはしたくなかった。


「俺はな、怖いだけなんだよ。亜加子に逆らうことが、死ぬことが、たまらなく怖いんだ。だから、あいつのいいように従って、犬みたいな生活を強いられながら無様に生きながらえている。真みたいに終わらせる勇気はないし、誰かを助ける力も気力もない。自分のことだけ……自分のことだけさ」


「……そんなこと」


「あるんだよ、そんなこと。だから、俺に構ったって仕方がないよ。何も生み出せない。何も救えない。ただ、お前を危険な目に遭わせるだけで。……だから、亜加子が帰ってくる前に下に帰るんだ」


「……嫌だ」


「聞き分けてくれ」


「嫌だよ。ここで君を放り出して逃げたら、私は死ぬまで一生後悔することになる」


 春香の眼差しは、揺るがない。目に涙を溜めながらも真っ直ぐに充を見つめていた。


 彼女の姿が、透と重なる。


 錆びた鋼の信念が、彼女を踏みとどませている。

 

「もう、私のお父さんのときみたいに……見殺しにはしたくないの。あの子に大人しく従っていても、充くんはいずれ殺される」


「……たぶんな」


 吐き出す息は重い。


「でも、どうすることもできない。あいつの一方的な想いを受け入れるしかないんだ」


「充くん、ここを出よう」


 春香の言葉に、充は目を見開いた。


「何を言っているんだ……? そんなことできるわけがないだろう」


 外には、化け物たちがウヨウヨいるのだ。真がそうであったように、出たら十秒もせずに八つ裂きにされるだろう。みんな、それがわかっているからこそ、理不尽すぎる圧政をしかれようと逃げようとしない。


 そう、充だけではないのだ。みんな、悪魔に縋るしかなかった。


「でも……! でも、ここにいたって私たちに先はないでしょう?」


「……たしかにそうだな。だが、力のない俺たちがあの化け物たちに見つからないように逃げるなんて、それこそ現実的じゃない。……それに、どこに逃げるんだ? 警察も自衛隊も、おそらくは壊滅しているはずだ。俺たちが安全に逃げ込める場所なんてどこにもないよ」

 

 春香が俯いて、小さな唇を噛んでいた。


 きっと、衝動的に口に出してしまったのだろう。充の現状を見るに見かねて、どうにかできないかという思いから言ってくれたのだ。


 向こう見ずで、ただ人を助けたいという純粋な思いから行動する。そんなところが、透に似ている。


 充は、思った。


 自分を省みないで、人のことばかり考えているのは、お前の方だよ。


「……ありがとう。お前の気持ちは、本当に嬉しい」


「……」


「でも、冷静になってくれ。お前にまで死なれたら俺は……それこそ立ち直れなくなってしまう」


 涙が溢れていた。春香の目からも、充の目からも。


「……俺は、無力なんだ。いざというときに、俺は春香を守ることができない」


「充くん……私は君のこと」


「守れないんだ。だから、その先は言ってはいけない」


 拒絶の言葉を吐くのがこんなに辛かったことが、かつてあっただろうか。春香の涙が、ボロボロと床に落ちていく。


 すまない。でも、こうするしかないんだ。


 透の笑顔が、頭を過る。あの日、自分を救ってくれた太陽のような笑顔が。


 最低だ、俺は。


「……亜加子に見られないうちに戻って欲しい」


 逡巡した様子で涙を拭いていた春香は、やがて諦めたように首を縦に振った。良心が、激しく傷む。刃こぼれしたナイフで突き刺されたかのようだった。


 春香は、思い足取りで踵を返した。何度も立ち止まり、振り返りながら。彼女が下に降りるまで目をそらさずに見ていた充は、彼女が去った後の静寂を受け止めきれず、慟哭をあげた。


 差し伸べられた小さな手は、きっと温かかっただろう。








「せんぱーい! 亜加子ちゃんが帰ってきましたよー」


 亜加子が大げさなほどに手を振りながら戻ってきた。春香がいなくなって、どれくらい経っていただろう。イヤホンから溢れる小さな恋の歌。はるか遠くからくぐもって聞こえるその曲は、あれから何回もリピートしていた。


