第五章 三
真の母親が、首を吊って死んでいた。
真が惨殺された、二日後の朝だった。彼女は二階の鉄柵にロープを括り付け、階下へと落ちたらしい。一階の廊下に、彼女が流したであろう糞尿や鼻水や涎や涙などが綯い交ぜになった黄色い液体が広がっていた。しなだれた足先から、ポタポタと汚水が落ち続けている。
刻まれていたのは、苦悶の表情だった。潰された蛙のように、大きく飛び出した目玉。そして、顎先まで垂れ下がった紫色に変色した舌。あまりにも酷い姿だった。首を吊って死ぬことが、決して安楽な死に方ではないことを嫌でも教えられる。
宙に浮いた肉袋。
微風にさらされたススキのように揺れるそれを、一人の少女が見上げていた。
「……お母さん?」
真の妹、葉月である。ほつれの目立つ熊の人形を抱える幼児は、母親の魂がそこにはないことをわかっていないようだった。
「見たら駄目だ……!」
壮年の男性……
「そんな……おばさん……」
充は、唇の戦慄きを抑えられなかった。
後退り、膝を折って、胃の中の物を残らず撒き散らした。
「……お母さん、ご飯だよ?」
葉月の言葉に、答えを返せるものはいない。いるわけがない。
集まったみんなは、ほとんどが呆然と立ちすくんでいた。何もできず、何も言えず、ただただ疲れ切った表情を浮かべている。異常な環境に神経がいかれているためか、それとも考えないように感情に蓋をしているせいか、驚くほど淡白な反応だ。道夫と、遅れて葉月に駆け寄った女の子、
無数の暗い目が、畑の案山子でも見つめるように死を眺め、静寂を保っている。
その異常な空気に痺れを切らしたかのように、春香が叫んだ。
「みんな、ぼうっとしないでよ! わかってるでしょ!?」
葉月の母親を降ろせ、という意味だ。
だが、春香の訴えも虚しく響いていた。誰も動こうとしない。
「なんで誰も動かないの!? はやくしてよっ」
ため息が聞こえた。誰が漏らしたものかはわからない。
春香が、眉根を寄せて立ち上がろうとした。
「春香ちゃん」
そんな春香の腕を掴んで、道夫が首を横に振った。
「……駄目だよ。誰も、悪くなんてないのだから」
「でもっ!」
「……お母さんは僕が連れて降りるよ。だから春香ちゃんは葉月ちゃんのことをよろしく頼む」
「……」
「春香ちゃん」
道夫の言葉は、こんな状況にあっても驚くほどに優しかった。唇をかんで俯く春香は、肩を震わせながらもなんとか葉月のことを抱っこして、踵を返した。
「……待って。お母さんは?」
「お母さんはね……」
春香は、無理やり微笑んだ。
「……お兄ちゃんのところに、行くんだって」
「……お兄ちゃん? お兄ちゃんは、どこにいるの?」
春香は、何も言わずに歩き出す。
「お母さん。葉月を、置いていかないで?」
「……」
「お母さん、お兄ちゃん……」
「……すぐに、会えるから」
絞り出した春香の声は震えていた。
俺のせいだ。
充は、まき散らした胃液を見つめながら、そう思った。
あのとき、真を救えなかったから。
ただ見ていることしかできなかったから。
亜加子を挑発しないように諫めておけば、諦めずに亜加子に説得しておけば、いや、そもそも真の異変を事前に察知できていれば、こんなことにはならなかったはずだ。どうして気づけなかった。どうして守れなかった。わかっている、亜加子に怯えて動くことができなかったからだ。
許してくれ。許してくれ許してくれ許してくれ。仕方なかったんだ。動けば殺されていたかもしれなかった。あいつは何をするかわからない。それに、亜加子の『天秤』に逆らって、全身が勝手にねじ切れて死んだ人間がいた。罰だ。あの天秤が右に傾いた瞬間、なにもしてないのにそうなったのだ。もしかすると、あのとき真を助けていれば、契約違反で充もそうなっていたかもしれない。あいつに、絶対服従を誓わされたから。何がトリガーになるかなんてわからないんだ。どうしようもなかったのではないか。無力だから。力なんてないから。あいつに逆らえるわけがない。仕方ない仕方ない仕方ない。
