第六章 一







 歌うことが好きだった。


 充にとって歌うことは孤独を癒やす娯楽でもあり、人から与えられる痛みを忘れる薬でもあった。なくては生きていけないほどに大切なものだ。


 小学生の時は、いつも公園のジャングルジムをステージ代わりに歌っていた。夜の帳が降りるか降りないかという時間。誰もいない寂れた小さな公園は、彼の単独ライブの会場となった。


 歌は、なんでも良かった。ロックバンド好きな父親の影響で、だいたい歌っていたのはロックの曲だったが、音楽の授業中に習った曲やテレビでみたJPOPや演歌の曲も歌った。


 たくさん、歌っていた。学校であった嫌なことを忘れたかったから。


 六年前の五月のある日も、そうだった。


 その日は、朝から机がなくなっていた。クスクスと笑う、クラスメイトたちの声を聞きながら机を探しに出かけ、階段の影に隠された落書きだらけのそれを見つけて持ち帰る。死ね。貧乏人。はんざいしゃよびぐん。そんな文字が綴られた天板を見ないようにするのは一苦労で、ふとした瞬間に目を落とすと心臓が跳ね上がった。


 「嫌なら見るな」という言葉の無責任さを噛み締めながら、無表情を保って何でもないフリをするのは、とてつもなく辛い作業だ。何度繰り返しても、慣れることはない。クラスメイトたちの嘲笑も、悲しみと怒りが伴う分、壊れたラジオのノイズよりもずっと耳障りだった。


 その雑音は、放課後になってもずっと残り続けた。


 それを掻き消したくて、歌う。その日も喉が枯れることなど厭わずに、たくさん歌っていた。


 消えろ。


 クラスメイトたちの嘲笑。


 消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ。


 落書きされた机。破られたノート。折られた鉛筆。


 消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ――。


 集団に囲まれ、蹴られ、殴られ、唾を吐きつけられ、しょんべんをかけられ、泣いても叫んでも、笑われ笑われ笑われ笑われ笑われ笑われる。


 消えてくれ。


 いつものように、涙が溢れた。沈みかけた夕陽の優しさに包まれて、発狂しそうな気持ちを吐き出すように歌うと、止まらなくなる。


 本当は、消えることはないと分かっているから。


 どれだけ声を枯らしても、心にある傷口から流れる血は止められない。塞がったように見える傷口は、翌日にはすぐに開いてしまう。


 それでも。それでも。それでも――。


 日が沈むまで応急処置をするのだ。何も変わらない心の自転車操業。錆びたペダルを漕いで、その日も終わるのだと思っていた。


 拍手が、した。


 今まで、そんな音鳴ったことなんてなかったから。充は驚いて、ジャングルジムから落ちそうになった。慌てて鉄の棒に掴まり、振り返ると、帽子をかぶった活発そうな少年がいた。手を叩きながら、白い歯をみせて充を見上げている。


「……き、君は誰?」


 充は、オドオドとしながら訊ねた。人の目が、怖かった。


「おめえ、すげえな! めっちゃ歌上手いじゃん……! 天才……! 天才なの!?」


「……え、えっと」


「すげえ、まじすげぇよ! 俺めっちゃすげえやつに出会ったんじゃねえか!?」


 プラネタリウムのような鮮やかな瞳で、称賛のマシンガンを撃ち続ける少年に、充はたじろいでしまう。質問も無視された。なんなんだ、こいつは。


 どう対応すればいいのか分からないまま固まっていると、少年がジャングルジムを駆け昇ってきた。そして隣にやってくると、当然のように隣に座った。あまりにも遠慮がなさすぎた。充の身体はさらに硬直する。反射的に息を止めてしまう。


