第六章 三








「判決」


 亜加子の淡々とした一言が、中央ホールに響き渡る。冷たい眼差しは、スズメバチの体色よりも危険を孕みつつ、足元に転がる肥満した男へと向けられている。


「被告人を死刑に処す。控訴は認めない」


 悲鳴を上げる男。必死の形相で亜加子の足元にしがみつき、身体の肉を押し付けながら命乞いの言葉を並べている。焦燥からか、激痛に泣き叫んでいたせいか、ほとんどの言葉が崩れきって、意味を聞き取れなかった。


 男の両足からは、骨が突き出ていた。腕を巨大化させた亜加子が、叩き潰したのだ。爪楊枝を圧し折るかのように。ドス黒い鮮血が辺りを汚し、男が必死に逃げようとした痕跡を表すように赤く尾を引いている。


 誰も、助けようとしない。


 「傍聴席」に集められた生存者たちは、疲れ切った目でその公開裁判と公開処刑を見つめていた。


 助けてくれ、やめてくれ、なんでもする。


 同じ言葉が、何度も繰り返される。


 亜加子は、汚らわしいものにでも触られたように眉をひそめ、男を蹴り剥がした。


「……触るな、気色悪い」


 つばを吐き捨て、亜加子は続けた。


「……やめてくれ? よく、そんな都合のいい言葉を吐けるね。あなたさ、自分が何をやったのかはわかっているの?」


 男は聞いていない。助けてくれ助けてくれとひたすらに連呼している。


 誰一人、彼に対して同情の目を向けていない。


「あなたが葉月ちゃんにしたこと、わかっていないとは言わせないから。みんなが目を離した隙に、トイレに連れ込んで何をした?」


 亜加子が、掌を前に差し出した。そこからランタンのような光が広がり、天秤が現れる。天秤は、右に大きく傾いていた。


「死ね、ゴミ虫が」


「ひっ……ま、待って」


 天秤が眩い光を放ち――。


 その瞬間、男の崩壊が始まった。指先から少しずつ少しずつ。勝手に爪が剥がれ、指が反対方向に折れていき、腕が関節をいくつも増やされ、目玉が飛び出し、首が反り返り、背中が限界まで引っ張られた弓の弦のように曲がっていく。断末魔が、体の芯に突き刺さるようだった。


 充は耐えきれず目をそらす。


「せんぱーい、目をそらしたら駄目ですよ」


 リードを引っ張られ、忠告される。


 見るしかない。


 男は、球体になっていた。ボーリング玉ほどの球体に。折れ曲がり、圧縮され、肉と骨と脂肪と臓物を捻り潰しながらこの大きさになったのだ。当然生きてはいない。夥しい量の血が、凝縮されたオレンジジュースのように絞り出され、海となっている。脂ぎった鉄臭いジュースは、誰の口にも入らず、廃液と化していた。


「……あーあ、また着替えないと」


 亜加子は、返り血のついた服を指でつまみ、ため息をついた。


 そして、呆然と立ち尽くす葉月の方へと視線を向けた。蛇のような眼光が、幼い少女を震え上がらせる。傍に居た春香が、葉月を庇うように抱きしめた。


 にっこりと笑いながら、亜加子は葉月ちゃんに近づくと、頭に手を置いて撫で回した。


「もう大丈夫だよ〜。怖い豚さんは、いなくなったからね」


「……ひぅ」


「ああ……泣いちゃった。よっぽど怖いことされたんだね。ほんと許せないなあ。これだから男は……」


「あ、あの」


 春香が、緊張した様子で口を開いた。


「ん?」


「葉月ちゃん、いまナーバスになっているからさ……。できたら、そっとしておいてあげて欲しい」


「なんでですか?」


 目をパチクリさせながら亜加子が聴き返した。何を言われたのかわからないとでも言いたげな様子で。


「……なんでって」


「ナーバスになっているのはわかるんですよ。だからって、なんで私が近づいたら駄目なんですか? ただ慰めたいだけなんですけど。春香先輩はいいのに、私が駄目って理屈が通らないですよね?」


