第五章 四
灰色の結晶が、降り注いでいた。
「先輩、見てください。雪が降っていますよ!」
亜加子は掌を空に向けて、幼子のような純真さで喜んでいた。短く持っていたリードを解いて、充の少し前をパタパタと歩いている。
薄汚れた淡雪を前に、充はただただ震えているだけだった。寒くて震えているわけではない。むしろ、吹き付ける風は生温かく、梅雨のような湿気さえ感じられるほどだ。粘っこく、そして不気味なほどに温い。浮かんでくる汗はとどまることを知らなかった。
冬の冷たい清涼感、雪の純白な優しさ、眠る命の静けさ。
そんな季節の情感に触れることができるものは、一切ない。
あるのは、捕食者の獣臭い気配だけだった。
あちこちから尋常ならざる気配がするのだ。あるいはそれは獲物を狙う獰猛な視線であり、あるいは新鮮な餌の香りに酔いしれる鼻腔を膨らませる音であり、あるいは裸体をさらす少女に対して向けるような好奇に満ちた嗤いであった。亜加子を怖れて姿を見せていないはずなのに、あいつらの息差しがはっきりと感じられた。
視界の端で、何かが蠢く。ビルの中から、何かが覗いている。気のせいではない。いるのだ、そこら中に。
メッキみたいな薄い雪を踏む感触は、頼りなげだった。まるで自分の足ではないかのように、震えが止まらない。
否応もなく頭に浮かぶのは、街の人々が蹂躙されていく光景。
その名残はそこら中にあるから、目を逸らしたくても逸らせない。腐ることなく残っている人々の残骸が散らばっているのだ。軟骨までしゃぶりつくされた骨、スライムのような光沢を放つ内臓の欠片、絶叫を記録しているかのような剝がされた下顎、頭が半分ない女性の死体、肛門から街路樹に刺しこまれた人間――。雪が隠さない地獄の光景。
充の目頭には、涙が溜まっていた。血と脂とアンモニアを混ぜ込んだような刺激臭が、息をするたびに鼻腔を突き刺してくるからだ。口で呼吸しても口腔内から入ってくるため、どうあがいても臭いを嗅ぐことになる。息苦しかった。まるで、汚水の中にいるかのように。
頭がどうにかなりそうだ。
歩いている感覚すら朧気である。心が張り裂けそうで、今すぐ叫びながら逃げ出したいと思えた。バケツに入った血を浴びて、肉食動物が闊歩する自然公園を歩いたとしても、この状況よりはまだ生きた心地がするに違いない。
「あー最悪」
亜加子が突然、ブーツの裏を見ながらため息をついた。
そこには、潰れた人間の目玉が張り付いていた。薄赤いゼリーのようなものが飛び出して靴底の隙間に入り込んでいる。
「汚いもの踏んじゃった。これ、お気に入りのブーツなのになあ。在庫これだけしかなかったのに最悪」
亜加子は小さく舌を打って、目玉を蹴り剥がす。取れないものは床にこすりつけてこそぎ落としていた。
人間の残骸は彼女にとって道端のガムに等しいのだろう。充の表情筋が、勝手に痙攣する。
「もー、せっかく雰囲気がいいのにぃ。こんなのってあんまりですよね?」
苦笑しながら訊いてくる亜加子に、返事をすることができない。息が詰まって、声を出そうとしてもひゅーひゅーという音しかならなかった。胸のつっかえが異様に苦しい。言葉を出さないといけないと思っても、声帯が働けない。
「はい、どーん」
亜加子の小さな掌が、背中を強襲した。背骨が砕けたんじゃないかと思えるほどの痛みが走り抜け、充は前のめりに倒れてしまった。激しく咳き込む。
「また過呼吸になりそうでしたよ、もお……。大丈夫って言っているのに先輩は本当に臆病だなあ」
「……ぁぐっ。あっ」
「……まあ、だからこそ『あれ』に相応しいと言えるんでしょうけど」
充はリードによって引っ張り起こされた。苦しんでいることなどお構いなしだった。この理不尽すぎる法律家には血も涙もない。
「さあ、行きますよー。駅はもうすぐそこなんですから。元気出して、私の可愛い恰好をしっかり見てください」
充は呻きながらなんとか首を縦に振った。リアクションしなければ怪物の餌にされるかもしれないから。
デートという名の強制連行は、異常なほどに重たい時間の流れで進行した。