 少年は、充の強張りに気づいたようだった。少しだけ腰を浮かせて距離をとってくれた。


「……あっ、わりぃ。凄すぎたから、つい」


「あ、いや……うん」


「でもさあ、お前マジですげえよ。なんで、あんな綺麗な声で歌えるわけ? お前、何者? カラオケバトルとか出たことある?」


「え、そういうのは……ないよ」


「そうなん? 応募してみろよ、ぜってえ予選勝ち上がっていいところまでいけるからさ!」


「……あ、あははは。どうも」


 硬い愛想笑いで応じていると、少年が充の胸元を見つめていた。名札を見られていることに気づいて、恥ずかしさのあまり思わず手で隠した。


「ふーん。お前、茶川充っていうのか。俺、異色透。よろしくな!」


「あ、うん……。よ、よろしく」


「充は一小かー。俺は二小だから、中学から同じになるな!」


「そ、そうなんだ」


「そうだよ! やったな、俺たち同じ学校に通えるんだぜ!」


 にっこりと満面の笑みを咲かせる透に、充は戸惑いながらも嫌な感情を抱いてはいなかった。距離感も初対面ではありえないほど異様に近いはずなのに。パーソナルエリアに踏み込まれたときの不快感が不思議と湧いてこなかった。少年が純粋な賛辞を示してくれているからか、もしくは人の懐に入るのが上手いのか。変なやつだな、とは思いつつも、苦しくなっていた呼吸がいつの間にか楽になっていた。


 透は、その後も充の歌について熱量のこもった言葉で語り続けた。聞いていると次第に肩や背中から重さが抜けていったが、あまりにも褒められすぎて今度は頬が熱くなるのを感じ、いたたまれなくなっていった。


 そんな充を、透がじっと見つめてきた。琥珀のように美しい瞳に、赤くなった充の顔が映り込んでいる。


「……あ、あの。あんま見つめないで」


「んー、やだ」


「え、えぇ……」


「だって、お前かっこいいもん」


 はえっ、という声が溢れてしまった。耳が溶けてしまいそうなほどに熱い。


「眼鏡、外すぜ?」


「ちょっ」


 充が許可を出す暇もなく、眼鏡をとられた。背景がカメラのピンぼけのようになったが、悪戯っぽい透の笑顔だけはやけに鮮明に写っていた。


 オレンジ色の光を孕んだ少年の肌は、驚くほどに輝いていた。悪戯小僧の表情が、ゆっくりと解れていき、柔らかい、すべてを包み込むように温かい微笑みに変わっていく。


「……なんだ、やっぱりイケメンじゃん」


 心臓が、落ちたのかと思えた。


 それほどまでに目の前の少年の笑顔は、充の心を掴んでいた。透の澄んだ瞳や綺麗な鼻筋や、土の汚れがついたシャツの白さや、汗が微かに滲んだシャンプーの香りや、漂わせる温かい空気に至るまで……すべての感覚が、すべての意識が、彼にとらわれて離れなかった。


 この感覚を、そのときはどう表現すればいいか分からなかった。


 だが、運命的な出会いであることだけは、充も感じていた。


 少年は、斜陽を背負って力強く言った。


「お前、やっぱり凄いやつだな!」


 充の闇に、一条の光が差した瞬間だった。








 あれから六年が経った、二〇二二年の六月。


 高校三年生になった充は、最後の文化祭を迎えようとしていた。


「……たく、委員長も人使いが荒いよなあ」


 充の隣でそうやってボヤいていたのは、親友の異色透だった。両手に、クラスの出し物で使う大量の資材を抱えながら廊下を歩いている。


「まあ、そう言うなよ。最後の文化祭で張り切っているんだと思うぜ」


「……だろうけどなあ。それにしたって、俺たちばかりに荷物運ばせるのってどうよ? いくら力があるからってさ」


「そうグチるわりに、嬉しそうだよな?」


「……はあ? どこがだよ?」


「いや、さっきからめっちゃ口元弛んでるし」


 充が、噴き出しそうになるのを堪えながら指摘してやると、透は頬を赤くして「うるせぇ」と目を逸らした。


 反応が分かりやすすぎて、からかいがいがある。


「……目立たないけど、隈できてるもんなあ。楽しみで寝れてないとかか?」


「ちげーわ。これは徹夜で『舟コレ』見ていたからだ!」

 