 亜加子はあくまで純真だった。悪意を持って、春香を詰めている様子でもない。大人の叱咤に、屁理屈を並べて反論を試みる子供のように、清らかな瞳をしている。


 そのあまりの清冽さに、春香は啞然としているようだった。


 無理もない。本当に理解できない存在や概念と出会ってしまったとき、人はあまりにも無力だから。


 亜加子にとって、殺人行為はあくまで正当な行いなのだ。「法律」に基づいているのだから、自分がしたことはまったく悪くない。そう、信じて疑わない。歪みきった正義感。歪みきった認知。会話が成立する相手ではないのだ、そもそも。


「ねえ、なんでなんですか? 教えてください春香先輩」


「……それは」


 春香の腕は小刻みに震えていた。不安が伝播したように泣きじゃくる葉月。


 神明裁判にも似た理不尽すぎる光景。


 だが、春香は唇をきゅっと噛んで、まっすぐに悪魔じみた裁判官を見つめた。


「……怖いからだよ。あんな残酷な行為を見せられたら、誰だって怖いに決まっている。葉月ちゃんはまだ小学生にもなっていないんだよ? 大人でも辛いことなのに、耐えられるわけないじゃん」


「……それってつまり、私が怖いってことです?」


 春香は言葉を何度か詰まらせながら、言った。


「……そうだね」


 明度を落とした瞳が、春香と葉月にかたみがわりに向けられる。巣の中にいるひなをどれから丸呑みにしようか、と言わんばかりの殺気がそこから漂っていた。


 いや、本人はきっと観察しているだけなのだ。それだけの行為が、力を持たざるものたちからすれば脅威に映ってしまう。


 さすがに見ていられない。充は重たい身体を動かして、亜加子に近づく。手が届く位置に入った瞬間、声をかけようと決心し、口を開いた。


「な、なあ」


「……なんですか、先輩?」


「……そのへんにしてやってくれないか? 葉月ちゃんも、色々ありすぎて混乱しているんだよ」


「先輩まで、まるで私を悪者みたいに扱うんですね」


「そ、そんなつもりはないよ。でも、葉月ちゃんが……」


 その時だった。


 堰を切ったように、泣きじゃくっていた葉月が叫んだ。


「もうヤダああああっ! このお姉ちゃん怖いよぉっ!」


「……」


「お母さん……! お兄ちゃん……! うあああああぁぁ」


「……亜加子ちゃん、お願い」


 取り乱す葉月を強く抱きかかえながら、春香が静かに告げる。怯えているだろうに。その言葉には、たしかな意志の強さがあった。


 あの亜加子が、珍しくたじろぐほど――。


「……どうして? 私は何一つおかしなことなんてしていないのに」


 黄色い瞳が揺れていた。泣き叫ぶ葉月をみて、明らかに動揺している。なぜ? 正しいことをしたのに。ぶつぶつと言いながら口元を手で抑える亜加子は、邪悪な輪郭が歪み、どこかロウソクの火のような不安定さすらあって。


 一欠片の人間らしい弱さが現れている気がした。


「……ごめん、亜加子ちゃん。ちょっとここから離れるね。葉月ちゃんを落ち着かせたい」


 春香の言葉に返事はなかった。


 独り言を繰り返す亜加子を遠慮がちに見ながら、春香は葉月を抱えてその場を去っていった。痛々しい悲しみを帯びた泣き声が、フェードアウトしていく。


 やがて、無音になる。


 水滴の音さえ聴こえてきそうなほどの沈黙の中で、亜加子は俯いたまま黙っていた。地雷を目の前にしているときのような、触れたら爆発するのではないかという不穏さに、充は息を呑む。


 口を閉ざし、表情を隠した亜加子が何を考えているのかまったく分からない。この地獄が始まって以来、殺人鬼に豹変した彼女が動揺した姿なんて初めて見たからだ。手を伸ばし、肩に触れるべきなのか。しかし、かける言葉がまったく思いつかない。下手に刺激して春香たちに危害が及ぶような事態になることは避けたい。このまま放っておくべきなのか。


 充が、次の行動に逡巡していると、亜加子がゆっくりと顔を上げて、春香たちが去っていった方向へと首を巡らせた。


 どんな顔をしているのか、充のいる場所からはわからない。


 亜加子がぽそりと声をこぼした。


「……もう、いいや」









 充の自由は、亜加子の気まぐれで保障される。


 急に、リードを外されるのだ。真の母親が首を吊っていたあのときも、そんな感じで放し飼いにされていた。


 なぜそんなことをするのか、充にはわからなかった。あの怪物の思惑は杳としれないし、仮に思案を覗き見ることができる方法があったとしても知りたいとは思わない。普通じゃない論理がそこにはあるだけで、疲弊させられることが目に見えているから。