時計の針の動きを、神様が百分の一にしたのではないかとも思えたほど、駅前ははるか遠くに感じられた。ゲリラに襲われる恐怖にさらされながらジャングルを彷徨った兵士たちは、こんな気分だったのだろうか。亜加子は機関銃よりもはるかに強大な力を持っているだろうが、気まぐれすぎるし狂っているので彼女の存在は気休めにもならない。漂い続ける生臭い殺気にさらされ続けるのは、多大なるストレスだった。
駅前に着く頃には、数十年分のランニングの疲労が襲い掛かってきたかのように、心身ともに疲労困憊としていた。
大量の汗で、シャツは濡れ切っていた。いつ落ち着くのか自分でも分からないほど呼吸が乱れ切って、このまま酸素不足で死んでしまうのではないかと思えるくらい苦しかった。
「あーあったあった。あそこですよ、充先輩」
亜加子は充の体調など一切気を配らず、マイペースに指をさしていた。鉛のように重たい首を動かしてそちらを見やると、駅前のビルのテナントに、マネキンが立っている区画が見えた。ひび割れた窓ガラスから見える、ポーズをとったマネキンは、まるで怪物のように見えて、心臓がきゅっと縮まった気がした。
よほど楽しみにしていたのか、亜加子は浮足立った様子で店に近づくと、勢いよく入口の扉を開いた。
来店を歓迎する声は、当然聞こえない。
九月十五日に、飯沢市のすべてのサービス業から挨拶が消えたから。
「ほーほー。やっぱりいい品ぞろえですね……。正解でしたよ、駅前まで来て」
俺にとっては不正解だよ、と充は思った。
だが、そんなこと口が裂けても言えない。
おもちゃ売り場に来た子供のようにはしゃぎながら、亜加子は服を物色していく。姿見の前で服をかざし、可愛げのあるポーズを取りながら、ああでもないこうでもないと唸る様は普通のショッピングみたいで、滑稽さすら感じられた。充は乾いた笑みを刻みながら、その光景の異常性に目を向ける。
なんで、こいつはこんな時だけ「普通」でいられるのだろうか。それこそ放課後のショッピングのように服を悩むことを楽しみ、名札を眺めて小さな溜息をこぼし、気に入らなかった服は律儀にも畳んで戻している。お飯事よりもひどい。そんなことをする必要なんてどこにもないはずなのに、どうしてそんなところでは丁寧さを発揮できるのか。人をゴミのように扱い、殺すことを一切厭わず、「法律」という奴隷制度で皆を縛っているくせに。正常さを働かせるところが、ちゃんちゃらおかしい。
これも彼女の中では、「法律」で守らねばならないことなのだろうか。彼女は自身を「法」を司る存在だと称している。だからこそ彼女は、彼女の中にある明記のない「法律」に忠実でいなくてはならないのかもしれない。基準はすべて亜加子の中だ。
充は、首輪に指を添えてなぞった。
狂人の法治から抜け出したい。だが、狂人の法治が自身を守ってもいる。
その歪さから、解放される日は来るのだろうか?
「えへへ、決まりましたよ先輩。……それじゃあ試着するので、傍で待っていてくださいね」
「……そうか」
「……覗かないでね?」
「……覗かないよ。おとなしく待っているから」
充が疲れた声でそう言うと、何が不満だったのか亜加子は頬を膨らませていた。
その反応に、充の肩が震える。
「……どうせ、幼児体形ですよーだ。ランドセルの似合う体つきですよーだ」
「……」
「先輩のアホッ」
そう声を張り上げて、亜加子は試着スペースのカーテンを勢いよく閉めた。
充は安堵しながら、身体中に溜め込まれた疲労とストレスを少しでも抜こうと小さく毒づいた。
「……気持ち悪い」
三つの紙袋が、揺れている。
上機嫌に鼻歌を鳴らしながら、亜加子はスキップをしていた。血生臭い空気に、あまりにも場違いな幼稚な音楽は、くたびれた充の神経を少しも癒やしてはくれない。雪の降りしきる街の尋常ならざる気配が、絶えずヤスリのように心を削ってくるせいで。
「たくさん、買いましたね〜」
「……そうだな」
「ふふ、今日は最高の一日です。先輩もたくさん褒めてくれましたし」
その言葉に思うところはとくにない。考えるだけの気力もありはしないから。
充は疲れた表情で、亜加子のリードに従い続ける。際限のない疲労と精神攻撃によって摩耗し尽くしているせいか、目の前の光景にモヤがかかっていた。メガネを外した近視の人間の視界みたいに。