「ふぅん、そっかあ。漫画のせいかー」


「ああ! 漫画のせいだ! なんならあんな面白え漫画を貸してきた亜加子のせいだよ!」


「責任転嫁が過ぎるな……。てっきり、誰かさんをデートに誘おうとか考えて、寝れなくなっていたんじゃねえかって思っていたけど」


「は、はあ? ちげえよ。そんなやついねえって」


「……ふぅん」


 図星なんだな、と充は思った。耳まで赤くしている時点で、もう答えを言っているのも同然だからだ。


 頭に浮かぶのは一人の少女だ。どこか浮世離れした雰囲気をもつ、雛人形や市松人形のような完成された美しさを感じさせる少女。絹のように透き通った黒い髪と銀細工を思わせる瞳、そして白磁のような肌。そのくせ大人しく物静かで、なぜか存在感が希薄で目立たない。どこかアンバランスで不可思議なクラスメイト。


 銀城桜南のことだ。


 二年前、彼女が転入してきたばかりのころは透とよく話しているところを見かけていたが、二人が直接の接点を持っていたのはごく僅かの期間だ。その後は、クラスで話しているところをほとんど見なくなった。周りに噂をされていることを、透か桜南のどちらかが嫌ったためだろう。二人が距離を置いて以降は噂もされなくなったし、誰も透と桜南の間に特別な関係があることを邪推しなくなった。


 だが、充は気づいていた。


 時折、透が桜南を見つめていることに。そしてその逆に、桜南が透へ視線を向けていることに。


 そのことに気づいているのは、おそらくクラスでも充だけだ。いや、間違いなく充以外は誰も気づいていないだろう。二人の間には、巧妙に隠された見えにくい糸が伸びている。


 透は隠し事が苦手なはずなのに。


 胸が、ちくりと痛む。


「……」


 こんな感情、抱いてはいけない。


「……まあ、頑張れよ。俺は応援してるぜ」


 透は答えなかった。聴こえないふりをして、出店の看板を塗っている女子生徒たちに目を向けていた。腕をまくり、体育着をペンキで汚しながら笑う女子たちは、向日葵のように眩かった。


 花は、彼女たちだけではない。文化祭の盛り上がりは、学内に花畑を表出させていた。忙しなく働く生徒たちは、あるいは真剣に、あるいは楽しげに、三回しかない行事に取り組んでいる。そこには、色とりどりの花弁が開いていて、淡い密の香りが揺蕩い、青春という大人が喜びそうな概念で満ち満ちている。


「おや、先輩方じゃありませんか!」


 大きな呼び声に、透共々驚いてしまった。穏やかな花壇に、一陣の風が吹いたかのようだ。周りで作業していた生徒たちも、一様に顔を上げ、元気すぎる声の主に目を向けていた。


 喧しい風紀委員のお出ましだった。大仰な楷書体で書かれた腕章を得意気に巻いて、ぶんぶんと手を振りながら飛び跳ねる小動物のような少女。


 透が、口元をわずかに綻ばせる。


「おう、亜加子!」


「おう、透先輩! 景気はいかがですか? 元気にインフレ起こしていますか?」


「インフレ起こしたくはないけど、元気だぜ! 俺一人でフリーザ倒せるくらいの元気玉集められそうだ」


「おー! それはいいですね! スカウター壊れそうなくらいインフレ気味ですね!」


「……相変わらずノリだけで会話するよな、お前ら」


 周りから微笑ましいものでも見るかのように、小さな笑いが起こっていた。恥ずかしいから止めてほしい。


「そうですよ、充先輩! ノリと勢いだけで生きてますから私達!」


「イエス。ノリと勢い、大事だよな!」


 肩を組んで、大げさに笑う透と亜加子。


「……他所でやってくんない?」


 充は呆れたように息を吐いて、こめかみに手を当てた。この二人が揃うと毎回喧しくなる。油蝉とミンミンゼミを狭い籠の中に入れるような感じで、騒音が掛け算されるのだ。あの三人またやってるよ、と微笑ましげな声がした。


