第五章 二
二〇二二年、九月十五日。
すべての惨劇が始まり、すべての幸福が死に絶えた、運命の日。
ツクツクボウシが、まだ、鳴いていた。
茶川充は、あの日、飯沢駅のコンビニにいた。空手着の入ったカバンを持ち、購入した肉まんをかじりながら、親友の
空手道場にいくためだった。こうして駅前で待ち合わせをして、二人で空手道場に向かうのが、中学生の頃から続く充の習慣となっていた。二人で決めたのだ。練習をサボらず続けるために、顔を合わせようと。
帰宅ラッシュの時間だからか、駅前にはまだまだ人が多かった。疲れた顔で歩くサラリーマンたち、アイスクリームをもってはしゃぐ女子高生たち、ベビーカーを押す母親、ベンチに座って猫と戯れるおじさん。十人十色の風景が広がっている。彩度が落ち始めた太陽に優しく照らされて、なんでもない日常が祝福されていた。
充は、スマートフォンに目を落とす。「家についた。今から準備する」という透のメッセージが届いてから、ちょうど三十分が経っていた。充の家は駅の近くに家があったが、透の家は駅から離れた位置にある。そのため、いつも先に待ち合わせ場所に着くのは充だった。
透は今頃、自転車をこいでこちらに向かっているだろう。大層な金持ちのくせに、透は登校のときも習い事に向かうときも送迎には絶対に頼らない。そんなところが、実に不器用で透らしいと充は思う。
だから、こうして少し待つことも嫌いではない。
「……それにしても、寒いな」
充は独り言ち、腕を抱える。
まだ、九月中旬のはずなのに、急激に冷え込んでいた。体感では冬に入りかけたころくらいの寒さだ。半袖で来たことを、充は後悔する。
それにしても、変だ。家を出たときは、たしかに暑かったのに。こんなに一気に寒くなることなんてあり得るのか。
気づいたら、ツクツクボウシの声が聴こえなくなっていた。
充は、もう一度スマートフォンのロック画面を開こうとして、気づく。
圏外になっている。
「……」
電波が悪いのだろうか? 眉を顰め、充はスマートフォンの再起動を試みる。電源がついて、表示された画面を確認しても改善されなかった。
通信障害だろうか? 勘弁してほしい。現代っ子にとって、スマートフォンを封じられることがどれだけ苦痛か。これではTwitterのタイムラインが見られないではないか。
そうやって心の中でぼやいて、ため息をついたときだった。
後ろのコンビニが、急に暗くなった。
「……え?」
思わず背後を振り返る。眩しすぎるくらい輝いていたコンビニから、光が消え失せていた。中では中年の店員が、オロオロと客とレジを交互に見ている。
「……停電か?」
充は、辺りを見渡した。
コンビニだけではない。駅のネオンも、信号も、周辺店舗の店内照明も――灯りという灯りが一息で死に絶えてしまっている。信号がつかなくなり、困惑した様子のドライバーたちが車を止めて、窓から顔を覗かせていた。
何が起こったのか? 断線?
そんな声が、遠巻きに聞こえてくる。
その瞬間。
街が、灰色に染まった。
「――」
驚きよりも空白が生じた。
あまりにも唐突すぎて、わけがわからなかったのだ。橙色に彩られていた秀麗な街の情景は、一瞬でグリザイユに切り替わってしまった。雲がかかって日が陰ったとか、そんなレベルの話ではない。色が奪われた。そうとしか、表現のしようがない。
周囲からも、ざわめきが起こる。当たり前だがみんな、戸惑っていた。
だが、その混乱は、序章にも過ぎない。
遠くから、悲鳴が起こり始めたのだ。充は、驚いて声がした方向を見る。だが、視点は定まらない。次から次へと、声が増えていく。
なんだ、なにが起こっている?