 虚ろな目を上げる。


 花のような亜加子の笑顔は、霞んでいた。


「おりょ? なんか先輩目真っ赤じゃないですか? ……あっ。もしかして、もしかして! 私が長い間離れていたから寂しくて泣いてくれたんですか?」


「……ああ」


 生返事をするのが精一杯だった。


 嬉しそうに目を輝かせる亜加子が、加工しすぎた顔写真にモザイクをかけたように見えて、ひたすらに気持ち悪い。


 化け物。人じゃないナニカ。


「えへへ〜、嬉しいですね! 先輩は意外と寂しがりやなところがありますよねえ。そんなところも大好きですよ!」


「……ありがとう」


「ふふ、可愛いなあ。ごめんなさいね、寂しい思いさせちゃって。でも、お土産もありますから、許してください!」


 亜加子は、上機嫌な様子で充に近づいてきた。シャンプーの匂いに混じって、脂混じりの血なまぐさい臭いが漂ってくる。服は新しいから、着替えてから来たのだろう。何をしていたのか、聞く気も起きない。


「お土産はこれです。じゃーん」


 テーブルに、拳銃が置かれた。


 いわゆるニューナンブというやつだ。日本の警察が主に携帯している回転式拳銃。


「えへへー、すごいでしょ? お巡りさんが譲ってくれたんです。先輩には、こういう玩具があった方が気が紛れるのかなあって思って」


 ついていけない。ぼうっとする頭で、ただその小さな凶器を見つめていることしかできない。


 なにがしたいんだ、この化け物は。


「……ま、『殺意』相手には屁ほども役には立ちませんがね〜。でも、色々使い道はあると思いますから、お守りだと思って大切に持っておいてくださいね! これは、『法律』で決まってますから、無くしたら駄目ですよ〜」

 

「……」


「ん〜、あんま嬉しそうじゃないですね」


「いや、嬉しいよ。……ありがとう」


 充は硬直した顔の筋肉を無理やり動かして笑った。言われたとおり、拳銃を服の内ポケットにしまう。満足そうにうなずく化け物。


 意図が読めなくて不快だし、気味悪さしか感じないが、従っておかないとどんな目に遭うかわからない。


 亜加子は、鼻歌を歌いながら充の横に腰掛けた。


「先輩、プレイヤー落としてますよ」


「悪いな……」


「見たら割れてましたし、新しいのにしましょうか。もう少し大切に扱わないと駄目ですよ?」


 お前にだけは、そんなこと言われたくない。


 口から零れそうになった言葉をなんとか飲み込む。鬱陶した気持ちのまま吐き出すのは、パンドラの匣を開けるよりも愚かな行為だ。


 亜加子が、腕を絡めてよりかかってくる。されるがまま、逆らえぬまま、腕にかかる陽の光を浴びた苔のような生温い感触を受け入れる。亜加子の心音を感じながら、頭に浮かぶのは春香のことだ。こんな不道徳、許されるべきではない。


「……」


 腕に、ふと硬い感触が当たる。いつの間にか、亜加子の耳にはイヤホンがついていた。充がよく使っているイヤホンと同じものだ。有線の先が、彼女のボトムスのポケットにまで伸びている。


「……それ」


「ん、ああ。私も聴きたいものがあったので。けっこういいイヤホンですよね、これ。音質もすごくいいし」


「……そうだな」


「おかげでよく聴こえますよ。小さな音も、よくね」


 腕に絡まる力が、少しだけ強くなった。亜加子を見ても、真っ直ぐに暗闇を見つめているだけで、感情が読み取れない。


 いったい、彼女はどんな音楽を聴いているのだろう?


 化け物の好む音楽とは、なんなのだろう?


 亜加子が、ぽつりと言った。


「……まあ、聴いているのは音楽ではないですけどね」







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