 充は、フラフラと歩いていた。


 靴を踏む音が、耳が痛くなるほどの静寂に包まれた廊下に響いている。虚しい音だ。どうしてこんなにも仄暗く、寂しいのか。窓を通る薄い明かりが、充の行く先を茫漠と照らし出し、先行きの不透明さを暗示する。


 真が、破壊された場所をとおった。


 思い出しただけでも吐き気がするのに、どうして自ら現場へと近づいたのか、自分でも見当がつかなかった。窓に張り付いた乾いた血。真の残骸は今はなく、寂れた名残があるだけだった。


 案の定、記憶が溢れた。充は頭から血の気が引いていくことを明確に感じ、迫り上がる胃に押されるように、うっと声をもらした。幸いなのは、吐き出すものがないことか。あれ以来、食事が喉を通らないことが増えたのだ。本当は腹が空いて仕方ないはずなのに。


 やがて、衝動と気分の悪さが落ち着いてから、充は壁に背を当ててずるずると腰を落とした。ぼうっと外の世界を眺める。汚い粉雪が降りしきり、駐車場が水墨画を思わせる灰色に染め上げられていた。


 だが、そこには芸術的な品性や美しい思想が欠片もない。素人が見様見真似で描いた作品よりもずっと、感性が死んでいる。


 真は、こんな酷く醜い場所で死に至った。


「……真」


 そうだ。


 充は、真に会いたいと思ったのだ。


 だが、真の姿はどこにも見当たらない。当たり前だ。死んでいるのだ。いるわけがない。化けて出るなんてことはないんだ。家電量販店で見た彼は充の作り出した幻影に過ぎない。


 でも、幻影でも良かった。


 ここなら、会えるのではないかと期待した。だが、なかなか幻影は姿を現さない。都合よく願っても、現れてはくれないのか。


 真よ。


 お前に、どうしても言わなければならないことがある。だから、来てくれないだろうか。ほんの一時でいい。


 お前に、謝らなければならない。

 

「……ここにいたんだね」


 真の声ではなかった。年輪を重ねたしわがれた声。


 ゆっくりと顔を上げると、山吹道夫がいた。疲れ切り感情の死んだ表情で、こちらを見下ろしている。精根尽き果てたといわんばかりに、その顔は老けていた。この数日で、十年は年を重ねたかのように。


「……探したよ。赤坂さんが一人で外出していたのを見たからね」


 充は、目を逸らしていた。道夫の顔を見ることができない。鉛を吊り下げられたかのように首が重たかった。罪悪感の重さだ。


「君と、どうしても話したかった」


「……」


「……わかっているだろう? 僕が何を言わんとしているか」


 充は何も言わずただ頷いた。


「春香ちゃんは、僕の……僕たちの光だった」


 道夫が、苦しげに言った。


「……彼女の存在が、彼女の明るさが、彼女の強さがどれだけ僕たちを救ったか。こんな地獄よりも酷い日々の中でも、どうにか正気を失わず生きてこられたのは、彼女のような光があったからなんだ。……君にとっても、それは同じだったはずだ」


「……」


「……たぶん、僕は春香ちゃんを娘と重ねていたのだと思う。行方知らずとなった娘と……ね」


 道夫の娘は、ここにはいない。逃げる途中で離れ離れとなり、そのまま消息を絶ったのだと道夫が言っていた。その言葉の意味するところは考えるまでもない。


 この世界での行方不明は、死と同義だ。


「本当に、良い子だった」


 淡々と抑えられていた声に、だんだんと感情の波がこめられていく。


「本当に、良い子だったよ。なのになんで……なんでなんだ。どうして春香ちゃんは死ななければならなかったんだ? 彼女は絶対に悪いことはしていない。ただ、誰かを助けようと動いた結果だった。それがどうしてあんなことになるんだ。あんまりだよ。いくらなんでも、酷すぎる」