踏みしめる雪の薄さすら曖昧で。
ざくざくざくざく、と。ざくざくざくざく、と。音は遠く、意識も遠く。
充はただ、曖昧模糊と歩き続ける。
亜加子が、ずっと何かを喋り続けていた。それさえも鮮明さを失い、水の中で聴く会話のようにさえ感じられるほどで、充はただ生返事を繰り返す。眠りに落ちる寸前で振り絞る言葉にも似ていた。
願う。このまま真っ黒なまま、いつの間にか帰り着いていないか。思い浮かべるのはショッピングモールなどではなく、家のベットだ。眠りにつきたい。柔らかなマットレスの中に沈み込み、暖かな毛布をかぶって。きっと、深い安堵に包み込まれる。ああ、あの温もりが懐かしい。母さんの声が聴きたい。「学校にいきなさい」ともう一度言ってくれないかな? うっとうしく思っていたのに、無性に聴きたいんだ。あそこに安寧があったことに、どうして気づかなかったのだろう――。
雪が、止んでいた。
そう気づいたときには、だいぶ歩いていた。だが、景色が行きのときに見たものとは変わっている。通るはずのない場所にいたのだ。
「……」
どうして気づかなかったのか。辺を囲むビル群には見覚えがある。ショッピングモールとは違う方向の道。
なぜ、こんなところに?
リードは後ろに伸びていた。充は振り返って、微睡むような意識を真っ白に停止させた。
リードの持ち手が、地面に落ちていた。
誰も、いない。
「――」
眠気など一瞬で消し飛んでいた。戦慄が全身を何度も走り抜け、心臓が壊れそうなほどに鳴り始める。
「あ、亜加子?」
周囲を見渡す。どこにもいない。あれほど上機嫌でうるさいくらいだった彼女の気配は、一切感じられなくなっていた。それでも信じられなくて首をひたすらに動かし続ける。
いない。
どこにもいない。
「……ふ、ふざけんなよ。おい、亜加子。亜加子っ」
声は出さない方が賢明なのに、充はそんなことに気付けないほどパニックになって亜加子を呼んだ。だが、どこからも彼女の返事はない。
置き去りにされていた。
そのことに思い至った瞬間、暴れ狂いそうになる感情をさらに掻き立てるかのように、周囲から足音が聞こえた。充は声にならない悲鳴を上げて、固まる。獣の檻にいれられた草食動物が、死の気配を敏感に察して動けなくなるように。
呼吸が、不規則に乱れていく。
何かに足を掴まれた。
「――」
排水溝から白い手が伸びていた。充は反射的に蹴り剥がそうとして、脚をもつれさせ転んでしまった。必死に後退る充へ、白い手が這うように迫ってくる。排水口の隙間から覗く無数の目が、怯える充を見て嗤うように歪んだ。
白い手の指先が、頬に触れる。その冷たさに全身が粟立った。充は叫び声を上げながら立ち上がり逃げようとしたが、ビルの窓を突き破って現れた四足歩行の化け物に、足を止められる。人間の頭が四つついたその化け物は、異様に長い手足を器用に動かして、充の身体を捕まえ、押し倒した。
「……ひっ」
化け物の口から垂れた涎が、滝のごとく充の顔へ落ちてくる。耐え難い腐臭。口の中に入ってきたそれは、腐りきった卵白のような酷い味がした。猛烈な吐き気に襲われ、激しく咳き込んだ。
突如、化け物が笑いながら痙攣し始めた。脂の詰まっていそうな化け物の膨らんだ腹に、食虫植物のような口が開かれ、その巨大な口の中にあるものを見せびらかしてくる。
唾液で濁った視界にも、それらは鮮明に見えた。
大量の人間の頭部。
生臭い不快感が、一瞬で消失する。
口の中で、籠に入れられたバスケットボールのように、人間の頭部が無造作に重ねられていたのだ。溶けて骨が露出したものがほとんどで、へばりついた赤い肉から、米粒ほどの大きさの蛆の群れが泳いでいた。わずかに残った死人たちの目はほとんどが見開かれ、防波堤に打ち捨てられ朽ち果てかけている魚のごとく、白い濁りに沈んでいる。
化け物は舌をつかって、それらを器用に転がしながら、飴玉を頬張る子供のように四つの顔を醜く歪めた。
唾液の味さえ、感じなくなるほどに。
充の意識は、雪よりも白く白くなっていく。
ああ、もう駄目だ。