「最低」
胸を抉る言葉だった。
だれが言ったのか。充は顔を上げる。揺れ動く死体。一人でなんとか降ろそうと試みている道夫。なにもしない囚人たる衆人たち。
下呂を生産するだけの役立たずには、誰も関心を向けていない。
ただ母親の虚ろな目だけが、充を射抜いていた。
「真は、お前が殺した」
死体が喋るはずがない。だがその声は紛れもなく真の母親の声で。
真の母親は、飛び出した舌を左右に揺らしながら責め立ててくる。
「お前が臆病なせいで、お前がなにもしなかったせいで。真は死んだんだ。真はお前を信用していた。お前になら救えたはずなんだ。馬鹿なことをする前から、どうして真に気を回さなかったの? 真に寄り添ってあげなかったの? 知っていたんじゃないの。真が追い詰められていたこと」
知らなかった。
そう言おうとしても声は出せなかった。言葉は喉の奥で滞留し、やがて肺の中に汚れた空気となって消えていく。
これ以上の言い訳は許されない。
だって、救えなかったのはどうしようもない事実なのだから。
充は頭を抱える。髪をかき回しながら呻く。
母親の声は留まることを知らず、罵声と罵倒が心を刺す。
誰の耳にも聞こえぬ、充だけに届けられる怨讐。
目がくらむ。世界が歪む。アップテンポになっていく曲のごとく響く頭痛。
責め苦は続く。
「お前が死ねばよかった。お前が死ねばよかった。お前が死ねばよかった。お前が死ねばよかった。お前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がおまえがおまえがおまえがおまえが――」
――真を、返せ。
汚物に額をつけ、まるで土下座をするように充は苦しみ藻掻いた。
誰も、充を見ようとはしない。
「先輩先輩。遊びに行きませんか?」
まるでカラオケやゲームセンターにでも誘うような気軽さで、亜加子はそう言った。
真の母親の首吊り自殺が発覚してから、まだ五時間も経っていないのに。元凶たる亜加子は、そんなこと忘れてしまったかのように、ヘラヘラと笑っていた。完全に他人事だ。充が報告したときも、「処分しないといけませんね」と粗大ゴミの扱いに困ったとでも言いたげに、溜息をついていた。
人の心がない。
もはや良心が欠片もないから、情動に訴えかける言葉は一切届かない。充もさすがに憤りを覚えたが、意見をしたり怒鳴り散らしたりしても無駄だと分かりきっていたから何も言えなかった。学習性無力感というやつだ。徒労感しかない。
諦念に転がされ、充は膝を抱えていた。
何もしたくなかった。何も考えたくなかった。ふとした瞬間に、真の母親の罵倒が聞こえてきてしまうから。引き裂かれる真の苦悶の形相が浮かんできてしまうから。自分の中に閉じこもり、それらから逃避することしかできない。
亜加子に報告してから数時間、ずっとそうしていた。
「聞いてますぅ? そんなアルマジロみたいに丸まってないで、起きてくださいよ」
肩を揺さぶられる。だが、充は顔を上げなかった。
「せめて返事してくださいよ〜。彼女の言葉を無視するのは良くないと思うなあ」
「……」
「もー。私と遊びに行くのがそんなに嫌なんですかー? 元気がなさそうだから誘ってあげているのに」
誰のせいだ。充は心の中で罵倒し、歯ぎしりした。
お前が真を殺さなければ。真の母親も死ぬことはなかったし、充も苦悩と自責のあまり殻に閉じこもることはなかった。お前さえあんなことをしなければ。お前さえ、お前さえ。
無理やり首を引っ張られた。
逆さまの亜加子の笑顔が、視界を埋め尽くした。
「あははー。やっとこっちを向いてくれましたね」
声にならない悲鳴に、充の喉が意味もなく震える。
成人男性の頭の直径はありそうなほどの、巨大な瞳に見詰められていた。左半分の肉が膨れ上がった亜加子の貌に、花弁のごとく開かれた目が咲いている。瞳孔はブラックホールだった。その闇に吸い込まれ、身動きできなくなるのではないかと思えてくるほどに、暗く重たい。