「ねこ……カワイイ、ね」
ベンチに座って猫と遊んでいたおじさんが、急に声を出した。様子がおかしい。頭がやけに揺れている。猫もおっかなびっくりしたのか、どこかへ去っていった。
「カワイイ、カワイイ……カワ、イイ」
おじさんの頭が、膨らんでいく。
「カワイ――」
爆発した。
脳髄と血と肉が、内側から一気に解き放たれ、周囲を赤色に染め上げる。即座に反応できたものなどいない。一瞬の空白。やがて、それは恐怖の叫びに変わった。
「――きゃあああああああああああああぁっ!」
近くにいた女性が腰を抜かして、張り裂けそうなほどに声を震わせている。女子高生たちがアイスを落として、「え、なに! なにっ!?」と恐怖に満ちた表情で抱きあっていた。救急車、警察を呼べ。冷静ぶった声。混乱の極み。
へたり込んだ女性が、震えながら指をさす。頭が吹き飛んだおじさんの首から、何かが現れた。それは、巨大なムカデだった。うぞうぞと肉を掻き分け、不規則に無数の脚を揺らしながら現れたそれには、人間のような頭がついていた。
明らかに人智を超えたその存在に、再び全員が言葉を失う。
そいつは、腰を抜かした女性を見て、にっこりと笑った。
「――カワイイ、ネ。ネコ」
「……あ、ああああっ」
女性は見動きができず、小水を垂れ流していた。
だが、彼女に構う暇はない。
上から、巨大な何かが落ちてきた。救急車を呼ぼうとスマートフォンを耳元にかざしていた男性が潰され、コンクリートの亀裂とともに肉の花が広がった。スクランブルエッグのように潰れた内臓の破片と鮮血が、近くにいた人々を染めあげ、悲鳴を上げさせる。
落ちてきたのは、醜悪な怪物だった。爬虫類と、人間をかけ合わせたかのような化け物。無数の目玉がついた顔をゆらりと動かして、ひしゃげきった男性の身体から突き出た骨を引きずりだして、舐め回していた。
異常な光景。異様すぎる、光景。
「あ、あああああああああああああああっ! ああああああああああっ!!」
我に返った人々が、耳が裂けそうなほどの大呼を上げて逃げ回った。
「……なんだよ、あれ」
充は、後退る。
車が、お互いにぶつかりながら走り出した。クラクションが鳴る。鉄がぶつかり合う音が響く。ヘッドライトが割れる。罵り合う声。絶叫。
逃げ惑う人々。そんな憐れな人々を、嘲笑うがごとく、化け物たちが大挙として押し寄せた。地上から空から地中から、まるで神話の世界から飛び出してきたかのような怪物たちが現れたのだ。彼らを見た人々はさらに狂乱の声を上げ、絶望にへたり込み、泣き叫ぶ。
そんな無垢なる彼らに、化け物たちは一切の情けをかけず、襲いかかった。
ベビーカーを押していた母親が天使の羽が生えた化け物に攫われ、空の上で腹を引き裂かれていた。ベビーカーだけが虚しく転がり続ける。母親は、内臓を食われながらベビーカーに手を伸ばしていた。悲痛に満ちた叫び。慟哭。中年のサラリーマンが、空の上で脂肪だらけの身体を真っ二つに割かれた。抱きあって動けなくなっていた女子高生たちが、地面から現れた巨大な腕に掴み上げられ、何度も何度も駅の壁に叩きつけられていた。可憐な顔面の下顎から上が潰れてなくなるほどに。
阿鼻叫喚の地獄。
充は、過呼吸を起こしそうになるほど呼吸を乱す。
頭は真っ白なままだった。
「……夢、か?」
わからない。
いったい、何を見ているのか。
背後のガラスが割れた。
「わっ!」
充は前のめりに倒れ込んだ。慌てて後ろを振り返ると、破れたコンビニの制服を着た肉の塊が歩いていた。
「アハッハアハアハアハアハアハハハハ」
肉が揺れながら、嗤いながら、こちらに向かってくる。充は必死になって起き上がり、遮二無二走った。
「――ッ」
頬を撫ぜる風には、濃密な血の匂いが混ざっていた。死の予感が、充の身体を戦慄かせる。心臓が痛いほどに速まっていた。
逃げないと。
逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと。
――殺される。
「あ、あああああっ!」
だが、充ごときの足でどこまでも逃げられるわけがない。充は、なんとか身を隠せそうな建物へ逃げ込もうとした。
しかし、そんな充の前に、無常にも化け物が現れた。
「――ひっ」