天使の羽が、雪の代わりに舞っている。上空からも醜い天使たちが訪れて、これから始まる命の破壊を心待ちにしているようだった。光が、強い気がした。天使たちが翼をはためかせる度に、燐光のごとき粒子が、空気へと散りばめられていく。濁っていたはずの視界は、意識の白さとは対照的に鮮明すぎるほど鮮明で、そのちぐはぐさに、脳は混乱の極みに達していた。
美しく歪んだ殺意の世界は、死の恐怖すら裏返す。
処理しきれない矛盾した情報の波を前に、充はつっと涙を一筋流して、失神した。
知らない世界に立っていた。
赤と灰色のグラデーションに彩られた世界だった。血染めにしたかのような空と、デッサン画のような草原。
誰かに手をひかれながら歩いていた。充の意識は朧気で、夢遊病者のように自分の意思で動いていない。
手を引くのは小さな子供だった。いや、小さいなんてものではない。乳母車から伸びる手に引っ張られている。赤ん坊。誰もその車を押していないのに、勝手に進んでいく。
拒絶はできない。それは、絶対に許されないことだ。小さくてあまりにも柔らかいこの手を振りほどけば、細胞のすべてが反逆を起こして身体が自壊する。なぜかそう思えるほどに、この手の持つ強制力は凄まじいものがあった。
乳母車が進む先には、一本の木があった。いや、一本だけではない。十本ほどもあるだろうか。基本的には等間隔を保って立っているが、最初に見えた一本目と二本目の木だけは絡み合うように立っていて、それ自体で一つになっていた。
そのいずれにも、黒く靄がかかった人形の影が佇んでいる。そして、充が向かう先にあった木にいる影だけ、やたらと鮮明に見えた。その影は、見覚えしかなかった。
乳母車が、止まった。
赤ん坊の手が、充を離した。
充は、茫然自失としながらその影を見下ろした。樹下で体育座りをするのは、小学生になったばかりの頃の自分だった。彼は弱々しく、それでいて氷のように冷めた目を向けながら、充にこう言った。
――人を殺して。恐怖に、泣き叫びながら。
気がつくと、灰色の雪が降る空があった。
「あ、気づきましたか?」
側にいたのは亜加子だった。血まみれの裸体を晒して、上機嫌に破顔している。
「……あれには会えたみたいですね。よかったあ、置き去りにした甲斐がありました」
置き去り、という言葉で、充の意識は一気に覚醒した。勢いよく身体を起こすと、周囲にはバラバラに引き裂かれた肉塊と、池のように広がる赤いものが見えた。むせ返るような脂と血と涎の臭いが、遅れて鼻腔に入り込み、充の胃が迫り上がった。
口に手を当てて、こみ上げる吐き気を抑える。
「……先輩、よかったですね。あともう少しですよ」
「……もう、少し?」
「あはは、いずれ分かりますから。今はまだ知らなくてもいいんです」
亜加子は、血まみれの手を充の顎に置いて持ち上げる。
「……先輩、愛してます」
そして、唇が重ねられた。
突然のことに反応が追いつかない。キスされたと気づいたときには、すでに口内に舌が侵入していた。首を振って逃れようとしたが、無理だった。亜加子の手が尋常じゃない力で顎を固定していたからだ。なすがまま、されるがまま、血の臭いがする唾液を流し込まれていく。
まるで、毒を流し込まれているかのようだった。あの化け物の涎とは、まったく性質の違う不快感に充は襲われる。
これは、陵辱だ。
一方的すぎる愛による、ただのグロテスクな性暴力。
何分、それが続けられただろうか。化け物たちの鳴き声が、遠くで何度も何度も木霊していた。ざらざらとした舌の感触は、紙ヤスリを口の中で転がしているような気色悪さがあった。それに耐える、耐え続ける。
亜加子が唇を離した。銀色の粘っこい糸が引かれている。味わい尽くしたと言わんばかりの恍惚に満ちた表情は、怪物のように醜かった。
黄色い目が不気味に輝き、三日月のように歪んでいく。
充は、涙を流していた。
ここには、「法律」なんてものはない。
あるのは、怪物の無法だ。
亜加子が、妖艶に唇に手を当てて、濡れた言葉を溢した。
「……やっと、上書きできました」
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