微笑むのは、魔物だった。
ああ、そうだ。
そもそも沈黙する自由すら、与えられていなかった。
「行くでしょう? 私とデート」
止め処なく溢れ出る汗は、刻み付けられた恐怖の代謝だった。肯定の言葉が、胸で使える空気よりも先に口からこぼれ出る。満足そうに笑う亜加子。細められる凶悪な悪魔の目。
壊された真と、自分の姿が重なる。
気づけば、立ち上がって歩かされていた。
暗い廊下を引きずられるように進んでいく。足には、ほとんど自分の意思が籠っていない。億劫さと擦り切れた拒否感は、悪魔の絶対王政と恐怖政治の前ではブレーキにもなりえなかった。さながら、銃を突き付けられながら強制収容施設に向かう捕虜のような心境で。ただ麻痺した感情と空虚さと、地脈のように根付いた生存本能による行進でしかなかった。
これをデートと評する文学が、かつてあったか。
精神異常者が書いた手記でも読み漁れば、見つかるのか。
こんなものは、ただの暴力だ。
途中、何人かの生存者たちとすれ違った。彼らは一様に目を逸らし、連行される充に哀れみすら見せようともしない。たとえ一瞬でも目線を送ることすら厭うほど、関わることで被る不利益を恐れている。気まぐれな裁判官が、「法律」という名の圧政をどのように振るうか分からないから。彼らは、充とさほど変わらない健全な臆病さを発揮して、なんとか生き延びようとしているだけに過ぎない。責める権利は、ない。弟のように可愛がっていた後輩を見殺しにした充には、そんな資格はない。
春香がいた。彼女とは一瞬目が合って、すぐに目を逸らされた。悲しげに眉根を寄せ、何かに耐えるように唇を嚙んでくれていた。彼女だけだ。未だに充の人権を少しでも憂慮してくれる人間は。
やがて、辿り着いたのはエントランスだった。天井まで続く窓ガラスが、淡い光を余すことなく取り入れ、自然光を神秘的に見せる工夫を施された、礼拝堂のような雰囲気があった。だが、その薄皮一枚通ってきた光の先には、天国などありはしない。
亜加子は足を止め、充へと振り返った。
「……先輩。私の可愛い姿、見たいですか?」
質問の呈をとった強制が投げかけられた。充は首肯するしかない。下手をすると外に放り出されるかもしれいないからだ。
「そうですかあ。でも、ここにある服だとちょっとなあ。私の好きなメーカーがなくてですね。一番可愛い恰好を見てもらうことができないんですよ」
「……なにが、言いたいんだ?」
「駅前にあるんです。そのブランドのお店」
駅前。
その意味するところは一つしかない。
懸念が、思わぬ形で現実へとなろうとしていることに、充の全身が拒絶反応を示した。リードが伸びる限界まで後じさり、首に圧力を感じてもなお下がろうとした。四肢を千切られる真。臓物と血肉の雨。そして、花弁のように舞う天使の羽。あのときの光景が、鮮明に蘇ってくる。
「嫌だ」
気付けば、拒否が口をついていた。
「……は?」
「そ、外になんて出たくない」
「どういう意味です、それ?」
やや圧力を感じさせる声で、亜加子が訊ねてきた。
「ど、どういう意味って……。出たいわけないだろ。外には、奴らがウヨウヨいるんだぞ」
「ああ、そんなことを心配していたんですか」亜加子は、さも下らない話を聞いたと言わんばかりに一笑する。「大丈夫ですよ、私が一緒にいればあの子たちも襲ってはきませんから。分かるでしょう? ここが襲われないで済んでいる理由を考えれば」
このショッピングモールが、安全地帯となっている理由。
それは、亜加子がいるからだ。
外にいる化け物たちは亜加子のことを明確に恐れている。化け物たちと亜加子にどのような関連性があるのか充は知らないが、おそらくは類似する存在であることだけは何となく理解していた。群れで行動する野生動物と同じで、彼らの間には序列があるのだろう。亜加子は間違いなく、化け物たちよりも上位の存在だ。だから、化け物たちも亜加子のテリトリーには入ろうとしない。いや、入ることができない。