「……」


「……君が悪くないことはわかっている。仕方なかったことなのも十分に理解している。だが、それでも僕は君を許せない」


 充の肩が震えた。


 口を何度か開こうとして、思い浮かんだ言葉を頭の中で空転させて、そうして何も言う権利がないことに思い至り、口を閉ざす。


 罪悪感は重く、重く、重く、重く、重く、重く――。


 充のすべてを圧し潰す。


「といっても、僕も何もできなかったが……。君を責める資格は、本来はないのだろう。でもな……それでも僕は、君に死んで欲しいと思ってしまっているんだ」


「……そう、ですか」


「許してくれ。こんなことを言わなければならない僕の弱さを」


 謝る必要はどこにもないのに。


 すべては自分と亜加子が犯した大罪だというのに。どうして、なんの落ち度もない道夫に頭を下げさせているのか。


 道夫の方へと目を向けた。


 彼の顔を見た瞬間、鋭く刺すような後悔が激痛へと変わっていく。


 それは「慟哭」という名の、痛々しい絵画だった。


「……疲れたよ、僕は」


 彼は何かを懐から取り出して、首にあてがった。包丁だと気づいた瞬間、戦慄が稲妻のように走り抜け、充は立ち上がった。


 だが、遅かった。止めようと充が手を伸ばした瞬間、道夫の頸動脈から夥しい量の血が間欠泉のごとく噴き上がった。


 道夫が倒れ、血の豪雨が充を汚す。


「……あ、あああああっ!」


 半ばパニックになりながら充は服を脱いで、道夫の首にあてがったが、傷が深すぎるせいか溢れ出す血の勢いは止まらない。必死になって押さえても、どうにもならない。


「死ぬな、死なないでくれ!」

 

 叫びはもう、道夫には届かない。光のない目が、天井を見つめている。老け切り、何かに取り憑かれたようになっていた彼の顔から、力が抜けていく。


 最後は穏やかに笑った。


「……み、か」


「おじさん! おいっ! おじさん!」


 肩を揺すっても、もう反応はない。ほんの十秒くらいで、一つの命が消えてしまった。魂の失せた身体からは、血が流れ続けている。命の名残を絞り出すかのように。


 充は、赤黒く染まったシャツを手放して脱力した。天井を見つめる。驚くほどに静かで、残酷なほどに空気が冷えていた。鉄臭さが、鼻腔に纏わりついて離れない。どこからか顔に落ちてきた紅い雫が頬を伝い、口中へ流れてくる。不思議なほどに、甘かった。


 気づいたら拳銃を取り出していた。


 銃口がこめかみに吸い寄せられていく。


「……」


 死にたい。


 絶望で混乱した思考が導き出す結論は、いつだってシンプルだ。ただ、純粋に曇りなく救いを求める。そうして見えない何かに導かれるように、死へ至るのだ。


 だが、充は死という逃避さえ許されていなかった。


 わかっているのに。わかりきったことなのに。


 彼は、引き金を弾いた。


 カチン、と虚しい音が響いた。空転するシリンダー。引き金をまた弾いた。空転。弾いた。空転。弾いた。空転。空転空転空転空転空転空転空転空転空転――。


「ああああああああああっ!」


 泣きながら、弾き続けた。


 弾のなくなった銃を。


 死ねなかった。


 五発の弾丸。春香が死んでから、三度死のうとした。今のようにこめかみに銃を押し当てて。たしかに三度、爆発音を聴いた。頭が爆ぜる衝撃も感じた。意識を失った。


 それなのに何故か、


 死ねなかったのだ。銃弾を頭に撃ち込んだにも関わらず。わけがわからなかった。信じられなかった。拳銃を扱うのが素人でも、ゼロ距離から外すわけがない。事実、撃った後は脳漿と血が撒き散らされた跡があった。それはつまり、死んだのに死んでいないという、この世でもっとも考え難い矛盾した結論の証明に他ならない。


 死にすら、拒絶された。


 救いなどどこにもなかった。


 充は言葉にならない叫びを上げながら、拳銃を投げ捨てた。


「……透ぅ」


 頭の中に浮かんだ想い人の笑顔は、黒く滲んでいた。


 かつて充のヒーローだった男は、もう曖昧な世界の住人だった。


 そんな彼に、縋り付くように懺悔を口にする。道夫の残した包丁を手に取りながら――。


「……俺は、人を殺したよ」




 




 

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