そいつは、美しい女性の肢体をもっていた。だが、首から上は明らかに人間のそれではない。まるで、巨大な割れたザクロだった。鈍い光を孕んだその肉塊には、表情がない。目も鼻も耳もない。
「てし、としたあ」
どこから、発されたのか。訳のわからない言葉を吐きながら、そいつは異様に長い腕を充へと伸ばす。
「としたあ……てし……」
「ひいっ」
冷たい爪先が、充の首筋に触れる。まるで刃物を当てられたかのような怖気に、全身が総毛立った。
「ああああっ、透! 透、助けてくれええっ!」
「のいなれくてし?」
「透! 透っ!」
充は叫びながら後退ろうとして、気づいた。
自分に降りる、無数の影に。
周りを見渡して、絶望に呻いた。
「……ああ」
化け物たちの嘲笑う顔が、いくつも浮かんでいた。いずれも、形が崩れた醜悪な顔面からは、人間のそれとは比べ物にならないほどの粘性の唾液が零れ落ちていた。それが、充の頭にかかる。大量の片栗粉で溶かした汚水を浴びせかけれているかのような気分だった。鼻が腐り落ちそうなほどの異臭。
だが、心にあったのは、ただただ圧倒的な絶望だけだった。
食い殺される。それが、わかってしまったから。
「のるす……としたあ……?」
女の怪物が、なにかを言っていた。身体の震えが止まらない。どうでもいい。わからない。なにがなんだか。死ぬ? こんなところで。いやだ。死にたくない。まだ、なにもできていないのに。
「……透」
親友の顔が浮かぶ。大好きな親友。何度も羨望し、何度も嫉妬を覚えた大切な友達。
「ヨシ……?」
ざくろのような女が、ふたたび充に手を伸ばしたときだった。
女の顔面に、巨大な鉄塊が突き刺さった。
「……ア?」
女が鮮血を噴き上げながら、困惑の声を上げる。
女の頭に突き立てられたのは、錆だらけの巨大な鉈であった。人二人分くらいありそうなほどに長く、刃幅も分厚い。羆でも軽く両断できてしまえそうなほど、凶悪な迫力に満ちていた。
充は呆然と見つめる。
巨大な鉈が、女の頭に刺しこまれたまま振り下ろされた。
「キィヤアアアアアアアアアアッ」
聞くに堪えない断末魔を上げて、縦に割かれた女は左右に倒れ伏した。断面からでろりと零れ落ちた臓物は、黄色い腹膜を引っ張り、ぬめりのあるサーモンピンクの輝きを放ちながら、ゴミと化した。
間近で血を浴びた充は、わけもわからず鉄臭い異臭に包まれ、引きつった笑いをこぼした。
感情が迷子になっていた。情緒が調律を狂わせていた。ボレロが流れる。透が、教えてくれたクラシックの曲。まるで、ノイズキャンセリングイヤホンで聴いているときのように、ボレロの旋律だけが、充の頭を満たした。
女の身体を引き裂いたのは、巨人だった。包帯だらけの頭と、無数の目を持つ、三メートルは超えるであろう怪物。岩のような右手に握られている巨大な鉈を振るい、へばりついた脂と血肉を落として、巨人は嗤う。ボレロの音のように。
巨人が、踊った。鉈をステッキのように軽々と振り回し、充を囲っていた化け物たちを蹂躙していく。狂気の叫びが続いた。溺れそうなほどの血飛沫を浴びた。脂まみれの肉片が顔にへばりついてきた。口に流れた、血の味は、まるで溶けた砂糖のように甘かった。ボレロが流れていた。絶叫も遠くなるほどに。ずっとずっと。
コンクリートが砕け散り、外灯がひしゃげ、吹き飛ばされた怪物とともに車が弾け飛ぶ。巨人が、暴れ回る。やがて、曲はクライマックスに近づく。動き回る鉈の刃先が見えなくなるほど。
血が、流れ尽くした。
壮大な音をたて、ボレロが消えた。
「……」
「……」
後に残ったのは、巨人と充と、事切れた肉塊たち。蹂躙が終わったのだ。わずかに頬を撫でた風は、へばりついた血の匂いを流し落としてはくれない。
充は、呆然と化け物を見つめた。化け物も、充を見ていた。
殺されるのか、俺は。
充は、死を思った。
身体が一切動いてくれない。恐怖にさらされて神経が狂ったのか、言うことを聞かなかった。唇がずっと震え続けている。
化け物が首をかしげ、嗤った。どこから声を出しているのかも分からない。包帯の隙間からはみ出た手が、指が、頭が揺れるたびに開いたり閉じたりしていた。
「……ウフフッ、アハアハアハハハハッ!」
その笑い声は、筋骨隆々とした巨体に似合わず壊れたラジオから漏れ出す、明るい女性の声のようだった。不思議と、どこかで聴いたことがあるような気がした。