 頬の温度が上がるのを感じながら、充は亜加子に訊ねた。


「それで、亜加子はこんなところで何やってんの? 二年の教室は下だろ」


「ふふふ、風紀委員の巡回に二年も三年もないのです! 不正を働く輩がいないか、充先輩がえっちな本を隠し持っていないか、私には取り締まる権利があるのですよ!」


「おいこら。しれっとトンデモないことをいうな。エロ本なんて持ってきてねえよ」


「……ホントですかぁ?」


「……ホントかぁ?」


 亜加子と透が胡散臭く笑いながら充に詰め寄る。あまりの鬱陶しさに、充は二人に手刀を叩きつけた。痛そうに頭を抑える馬鹿二人。


「下らないこと言ってないで、まじめに働け」


「は、働いてますよぉ! あまりにも何も起きないから先輩に会いに……じゃなかった。先輩たちのいる方角から不正の臭いがしたから飛んできたんですよ! 本当です!」


「……暇だったんだな」


「ち、違います違います! 風紀委員は、どんな小さな違和感も見逃したら駄目ですから! これも立派な仕事なんですよ」


「ああ、そう……。それじゃあ、無駄足だったなあ。あいにく、この階に事件らしい事件はないからな。家にお帰り」


「犬かなんかですか私は! 嫌です帰りませんから」


「帰れ!」


 充が亜加子と押し問答を繰り返していると、透が短く何かを呟いた。


「ん? なにか言ったか透」


「いやぁ、何も」


 やけに含みのある言い方をして、透は目尻を和らげて、充と亜加子をかたみがわりに見ていた。


 言外に示された意味に気づかないほど、充は鈍感ではない。


 心の隅に、微かな苛立ちが灯る。


 透は悪くない。悪くないが、残酷だ。


「……先輩?」


 急に元気のなくなった充を訝しく思ったのだろう。亜加子が小首を傾げながら心配そうに覗き込んできた。


 息を吐いて、充は微笑んだ。


「……まあ、冗談はさておき。俺たちちょっと急いでいるんだ。委員長に仕事頼まれているからさ」


「え、そうなんですか。そんな忙しいときにすいませんです!」


 素直に謝ってくる亜加子の瞳は、黄水晶のようにどこまでも澄んだ色をしていて。充は、そこに写った自分の顔を、嫌いな椎茸を噛みしめたときのような不快感で見ることしか出来なかった。


 亜加子も、透も、悪くない。


 悪いのは、自分だ。


「悪いな亜加子。……じゃ、行こうぜ」


 抱えている荷物ごと、透の背中を押して急かした。


「お、おい! そんな急ぎじゃ」


「急ぎだよ。委員長が、資材搬入はなるべく早く終わらせたいって言っていただろ。油を売っていたら、また雷を落とされるぜ」


「そ、そうだっけ? それじゃ仕方ないけど」


 透は釈然としない表情だったが、充の言葉を疑ってはいないようだった。亜加子を一瞥し、抵抗もほどほどに充に従った。


 ほんの一瞬。亜加子が、眉根を下げているのが見えた。ちくりと針が刺すような痛みを感じたが、気づかないふりをする。


 亜加子の気持ちや想いにも、充自身のどうしようもない感情にも。


 蓋をするしかないのだ。


「充先輩!」


 去っていこうとする充たちを、亜加子の大声が止めた。振り返ると、いつもの天真爛漫な笑顔があって、窓から差し込む光を受けて美しく輝いていた。


 亜加子は息を吸い込んで、感情を叩きつけるように言った。


「二日目のステージで、歌うんですよね! 楽しみにしていますからね!」


 力強い声が、廊下にいた人々の関心を奪い取るように響き渡る。


 充は思わず俯いて、小さく呟いた。


「……恥ずかしいよ、まったく」



 


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