事実として一か月以上もの間、ここは一度も襲撃されずに済んでいる。
その理屈で言えば、たしかに亜加子と一緒にいれば襲われることはないのだろう。亜加子に助けられ、このショッピングモールに連れてこられたときもそうだった。
だが、いかに亜加子の言うことが正論だったとしても。
感情に折り合いがつくはずなどない。
外は怪物たちの楽園で、充にとっては地獄そのもの。化け物たちの息遣いが聞こえる中を歩かなければならない。そう考えただけで、怖気が止まらなくなる。
「わ、分かるけど……。でも、外に出るのだけは……」
亜加子が、人形のようにかくっと首を傾けた。
「……私の可愛い姿、見たいんじゃなかったの?」
「――っ」
黄色い目に射抜かれただけで、息が詰まる。
「嘘だったんですか? ねえねえ、どうなんですか?」
「あ……いや……う、嘘ではないんだ。でも、わざわざ外に行かなくったって、ここにある服だけでお前なら十分……か、可愛いし」
「……え?」
亜加子がぱちくりと瞬きし、首の角度を戻した。頬は桃のように赤く染まっている。
短い前髪を指先で弄びながら、ちらちらとこっちに視線を向けつつ、亜加子は言った。
「……そ、そうですか? ふうん」
突然の少女らしい反応に、充は戸惑いを覚えながら引きつった笑みを浮かべる。自分を「法律」だと信じてやまないイカれた殺人鬼は、充の思い出の中にあった天真爛漫な赤坂亜加子の姿と急激に重なり、まるでバグでも起こったかのように解像度を落としていく。
目の前にいるのは、なんだ。
愛らしいグロテスクな少女。
概念が、壊れていた。
「ああ……お前は元がいいからな」
気付くと、充はそんなことを言っていた。その言葉には何の温かみも乗っていなかったが、怪物には響いたようだった。さらに顔を赤らめ、俯く。
「ほ、褒めすぎですっ。なんなんですか急に……」
「……そういえば、お前に似合いそうな服を見つけていたんだ。よかったら、そっちを着てほしい」
本当はそんなもの見つけてはいない。だが、頭は充の感情を超えた速度で回転していた。とにかく外に出たくないという思いが、口から出まかせを射出させていく。
亜加子は、星をちりばめたような目で充を見つめた。
「え、ホント?」
「ああ。……絶対に似合うと、思うから」
「嬉しい……。先輩が、私のために服を……えへへ」
彼女を騙すことに罪悪感など欠片もなかった。ただただ、嫌な事態から逃れたいという積極的な思いしか在りはしない。
頬に手をあてて、落ち着かない様子で動く亜加子は少女の皮を被った毒虫にしか見えなかった。だが、その気持ち悪さに目を瞑ることが容易に思えるほど、充の胸中は安堵で軽くなっていた。心臓の鼓動は、まだ落ち着かない。
淡い光が、亜加子の白い肌を照らしていた。
喜ぶ彼女を、地獄の光が祝福しているかのように。
そして桜色の唇から次に零れ落ちたのは、呪いだった。
「でも、やっぱり――私が選んだ服を見てほしいな」
「え?」
「先輩が見繕ってくれたのは、もちろん嬉しいんですよ。でもでも、やっぱり私の好きな服も見てほしいなあって思うんです。だから、先輩が選んでくれたやつは今度にします」
「ちょ、ちょっと待てよ。……そんなの」
焦燥と恐慌にかられてなんとか繕おうとした言葉は、小さな人差し指で封殺された。乾ききってカサつく唇の上に、氷のように冷たい指が置かれたのだ。
亜加子の目は、笑っていなかった。
氷の指が、ナイフのように鋭く感じられる。
「行きましょう。駅前に」
微光が映し出す亜加子の影が急激に膨らんでいく。無数の手が、救いを求めるように伸びていく様は、神が生物を作り出す神話を表現した影絵のように荘厳だった。
充の唇が、激しく震えた。
「見たいですよね? もちろん」
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