どこかで――。
頭に浮かんだのは、一人の少女。
「……亜加子」
天真爛漫を絵に描いたように明るく、少しばかり騒がしく、しかしそばにいるだけで元気になるような……そんな可愛らしい少女。
小動物みたいに周囲を癒やすあの子と、この残虐な巨人がどうして重なったのか。頭がおかしくなったのか? 自分のことが信じられなくなりそうだった。
だが、その呟きは、その言葉は、巨人を喜ばせた。
「……ア、ああああアアアァあああ! アアアアアぁあ!」
突然、巨人の目から大量の血が流れ出た。まるで感動のあまりに流す涙のごとく。喜悦に満ち溢れた声が、異様な情動の波を充の耳朶に嫌でも叩きつけてくる。足元に、血の池が更に広がる。死に絶えた化け物たちの血と混じり、死と法悦が一つになっていく。
化け物の目が、見開かれた。
「アァああ! わかってくレた! わかっテクれた! やっぱリ、私タちハ、通じあっテいるんダ!」
「……まさか」
そんな、わけがない。
そんなことあっていいわけがない。
だが、充の最悪な予感は正鵠を射ていた。
巨人の身体が、肉風船のように膨れ上がった。充が呆然としているうちに、肉塊はぐにゃぐにゃと形を変え、一瞬で収束した。
肉の粘土は、小さな美少女を形造った。スポーティな赤い短髪、琥珀色のくりっとした瞳、そして引き締まりながらも、柔らかさを感じさせる肉体。彼女は、裸だった。だが、そこにはエロティシズムは一切ない。身体が幼いとかそんな問題ではなく、触れてはならない神聖さが感じられたから。
紛れもなく、赤坂亜加子だった。充にとって、一番仲の良い異性の友達。大切な後輩。
だが、よく見知ったはずの彼女は、知らない誰かのように映った。
彼女の頬が、涙で赤く濡れていた。
「……やっぱり、充先輩は私の運命の人ですね。香澄ちゃんの言ったとおり」
「お前……なんで……?」
「あはは、びっくりしたでしょ? ごめんなさいね、迎えに来るのが遅くなってしまって。……まったく、香澄ちゃんも意地悪だなあ。明おじさんから奪った力、使いこなせてないなら言って欲しかったよ」
「……なにを言ってるんだ? わけがわからない。いったい、何が」
「後で教えてあげますから。今は、それより大切なことがあります」
「……は?」
「……私の『規則』に、従ってもらいます」
亜加子は、訳のわからないことを言うと、充の目の前に手をかざした。掌の部分から、ランタンのような淡い光が発せられる。そこから、天秤の形をしたシルエットが出現した。
「……なんだよ、それ」
「……契約です。私と先輩が、生涯添い遂げるために必要な……ね?」
「……」
一切、わけがわからない。頭が追いつかない。ただでさえ意味のわからない状況に、さらに意味不明なことが次々と重ねられるから、完全に混乱していた。
だが、これだけは何となくわかった。
あの天秤の光は、絶対にロクでもないものだと。
「……せんぱぁい、この天秤の前で誓ってください。そうすれば、あなたの命は私が保証してあげますから。安全なところにも、連れて行ってあげますよ」
「……ちょっと待てって。ついていけないんだ。そんなこといきなり言われても」
充の耳元で、岩を叩き割るような轟音が起こった。横に目をやると、鉄の塊しか見えない。視界を埋め尽くすほどの巨大な鉈。
亜加子の右腕だけ、巨大な腕に変形していた。視えなかった。形を変えるところすら。
黄色い瞳から、光が消えていく。
「……死にたいんだ?」
冷や汗が止まらない。
たったこれだけのやり取りで、二人の力関係がはっきりとしてしまった。あの天秤がなにかなんて、きっと知る由もない。それよりも、今はっきりとしているのは、亜加子に従わないと紙屑のように引き裂かれるという、残酷すぎる事実でしかなかった。
そこに、充の意思などありはしない。
亜加子が、微笑む。それはまさに悪魔の笑みだった。
遠くでは、まだ悲鳴が聞こえ続けている。そんな壊れかけている現実の中で、亜加子はさらに壊れかけた充を壊そうとしていた。
「……もう一度言います。この天秤の前で誓いなさい」
亜加子は、絶望を口にした。
「私の
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